孤独のワンルーム


「さあ、ルージュ、歩いてごらん」


 男はそう言うと、抱きかかえていた犬ほどの大きさの猫を部屋の床へと降ろした。

 猫は家具も家電もない部屋をそろりそろりと赴くままに歩いている。

 部屋のシーリングライトはすでに取り外されており、頼りになる灯りは玄関にある備え付けの小さな照明だけだ。


 深夜二時。都内のワンルームマンションの一室。現在空き家となっているその場所に、男二人と猫一匹がいる。

 猫は部屋を一巡すると男の元に戻り、床にペタンと座り込んだ。

「うむ。ここにはいない」

 猫を連れてきた長身の男が言う。


 霧島玲二きりしまれいじ。一八〇センチはあろう長身で、顎のラインが細く整っており、丸メガネをかけたキツネ目の端正な顔立ちだ。髪は艶やかな黒のストレートロングで、後ろ髪を軽く束ねている。黒Tシャツにジャケット姿だ。


 飼い猫の名前はルージュ。メス猫。ノルウェージャンフォレストという五十センチはあろう大型猫だ。毛色はお腹周りから顔にかけては白で、頭から背中にかけては、二種類の濃淡のある茶色をしている。非常にフサフサとした毛並みをした長毛種である。飼い主と揃いも揃って長毛なのだ。端麗な顔立ちで、暗がりの中、黒く丸くなった大きな瞳で、フサフサの尻尾を振りながら玲二をじっと見ている。


「霧島さん、現場、こっち……です」

 スーツ姿の童顔男が洗面所へと通じる扉を指差して言った。真壁麻弥まかべまや。二十四歳。零細企業の新人社員だ。


「ルージュ、こっちにおいで」

 玲二が優しく語りかける。

 ルージュはスッと起き上がり、玲二の近くに寄ってきた。玲二が木製の扉を開け中に入ると、その後ろから身長一六〇センチちょっとの麻弥が玲二の背中に隠れるようにしてついてきた。

 そこには小さな洗面所とその横に洗濯機置き場、それから左右に扉があった。


「げ、げ、現場のお風呂場は、右手側の扉です」

 麻弥の声はすでに震えている。

 玲二は壁についている風呂場の照明のスイッチを押した。すりガラス風の樹脂製の扉の奥が暖色に灯る。


「高齢者の事故死だそうです。お、お風呂場で足を、す、す、す、滑らせたそうで……」

 玲二はカチャリと扉を開けた。

「ヒィィィ……っ!」

 麻弥は思わず玲二のジャケットにしがみつく。

「ほう。あそこにシミがあるな」

 麻弥の掴む手がより一層強くなる。


 ここの状況について事前に麻弥を通じて一通り資料を得ていた。

 その資料によると、住人は十五年前に妻に先立たれた身寄りのない八十代の単身男性だ。心身ともに健康で老介護施設や病院に入ることなくずいぶん前からここで一人暮らしをしていたそうだ。

 しかし、一人で暮らしていた影響もあってか普段から外部とのコミュニケーションが極端に少なく、彼を知るものはほとんどいなかった。


 ある日、マンション内の複数の住人から「異臭がする」と騒ぎになり、その異臭が彼の部屋だとアテがつき、管理人がマスターキーで入ったところ、風呂場の洗い場にうつ伏せで倒れていたのを発見したそうだ。


 すぐさま警察へ通報し現場検証が行われた。状況から事件性はなく、風呂場で足を滑らせたことにより頭部打撲、そのまま死に至ったという判断がされた。

 発見時にはすでに死後一ヶ月は経過していたことと、夏場で湿度の高い環境だったことから、腐敗による死臭がかなりあったようだ。

 現場検証後に特殊清掃業者が入り、クリーニングは済んでいる。

 しかし、洗い場の床には不自然な茶褐色のシミがなくもない。


「き、き、霧島さん、早く終わらせて、ここから、で、で、で、出ましょうよ!」

「そう怖がるな。怖がるとキミに憑くぞ」

「ヒィィィ!」

 玲二はニヤリと軽く笑うと、「さあ、ルージュ、どうだい?」とルージュに優しく訊いた。


 ルージュはゆっくりと扉の段差を上り、風呂場へと入っていた。

 フサフサの尻尾をピンとたて、ゆらりゆらりと左右に揺らしている。同時に風呂場内を見渡している。

 そして、天井の、ある一点をじっと見つめ始めた。そこは何もないただの天井だ。

 ルージュは天井に向かって低い声で「にゃあ」と鳴いた。


「やはり、いるな」

「で、で、でしょうね! だから僕たちが呼ばれたんですから。は、早く終わらせてくださいよ!」

「あんまり騒ぐと、憑かれるぞ」

「だって、怖いんですって」

 麻弥は玲二とルージュが見ている天井、それから床のシミも見ないように目をぎゅっと瞑っている。



 そこには老人が浮かぶように立っていた。服を着た身体は半透明に透けていて、老人越しに風呂場の壁が見えている。怪我のような外傷もなく、ただ虚な目でぼんやりと空間を見ていた。

 ルージュはその老人の姿をじっと見ている。ルージュは睨んでるわけでも、怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもなく、まして嬉しいわけでもない。

 ただただ、目に映るその存在を、鳴いて玲二に知らせているのだ。


「頼んでおいたものを出してくれ」玲二は右の手のひらを、背中にしがみついてる麻弥に向けた。

「は、はい!」

 麻弥はスーツの胸ポケットから急いで一枚の写真を取り出し、玲二に手渡した。

 写真を見つめる玲二。そこには夫婦と思しき若い男女が笑顔で写っていた。

「うむ……。幸せそうな笑顔だ」


 この老人の最近の行動や趣味、生活リズムなどは、遺体発見後に、麻弥が周辺住人に聞き込みをして調査済みだった。マンションの廊下で挨拶程度の会話をするという住人に、時たま先だった伴侶のことを懐かしむように話していたことがあったという。


