彼女と猫、と僕


 彼女と猫が、僕の家にやってきて一時間経ったが、でぃーちゃんはいまだに慣れてくれず、カーテンの隙間から片目だけを覗かせながらこちらの様子をそろりと伺っていた。

 一方、僕のくしゃみも止まる気配がなかった。


「でぃでぃー。怖くないから出ておいでー」

「全然慣れないね」

「知らない家だしなぁ。キミがくしゃみする度に怖がってるみたいだし」

「ごめん。こんなにくしゃみ出るとは思っブワッくしょんっ!」


 彼女が明らかに怪訝な顔をした。話している途中でくしゃみは出るし、手で抑えたけど、豪快なくしゃみで抑えきれなかったし、でぃーちゃんはくしゃみの瞬間、カーテンの影にスッと隠れてしまうし、なんか色々申し訳ない。


「なんか急に押しかけちゃってごめんね」

「いや、そこは全然、大丈夫」

 でぃーちゃんがまたそろりとカーテンの隙間から半分だけ顔を出し、片目でこちらを覗き見ている。まだ警戒している顔だ。

「でぃでぃも慣れてくれないし、キミも全然くしゃみ止まらないし……。他あたろうかな……」


 え、今なんて? 他あたる? ここから出ていくということ?

 いやいや、それは待って欲しい。好きな人が僕の家に来て、しかもおそらく数日衣食住を共にするという半ば奇跡と言ってもおかしくないようなことが起きているのに、この機会を易々と逃してしまうわけにはいかない。しかも他にあたる先が、もし男だったらそれも嫌だ。考えたくない。どうにかしないと。まずはこのくしゃみを止めなければ。


「ちょっといくつか試してみてもいい?」

 僕は彼女の許可をもらい、立ち上がって窓の方に向かった。カーテンの隙間から部屋の様子をじっと見ていたでぃーちゃんが、近づく僕をロックオンする。姿勢を低くして後退りしている。今にもその場から逃げ出しそうだ。

「なに? でぃでぃに何かするの?」

「いや、少し換気しようと思っブワッくしょんっ!」

 その瞬間、でぃーちゃんは僕の足元を光の速さで駆けていった。


 しかし部屋には他にでぃーちゃんの身を隠せそうな場所がなく、部屋の隅まで走り切ると、くるりと向きを変え、壁を背に立ち止まった。敵(僕)を見失わないように小さな目を見開きながら部屋全体を見渡している。


「もう。驚かさないで」

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

「網戸までは開けないよね? でぃでぃ逃げちゃう」

「うん。大丈夫」

 そう言って僕は、掃き出し窓を少しだけ開けた。外の空気がすっーっと入ってくる。これでいくらかマシになって欲しい。それからマスクもしよう。


 マスクはちょうどでぃーちゃんがいる場所にある引き出しの中だ。

 驚かせないようにゆっくりとでぃーちゃんに近づく。しかしちょっと歩いただけで、でぃーちゃんは耳をピンと立たせて口はヘ文字になり瞳孔の開いた丸い目で僕を睨むようにロックオンした。今くしゃみしたらまた走って逃げ出しそうな体勢になっている。

「今度は何しようとしてるの?」

「マスク取りたくて」僕は引き出しを指差す。

「私が取るよ」

 彼女が僕を制し、「どこの引き出し?」と尋ねた。マスクは一番上の引き出しに入っているのだが、何か見られたらマズいもの入ってなかっただろうか。僕は頭を巡らせる。体温計、綿棒、爪切り、絆創膏、そういった類のものしか入れてなかったはず。大丈夫。

