その瞳で見てきた全てのものに


 死期が近づくと猫は人間の見えないところに行くと言われている。だけどうちの子はそんなことなかった。

 もう二十歳で、人間の歳にすると九十六歳にもなるうちの子ティコろんは、その歳になってもわがままで甘えた猫で、ずっと私たちのそばにいた。


 ティコろんは数年前から慢性腎臓病を患っていた。腎臓病は老齢期の猫での発症が多く、ある報告では十五歳以上の猫の八十一パーセントが慢性腎臓病を患っているという。

 だからティコろんの歳であれば、どんなに普段の食生活に気をつけていても、どんなに動物病院で定期的に診てもらっていても、腎臓病になることは、ほとんど自然なことだった。

 同じ飼い猫のぷっぷも肝臓病と腎臓病を患っていて、つい半年前に虹の橋を渡ったのだった。あの子は最期までとても強い子だった。



 慢性腎臓病は、長い年月をかけて徐々に腎臓の機能が低下していくため、なかなか初期症状に気付きにくい。

 腎臓では、身体の中で不要となった老廃物や毒素を尿と一緒に排出させる機能や、血液中のナトリウムやカリウムなどのバランスを調整する機能などがある。腎臓が弱って、それらの機能が十分に働かなくなってくると、まず初めの症状として現れるのが、「多飲多尿」である。腎機能が衰えてくると、尿を濃縮することができなくなり、薄い尿を大量にするようになる。それにより体内の水分が不足し、水をたくさん飲むようになるのだ。

 だけど、この症状が出た時にはすでに腎機能の半分以上が失われている状態なのだ。


 ティコろんは、ぷっぷと一緒に動物病院で定期的に血液検査をしていた。クレアチニンやSDMAといった数値が高いと腎機能が低下していることが分かるため、多飲多尿になる前、まだ食事もできて自ら歩ける元気な頃から、獣医師の勧めで腎臓病予防を始めていた。


 具体的には、水分補給ができるようにウェット系のフードや腎臓に負担がかかるリンやナトリウム、タンパク質を抑えた療法食を与えたり、複数の水飲み場を作り、普段から水分補給ができるようにしたり、飲み薬をあげたりしていた。

 グルメなティコろんは、美味しくないご飯は食べてくれない。鼻先でクンクンして、一口舐めてみて興味がなかったらプイッとそっぽ向いてしまう。

 獣医師と相談しながら、腎臓に負担がかからないフードをあれこれ探した。

 そうして腎臓病の予防をしたり、進行を遅らせる処置をしていた。



 それでも腎臓病は進行していくもので、一年半ほど前からは食欲がなくなってきてしまい、それによって体力も落ちていき、一日中同じ場所で寝ていることが多くなってきた。

 当然、体内の水分量も減っていて、それによって腎臓病の進行をさらに早めてしまうことから、水分を補うため毎日、自宅で点滴をすることになった。

 動物病院で獣医師による点滴方法を教わり、その夜から自分たちでティコろんに点滴することになった。


 一日の足りていない水分量を、輸液剤として皮下点滴で体内に取り込むのだ。だけど、その輸液剤が多すぎると、今度は肺に水が溜まってしまうこともあるようで、量は様子を見ながら決めていくことになった。

 皮下点滴というのは、言葉通り皮膚の下に点滴をするもので、猫の首筋の皮膚をつまんで、そこに注射針を刺して点滴をする。


 点滴方法は獣医師から三つ教わった。一つ目は高いところに輸液剤を設置し、そこに直接、管を通し、翼状針という針を皮下に刺して点滴をする方法。人間がする一般手的な点滴のイメージに近い方法だ。翼状針は針が細く刺しやすく、刺した後にも部位がズレないメリットがある反面、輸液剤の投与には、ポタポタと一滴一滴、点滴していくので十分くらいかけて行い、時間がかかる。


 二つ目は必要分の容量を輸液剤から注射器に移し、直接注射針を刺して投与する方法だ。翼状針と比べ針は太く、刺した後も部位がズレないように気をつける必要があるが、注射器から直接注入するので、投与時間は三十秒ほどと、大幅に短縮することができる。


 そして最後の方法はこれら二つを掛け合わせた方法だ。輸液剤から注射器に必要分を移し、皮下注射する際には、翼状針を利用する、と言ったものだ。翼状針なので皮膚には刺しやすく、注射器から投与するので時間も掛からない。一方、片手で翼状針を抑え、もう片手で注射器を持つ必要があり、両手が塞がってしまうのがデメリットだ。


 獣医師は、素早く済ませられる二つ目の方法を勧めてきたが、太い注射針をティコろんに刺せる自信がなく、まずは、一つ目の方法で行うことにした。

 輸液剤が体内に素早く吸収できるように、電子レンジで少しだけ温める。ティコろんが逃げ出さないように、クッションの上に寝かせる。輸液剤と翼状針の準備ができ、いよいよティコろんに針を刺す。細い針とはいえ、針には変わりない。

 獣医師に言われた通り、ティコろんの首筋をつまみ、そこに針を入れた。ティコろんはビクッと身体を震わせた。痛かったのだろう。ごめんね、と謝る。

 ティコろんが逃げ出さないように優しく抑えながら、点滴が終わるのを待った。


 

