猫まわし

 操作盤のボタンを押し、卓上のラジアルボール盤の電源を入れると、慣れ親しんだモーター音が静かに工場内に音を奏でた。

 正雄まさおはラジアルボール盤にワークと呼ばれる金属部品を置き、送りハンドルに手をかける。金属部品の大きさは一センチにも満たない小さなものだ。その部品は実に複雑な形状をしており、立方体に歯車のようなものや鋭利状になったものが組み合わされている。


 正雄はゆっくりとハンドルを下げていくと、回転するドリルがワークに触れた。

 キーンと、歯医者で聞くような高い金属音と共に、金属部品が削られていく。この道六十年の熟練の技で部品に小さな窪みができた。この後の加工においてドリルの食いつきを良くし、素材を支えるために必要な「センター穴加工」である。


 正雄は一旦ハンドルを上げて回転を止めると、作業台の横にある収納箱の中に入っている数十種類のドリル刃の中から一つを手に取った。

 もはや彼はドリルのサイズを見なくてもどれが必要なのか分かっている。

 チャックキーを回し、取り付けてあるドリル刃を外し、新しいドリル刃を取り付ける。その一連の作業は身体が覚えているのか、実に手際のよくリズミカルな動きだ。


 再びドリルを回転させると、送りハンドルを下ろしていき、先ほどの窪み位置に、ドリルを当てた。ハンドルを上下に細かく調整しながら、ドリル刃を金属部品の奥へと押し進めていく。

 穴の周りには、小さな破片や粉塵になった鉄の切屑が散っていく。そしてものの数秒で金属部品に穴が貫通した。今度はネジ穴を開けるための「下穴加工」である。


 わずか数ミリの小さな小さな穴である。その穴を、もうすぐ傘寿となる正雄は寸分の狂いもなく開けることができるのだ。

 彼は再びドリル刃を手際よく交換すると、先ほど開けた穴にまた刃を入れた。すると、穴の開口部分に角度がつき、みるみると開口部のみ穴が広がっていった。開口部の鋭利な箇所を削り落とし角を取る、「面取り加工」だ。これをすることで部品破損の防止や組立性の向上に繋がるのだ。


 そうしてまたドリル刃を交換し、最後の仕上げである「タップ加工」に移る。

 タップ加工は、穴の中に雌ネジという螺旋状の谷間を作る加工だ。これがあることでネジが留まるようになるのだ。

 彼は慣れた手つきで迷いなくドリルを入れると、穴の中から螺旋状の切屑が出てきた。これで完成である。


 正雄は加工した複雑な形のワークを手に取る。国の宇宙開発団体から請け負ったもので、月面探査機に使われる部品だそうだ。

 その部品を百円ショップで買った小さなタッパーに入れ、作業場の隣の事務所に移った。


 事務所には事務机が四つ島状に並べてあり、その横にはパーテーションで区切られた簡易的な応接間――そこには使い古された革張りのソファと、ガラステーブル、亀山モデルの一昔も二昔も前の液晶テレビが備え付けられている――、そしてさらにその奥にはパーテーションで区切られたこれまた簡易的な給湯室がある。


 そして反対側には、扉四枚分、大きく外へと開け放たれた軽トラが停まっている軒下の駐車場に直結している。


 ここは東京都大田区雑色にある小さな町工場「アキ製作所」だ。従業員は正雄も含めてわずか四人。平均年齢は六十六歳。帳簿担当で妻の晶子あきこと、正雄と同じく加工担当の息子の清志きよし、それから雑務全般を行なってくれている二十年来の付き合いの信太朗しんたろうさんだ。


 ホームページもなければ、事務所の看板すらない。金属部品への穴あけ加工だけを六十年ずっとやっている製造業だ。社名の「アキ」は穴あけの「あけ」と、妻の名前から取っている。

 穴あけに使う機械も、二十年近く前のものを使っているし、中には昭和五十四年製造のものだって現役だ。錆びた鉄と油の匂いと、年季のこもった相棒たちだ。

 より精密に穴あけ加工ができるマシニングセンタの導入も考えたこともあるが、正雄には操作が難しく感じ断念した。


 しかし精密機械に負けず劣らず、正雄の腕は確かなもので、宇宙産業や航空産業、自動車やロボティクス産業などの名だたる大手メーカーがアキ製作所に依頼をしてくるのだ。

 それは長年培った正雄の職人技の他にも、アキ製作所では大手製造工場では引き受けないような、たった一つだけの部品の発注を得意とする、いわゆる多品種単品製造であることが、多数の取引先を抱え長く創業できている所以なのだ。


 事務所で一服していると、机の上に置いたタッパーの中身を工場長がじっと見つめていた。さながら品質チェックのようだ。睨みを利かせた細く鋭い目で部品を観察している。

 タッパーに入った状態の部品を、上から横から、斜めから吟味するように見つめている。


 いくらかその動作を繰り返した後に、目をさらに細めた。そしてタッパーの角に顔を擦り付け、自分の匂いをマーキングした。品質OKのサインである。工場長の厳しい品質チェックが無事に完了した。と、いっても実際の品質チェックは正雄がしっかりしているのだが。


 そう、工場長とは猫のことである。この猫は、二階が居住スペースであるアキ製作所で飼われている猫、というわけではなく、この町工場周辺に住み着いている半野良猫だ。名前は工場長、推定年齢は十六、七といったところ。毛並みに黒と茶色のミックスで、みんなご飯を与えすぎているのか、ぽっちゃりした体型である。


 正雄の向かいに座って帳簿関連の業務をしていた晶子が立ち上がった。するとタッパーにマーキングをしていた工場長は、晶子の動きを目で追い始めた。そして何かに気がついたのか、にゃあにゃあと鳴き出した。