 身寄りがなかったことから遺体発見直後にはすぐに連絡が取れる親族がいなかった。しかし管理会社経由でようやく遠方に住む遠い親戚と連絡が取れ、そこで特殊清掃及び遺品整理が業者に依頼されたのだが、その時に麻弥の会社にも声がかかった。

 遠方で現場には来れない親戚からは「遺品は全て処分して構わない」と言われており、麻弥は業者が破棄している遺品の中からいくつか玲二の指定したものを選び出していた。


 麻弥が前に部屋に訪れた時、すでに部屋の遺品整理が始まっており、あらかた処分されていたのだが、それでも生活の痕跡が残っており、居たたまれない気持ちになった。

 玲二は、前屈するように高身長な身体を曲げて、洗い場の床、ルージュの前に写真をスッと置いた。

 すると天井を仰ぎ見ていたルージュの視線が徐々に写真の方へと移っていった。そして、玲二に知らせるように低い声で「にゃあ」と鳴いた。



「どど、どうなりました?」麻弥が玲二の影から風呂場を覗く。

「写真を見てるだろうな」

 玲二はルージュが見ているその先の何もない空間を見ながら言った。

「じゃあ、もう終わります?」

「まだだ。静かに」

 麻弥が黙り込む。深夜二時過ぎ。本来の静寂が風呂場に訪れた。

 ルージュはフサフサの尻尾をピンと立たせ、ゆらりゆらりと左右に揺らしながら、じっと写真の先を見ている。

 玲二もルージュの見ている先を見る。

 麻弥はと言うと、玲二の背中に隠れてガクガクと震えている。


 そのままどれくらい経っただろうか。五分前後はそうしていたであろう。

 写真をじっと見ていたルージュが、部屋の周りを見渡し、「にゃああああ」と長く鳴いた。それからゆらりゆらりと揺らしていた尻尾を降ろした。

 ルージュはくるりと向きを変え、玲二の横に来ると、高身長の玲二を見上げるように見ては低い声で「にゃあ」と鳴き、ペタンとその場に座り込んだ。


 玲二はしゃがみ、ルージュの頭を撫でてやる。

「よくやりましたね。ありがとう」と優しい声で語りかけた。

 ルージュもそれに応えるように喉をぐるぐると鳴らし始めた。

「除霊、完了だ」


 丸メガネの位置を人差し指で直しながら、玲二はそう言った。そして、手を伸ばして洗い場にある写真を回収し、背後でうずくまっている麻弥へ差し出した。

「大丈夫だ。もうここにはなにもいない」

「ほ、本当ですか……」

「あぁ」

「よかったぁ……」麻弥はホッとしたのかその場に座り込んだ。


 不慮の事故の場合、生前にやり残したことがあったり、誰かに言い残したことがあったりすると、その場に霊が残りやすい。

 その最期の遺志を叶えてあげることによって、霊の浄化を導くことが出来るのである。そして彼の場合は、すでに他界した最愛の伴侶の顔を見せてあげることだった。

「ほら、写真」

 玲二は立ち上がり、麻弥に写真を渡すと、艶のある長い髪を掻き上げて、軽く小さなため息を吐いた。


「帰る」

 玲二は一言だけ言うと、「ルージュ、おいで。帰るよ」と語りかけ、さっさと洗面所から出ていった。

「ちょ、ちょっと! 霧島さん! 置いてかないでくださいよ!」

 麻弥が慌てて立ち上がり、玲二の元に駆け寄った。

 玲二はすでに玄関で靴を履き、ルージュを抱きかかえていた。

「早いですよー、霧島さん!」

「置いてくぞ」

 玲二は扉を開けて外に出る。

 麻弥は戸締りの確認と照明を消すと、遅れて外に出た。

 

 

 玲二が自宅に帰ったのは四時過ぎだった。

 ルージュを床に降ろし、キャットフードをお皿に入れてやる。

「今日はお疲れ様。さぁお食べ」

 必要最低限の家具家電だけが置かれた洗練された部屋。

 カウンター式のキッチン横にあるメタリックな色をした中型の冷蔵庫を開ける。正面のものが庫内照明に照らされた。規則正しく並べられたそれの中から一つを手に取った。


 さらにキッチンの引き出しを開け、中からカチャリと小さなスプーンを手に取る。

 玲二はそのままリビングに向かい、二人掛けソファに横になるように座った。

 持ってきたものの上部の蓋を開ける。艶のある黄金色の表面が見えた。弾力もそれなりにありそうだ。

 玲二はスプーンを入れ、一口それを食べた。


「あぁ。美味しい」


 玲二の口の中で甘く溶けていく。大好物の固めのプリンである。

 ルージュがやってきてソファの上にジャンプして、玲二のお腹に乗ると、ペタンと座った。

 黒のTシャツにはルージュの長毛が無数についている。

 プリンを食べ終わると、ガラス製のローテーブルの上にスプーンと容器、それから掛けていた丸メガネも外して置いた。


「少し寝ようか」

 ルージュは玲二のお腹の上で丸くなって、とろんとした目で玲二を見つめている。

「おやすみ、ルージュ」



 霧島玲二。そしてルージュ。

 彼らは心理的瑕疵物件に取り憑いた霊を祓い、除霊済み物件として不動産会社へ引き渡すことを生業としている。

 玲二はローテーブルにあるリモコンで部屋の照明を消す。カーテンの隙間から明かりが漏れていた。もうすぐ夜明けが近い。


 玲二とルージュは仲良く、束の間の眠りについた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る