 そうして食事療法と点滴による水分補給、それから飲み薬での治療を続けていたのだけど、三ヶ月前には、ついに動きが見るからに鈍くなってきて、身体もかなり痩せ細ってしまった。皮下注射するにも骨と皮だけで、針を刺した先から貫通してしまうのではないかと思うぐらい脂肪がなくなってしまった。

 ティコろんに極力負担がかからないよう点滴方法を変えたり、飲み薬を細かく砕いて投与したり、獣医師とも相談しながらいろいろ試した。



 そして四日前の夜。もうほとんど食事もできなくなっていて、もうほとんど歩くこともできなくなっていて、お気に入りのソファでほとんど一日中寝ているティコろんが、ヨロヨロと歩きながら私の布団のもとにやってきた。そして私を見ながら、小さく鳴いた。久しぶりに聞いたティコろんのその鳴き声は、とても心細く、とても切なく、とても甘えていた。

「ティコろん。どうしたの? 痛いの? 大丈夫?」

 少し歩いただけで疲れてしまったようで、ティコろんはその場に、ころんと倒れてしまった。

 息が荒くなっていた。


 それからティコろんは動けなくなってしまった。食事も水分も一切取れなくなってしまった。お気に入りのソファの上に寝かせてあげてるのだけど、もう視点が定まらずに、どこか虚な目で空間を見つめていた。息もすごく荒く、時折、苦しそうに咳もしていた。


 獣医師に連絡して容態を伝えたところ、もう長くて二、三日ではないかと言われた。

 いつか、この時が来ると分かっていた。だけど怖かった。半年前にもぷっぷを亡くし、また同じことが起こると思うと苦しかった。

 ティコろんの苦しそうな顔を見る。

 ご飯を食べて欲しい。だけど無理にあげて身体の負担になってほしくない。水をとって欲しい、皮下注射だけでは水分が圧倒的に足りていない。

 寒くないように毛布をかけてあげる。

 何もできない。

 見守ることしかできない。だけど、それすら、ティコろんのそばに人がいることですら、猫にとっては負担になってしまうのではないか。

 どうしたらいいのか分からなかった。


 会社を休み、ティコろんから少し離れたところで見守る。今までは甘えたのティコろんの方が、私のもとにやって来てくれるのに、今はもう動けない。

 夜が明けて、息をしていなかったらどうしようと不安になる。

 だけど一緒に寝て、寝返りでも打ってティコろんに当たってしまったらと思うと、そばにもいることすらも躊躇う。

 今思えば、あの夜、ティコろんは最後の力を振り絞って私のもとに来てくれたのかもしれないと思った。

 二十年間、一緒に過ごした思い出が蘇ってきた。



 ティコろんは前足を怪我して捨てられていた。獣医師に「足の傷が深くて、野生でやっていくのは厳しいですね」と言われ飼ったのだけれど、元気に育った。

 いつもお兄ちゃんのぷっぷと仲良く暮らしていた。ふたりでべったり寄り添って寝ていた。半年前にぷっぷがいなくなった時、ティコろんは動かなくなったぷっぷを見て、鳴いていた。

 グルメな子だった。鶏肉を食べたくて水炊きしていた鍋に手を突っ込んでた。フライドチキンも好きだったな。匂いだけですぐに反応して「くれくれ」言っていた。

 窓の外を見るのが好きだったな。空や鳥を見て過ごし、眠くなったら丸くなって寝ていた。


 またたびも大好きで、爪研ぎ板にまたたびを振りかけてあげると、まるでお酒を飲んだように身体に擦り付けて喜んでいた。

 ひとりでいることが嫌いで、いつも目の届くところにいたっけ。

 ティコろん、そばにいるからね。痛いけど、苦しいけど、頑張って。



 身体が冷たくなってきていた。なんでもいいから食べられるもの、水分取れるものを与えてあげてと電話で獣医師に言われた。

 大好きなスープ系のウェットを鼻先に近づけたものの、ティコろんは口にしてくれなかった。ささみを湯掻いたものやマグロを口元に持って行ったけれど、やはり食べてくれなかった。

 それから、フライドチキンをデリバリーで注文した。

 ティコろんの身体のことを思って、小さい時以来ずっとあげていなかったフライドチキン。匂いだけですぐに反応したフライドチキン。これだったら少しは食べてくれないかと期待した。

 とにかく今は何か食べてもらわないと。

 衣の部分を剥がした鶏肉を鼻先に持っていく。クンクンと匂いを嗅ぐ。そして、舌を出し、ペロリと鶏肉を舐めた。だけど、それだけだった。食べてはくれなかった。



 そうして皮下点滴だけ続けて三日が経った。

 ティコろんは苦しそうに全身で息をしている。でも、その息も荒さはなくとても静かな息になっていた。

 だらりと出した手を優しく握ってあげる。


 ティコろんは虚な目で私を見つめた。

 そして、見つめたまま、静かに息を引き取った。


 私たちのそばにずっといてくれて、ありがとう。

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