「飯。飯だ。飯早くくれ」


 ぽっちゃり体型の工場長は、身体だけでなく顔も相当なぽっちゃり丸顔で、目が埋もれるくらい余分な肉がついているのだが、この時ばかりは眼球が丸いことを気付かされるくらい大きく目を見開きながら、食事を要求する。


 正雄は「今日も元気だなあ」と言いながら、工場長の背中を撫でてやるが、工場長は一切見向きもせずに晶子が入っていった給湯室のパーテーションを、じっと見ながら激しく鳴いている。


 猫缶の開ける音が聞こえると、工場長の鳴き声はますます大きくなった。だがしかし工場長はその場から動こうとはしない。正雄の横、テーブルの上に座ったままである。晶子がご飯を持ってきてくれるのを待っているのだ。実に猫らしい。

 少しでも動けば運動にもなるのだが、そんなことは工場長には関係のないことである。


 程なくして、晶子がウェットタイプのご飯を工場長の前に置くと、さっきまで機械の警告音の如く騒々しかった鳴き声がぴたりとなくなり、黙々と食事を始めた。目を細め美味しそうに食べる。

 新品の皿のように綺麗さっぱり食材が一つも残らずペロリと食べると、軽く毛繕いをした後に、テーブルから飛び降り、のそのそと開け放たれた入口から外へと歩いて出ていった。

 すぐに横にならないだけまだましかもしれない。


 それと引き換えに息子の清志が作業場から戻ってきた。手には三つの部品が入ったタッパーを持っていた。

「おぉ、出来たか」

 正雄がタッパーを開け、部品を一つづつ手に取り、その出来具合を確認している。

 工場長ほどしっかり見ずに「よし、オーケー」と言った。長年の経験がものを言う。


 清志は応接間のソファに座ってタバコを吸い、テレビのワイドショーを見ながら、正雄に軽く頷いた。タバコを持つ手が震えている。

 清志は四十三歳の頃、労災に遭い、その影響で利き腕に痺れが残るようになった。そのため正雄のような極めて細かい部品への穴あけができず、それよりも大きな部品の穴あけ加工を全て請け負っている。加工件数は正雄よりもずっと多いが、黙々とこなし、しかも腕の痺れの影響を感じさせない完成度だ。

「じゃ、ちょっと行ってくる」

 正雄は自分と清志の作った部品を手に持ち、外に出かけた。


 アキ製作所から歩くことたった三分。目的の「小西精工」に着くと、そのまま作業場に入って行き、正雄と同世代の男に「よろしく」と部品を手渡した。

 小西精工では金属研磨を専門で行っている。機械では出来ない千分の一ミリ単位の研磨技術を持っているのだ。

 穴あき加工専門のアキ製作所で作った部品は、小西精工で研磨される。そしてその後、また別の近所の町工場でメッキ加工が施される。正雄の元に来る前にもまた別の町工場で金属切削が施されているのだ。


 仲間まわし。この地域に昔からあるやり方で、近所の町工場同士がそれぞれ専門技術を用いて、一つの部品加工をしていき、最終製品を作り出すのだ。

 狭い地域に技術が集結し、徒歩で行ける距離で迅速に加工ができる。これが大手製造メーカーにも負けない力となり、その結果、国内外の宇宙・航空産業から指名を受けるプロ集団へと育ったのである。



 帰り際、陽のあたる窓辺で、工場長がお気に入りのクッションで丸くなって昼寝をしているのを正雄は見かけ、立ち止まった。工場長のルーティンだ。切削作業所で寝泊まりをし、正雄の穴あき加工所で、昼ごはんを食べ、研磨作業所では昼寝をし、メッキ作業所では夜ごはんを食べ、暗くなったらまた切削作業所に戻る。 


 そしてその全工程で、工場長は部品の品質チェックを請け負っている。丸顔の脂肪に埋もれた鋭く厳しい目で、しっかりとあらゆる角度で部品を凝視するのだ。

 それが終わるとタッパーの角に顔を擦りつけて品質チェック通過だ。

 でも、猫だから毎回やるかというとそう言うわけではないし、しっかり凝視してみているようで抜け漏れもある。まあ猫だから仕方ない。本当の品質チェックは人間がしているからそれでいいのだ。


 それに工場長と言う名前だが、作業場には鉄粉や塗装剤など危険物や有害なものがあるので、どこの現場にも一切入れないし、入ってこないように各々対策を取っている。まあ猫だから仕方ない。現場は安全第一だ。


 猫まわし。こうしてこの地域の町工場では、みんなで猫を見守り、猫は猫で、各々を巡っては癒しを与えているのだ。この癒しが製品の精度向上に繋がっているのかそうでないかは、定かではない。 

 だがこの街も工場長とともに十六、七年育ってきた。



 工場長もだいぶ高齢になったな、と寝顔を見ながら正雄は思った。

 猫も高齢だが、人間の高齢化もかなり進んでいる。

 後継者難やコロナの影響での需要減もあり、ここ数年、長年苦楽を共にした近所の製造業のいくつかが廃業している。


 地味で暗いイメージがあり、若者がなかなか来ない。若者を誘致しようと行政と共に街全体で取り組んでいるが、まだまだ課題は多い。

 正雄もいつまで働けるか分からない。アキ製作所は息子に継ぐことになるが、正雄との技術の差に不安もある。


 実は正雄は今、息子が導入したがっていたマシニングセンタの導入を考えている。

 息子と信太朗さんにアキ製作所を任せようと思っている。日本の、世界の産業を支えている町工場が廃れていかないよう、仲間から仲間へ、世代から世代へと次のバトンを渡さなければ。


 正雄は目を細めて熟睡している工場長を見つめながら、そう思った。




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