「一番上の引き出しに入ってる」

 彼女がでぃーちゃんに近づくが全然逃げない。

「でぃでぃ、ちょっとごめんねー」

 彼女が引き出しを開け、中を探る。また鼻がムズムズしてきた。換気だけでは軽減されないのだろうか。早くマスクが欲しい。


「ん? マスク入ってないよ?」

「あれ? あるはずなんだけど」自分で確かめようと彼女に近づいた。

 すると僕を見たでぃーちゃんがビクッと驚いて、また光の速さで駆けていった。

「あ! ちょっと! もうー」

「ごめん」

「キミねぇ、そんな無神経だと、ほんと嫌われちゃうよ」

「ごめん……」

 謝るしかなかった。少し考えれば分かることだったが、先に身体が動いてしまったのだ。友達にもガサツだと言われることがあり、空気の読めなさは自覚している。好きな人には気を使えるように気をつけていたのに、自分の無神経さにショックだった。

「ブワッくしょんっ!」

 そしてこのタイミングで盛大にくしゃみをした。ほんとデリカシーがないと自分でも思う。


 でぃーちゃんはまたカーテンの隙間から顔を覗かせてこちらをじっと見ていた。

「やっぱ、他あたろうかな……」

 彼女の表情は暗かった。

「大丈夫。もう止まるから!」

 ええい。背に腹はかえられない。マスクがないならこの方法で止めるしかない。

 僕はティシュペーパーを二枚取り出してはそれぞれ丸くして両鼻に突っ込んだ。

「何それ!」彼女が僕の顔を見て「ぷはは」と笑い出す。

「ちょっと見苦しいけどこれで止まるはず」

「ちょっと。やめて、笑いが止まらない」

 彼女は両鼻にティシュを詰めた僕の顔を見て大笑いしている。笑いをとれたのはある意味よかったのかもしれない。

 これでくしゃみも止まってくれればと思う。

「ぷはははっ。キミ面白すぎ。ほんと、笑いが止まらない」

 そして僕は思いついてしまった。

「くしゃみが止まったかわりに、笑いが止まらなくなっちゃったね」

 すると、彼女はすん、と落ち着き「それは笑えない」と言い放った。厳しい。



 だがそれからしばらくして、僕のくしゃみは見事に止まった。

 カーテンに隠れてじっと様子を伺っていたでぃーちゃんも、僕がくしゃみをしなくなってから、そろりそろりと出てきてくれた。

 でぃーちゃんは僕の鼻に詰まっているティッシュを不思議そうにジロジロと見ていたが、先程までのように怯えた様子はなくなっていた。


 彼女の勧めでチューブ型のおやつを開けて、でぃーちゃんの目の前に持っていった。でぃーちゃんはくんくんと匂いを嗅ぎながら、やがてチロチロと舐めながら食べてくれた。

「よかった。少しは懐いてくれたのかな」

「そうね。時間かかったけど、大丈夫そうね」

「あー、よかった」

 ひとまず安心した。近いうちにマスク買ってこよう。

 安心したら彼女に聞きたくなった。

「ところで、どうしてうちに来てくれたの?」

「どうしてって。でぃでぃ預かってくれそうだったからだよ」

「でもさ、ほら。僕、前に告白して振られてるわけだし」

 それを聞いて、彼女が思いっきり大きくため息ついた。


「キミのそういうとこがデリカシーないんだよなぁ」

「え、どういうこと?」

「嫌いだったらくるわけないじゃん」

「え、じゃあ、好きってこと?」

「もうー。そういうことじゃないの。あまりに無神経だと、ほんと嫌われちゃうよ」

 彼女の言っていることが分からなかった。でぃーちゃんは僕の膝に顔をスリスリしては、僕の顔を見る。


「どういうこと?」

「家に来てるんだしいいじゃんその話は。それに鼻に詰め物している人とはまともに話せません」

 彼女は睨むように目を細めた。僕は変なこと言ってしまったのだろうか……。


 でぃーちゃんは慣れてくれたけど、今度は彼女が不機嫌になってしまった。

 彼女は不貞腐れたような顔で僕をじっと見ている。



 うまくやっていけるだろうか。この先が不安だ。




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