染み


 今、この家で一番明るいのはお風呂場だ。備え付けの照明が、脱衣所に二つ(メインのライトと鏡の前に一つの合計二個)とお風呂場の一つの合計三つだ。

 洗面所のライト以外は暖色の照明で柔らかい印象を受ける。隅から隅まで明かりが行き届いていて、闇がないのが落ち着く。


 部屋の照明を取り付けるまでしばらくお風呂場で過ごそうかな、と思うぐらいだ。というのも引っ越したはいいものの、前のアパートから照明器具を持ってくるのを忘れてしまい、部屋の照明がないのだ。台所と廊下の備え付けの照明と外からの夜灯りでなんとか、部屋が真っ暗になるのは防いでいるから問題ないけれど、それでも例えば本の文字を読める明るさかと言われると、そこまでは全くない。つまり厚生労働省が定める一般的な事務作業ができる照度基準の三〇〇ルクス以下の明るさなのだ。


 日中は自然光が入り問題なかったけれど、日が落ちると暗すぎて全く片付け作業が進まない。作業が進まないだけならまだしも、明かりが行き届いていないところに闇があるのが怖くて仕方ない。


 ついさっきもちょっと怖いことがあった。今日の昼過ぎにアパートからの引っ越し作業が終わり、段ボールの開梱作業を進めていた。

 まずは猫用品をまとめて入れた段ボールから開けてケージやご飯置き場などを設置した。中に入っていたボール状のおもちゃのポンポンを投げると、子猫ののらは、それを追って楽しそうに駆け回っていた。物がなくて広いので走りやすそうだった。それから部屋のカーテンをつけようと、カーテンの入れた段ボールを探したが、一番最後に片付けたので、一番最初に部屋に搬入されたようで、重なった段ボールを片付けないと取り出せそうになかったので諦めた。


 ここはマンションの四階で、目の前は樹木、下には国道が走っているだけなので、まあ一日二日なくても困らないだろうと思い、そのまま開梱作業を続けていたのだ。

 気がつくと、部屋がだいぶ暗くなっていた。メインの照明がなく、台所と廊下の明かりを頼りにしているのだから、まあ仕方ない。

 さっきまで遊んでいたのらが、壁の方をじっと見ているのだった。しかも何かを追うようにゆっくりと視線を動かしたり、時には素早く視線を動かしたりしているのだ。


「のら、何してるの?」

 のらに近づき、壁を見る。しかしそこには何もない。前の家でのらはゴキブリを見つけていたが、そのような虫の類はいなく、真っ白な壁だった。といっても辺りが暗いのでグレーがかった壁に見えるが。

 のらを見ると、目は瞳孔が大きく開いていて、壁の見えざる何かを逃すまいと少し前のめりの臨戦態勢をとって、興奮状態なのか低い声で唸り声も上げていた。

「のら、何見てるの? どうしたの?」

 のらはそうして何もない壁をじっと睨むように見ているのだった。

 事故物件だったらどうしよう。この部屋で誰かが殺害されていたら、と頭を過ぎった。


 猫は幽霊が見えると聞く。のらが見ているのは、この部屋で亡くなって成仏できない地縛霊なのではないかと思った。そんなはずはないと自分に言い聞かす。

 だって、そういった類が苦手であるから、引っ越す時にあらかじめ不動産屋で告知事項のない物件を選んだのだ。事故から三年以上経過していたら告知義務がなくなることから、インターネットの事故物件まとめサイトでも事故や事件が起きていないか確認したのだ。住む部屋はもちろんマンション自体およびその周辺では事故や事件が確認されなかったからここに決めたのである。


 のらは壁を睨んでいた。霊媒師を呼んで除霊してもらおうかとさえ思っていた。

 恐る恐る壁に近寄ってみると、小さな光が壁づたいに動いているのが確認できた。心霊写真で見る光の玉のようなものだった。のらはそれを目で追いかけているようだ。いよいよホンモノかと思った。

 のらの唸り声も止まらない。やはりここで誰かが死んだのだ。助けを求めて彷徨っているにちがいない。


 だが気づいてしまった。その光の玉が動くたびに、外から車の走行音が聞こえているのだ。冷静になって再び光の玉を見ると、車の走行音に連動するかのように、壁を左から右に動いていたのだった。

 小さい光だったので、目を凝らさないと分からなかった。

「なんだあ。のら、ただの車の影だよ。怖くないよ」

 のらも正体が分かったのか、唸るのをやめて「あたし、別に怖がってませーん」とでも言うように、すました顔でこちらを見た。

 正体が分かってしまえば怖くないが、さっきまではもう引っ越ししてしまおうかと考えたのだった。


 一安心したタイミングで、「お風呂が沸きました」という自動音声が流れたので、脱衣所に向かったのだった。

 照明の明るさが本当に落ち着く。脱衣所で衣服を脱ぎ、お風呂場に入った。


 身体を洗い、次に髪を洗おうとシャワーの前に立った時、見つけてしまった。鏡の隙間に謎の染みがあったのだ。

 お風呂掃除する時にシャワーを使ったが、その時は気が付かなかった。五〇〇円玉ほどの大きさで、色は血のように赤黒い色をして、形は歪で目と口のようなものが確認できる。髪の長い女が不気味に笑っているように見えた。


 ここが事故物件ではないことは確認しているから、これはただの染みだろうと思うことにした。築年数だって前のアパートよりも古く、築二十年も経っていれば染みの一つや二つできるだろう。まあ仕方ない。お風呂場が明るいので少し楽観して考えられる。


 しかし目を瞑って視界が奪われた状態で髪を洗っていると、その謎の染みの目のようなものからの視線を感じた。シャワーのお湯が身体に当たっているのに鳥肌が立った。

 悲しき末路の霊がその染みからぬるりと浮き出ては、背後に回り込む。全裸で無防備なのをいいことに、ソレは全身にまとわりつこうとしてくる。確かに背後から視線を感じる。取り憑こうと様子を窺っている。見られている。じっと見ている。


 そんなこと絶対にないと自分に言い聞かせながら、急いで髪についた泡を洗い流す。視線をずっと感じる。見ている。確かにこちらを見ている。


 ようやく目が開けられるようになり、お風呂場の明かりが目に入ってくる。正面を見ると、謎の染みは変化なくそこにあった。


 しかし、視線は背後からずっと続いているのだ。意を決して振り向くと、すりガラス越しに黒い影が動いていた。顔の形がはっきりと分かるほどにベッタリと顔をつけている。


「のら?」

 のらは「入れてくださーい」とでも言うように「にゃーん」と鳴いた。すりガラスを開けてやると、トコトコと中に入ってきて周りを見る。例の染みも見たが、特段反応することもなく、お風呂の蓋の上にジャンプした。


 前のアパートでものらはこうして蓋の上に乗ってきては、一緒にお風呂に入っていた。

「のらも一緒に入ろ」

 猫は幽霊が見えると聞く。その猫が反応しなかったのだから、本当にただの染みなのだろう。安心した。


 のらは蓋の上で毛繕いを始めた。湯船に浸かりながら、のらのその姿を見ていると、とてもリラックスできて、安らかな気持ちが心に染み込んできた。




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