リリーの喉に
朝起きたら喉に違和感があった。しかも熱っぽさもある。確かに昨日の夜、少しだけ頭が火照ったような感覚があったのだ。それで疲れていると思い早めに寝たのだが、回復するどころか悪化してしまったようだ。
体温計どこだったかな?
身体を起こすと、隣で寝ている彼女が目を覚ました。
「あれ? アラームなった?」彼女が聞いてくる。
「いや、まだ」僕は自分の発した声に驚いた。
「風邪? 声枯れてるね」彼女も気づいたようだ。
「そうかも。熱測ってくる」
ベッドから降り立ち上がると、ふらつきを感じた。結構、熱がありそうだ。
彼女の足元で寝ていた猫のリリーも起き上がりついてきた。
リビングの棚にある引き出しを漁り、体温計を探す。確かここだったはず。
リリーは僕の両足の間を八の字に歩いては、スリスリと身体を足に擦り付けてくる。
ようやく体温計を見つけ熱を測る。立っているのが辛く、床に座ると、リリーが太ももの上に乗ってきては、潤んだ瞳で僕を見ると、小さく「にゃーん」と鳴いた。朝ごはんを要求しているのだろう。いつも朝起きたタイミングで、あげているから。
この後あげようと考えていると、ピピピと体温計がなった。体温計を取り出し、表示部分を見た。
「38.6℃」
高熱すぎる表示に何かの間違いではないかと思い、もう一度計った。しかし二回目も同じ結果が表示された。
「熱、ありそ?」彼女がリビングにやってきた。
僕は頷いた。
「何度だったの?」
彼女が僕に近づいてくると、リリーは僕の太ももから勢いよく飛び降り、彼女の方に走っていた。
「はいはい。ご飯ね」
彼女はリリーのお皿にキャットフードを入れた。
「38.6」
「え、大丈夫?」
彼女は僕の顔色を窺う。
「なんとか」
「仕事、休むよね?」
僕は頷く。
「私も休もうか?」
「大丈夫。病院行って診てもらうよ」
リリーはご飯を食べ終え、前足や全身を舐めて毛繕いを始めている。
「無理しないでね」彼女は心配そうな顔をしている。
「ありがとう。職場に連絡して、病院に予約入れたらしばらく寝るよ」
僕は寝室に戻った。
再び起きた時には、彼女は仕事に出かけた後だった。メッセージアプリには心配する内容が数件受信されていた。
寝室に持ってきた体温計で再び体温を測ったが、体温に大きな変化はなかった。
病院に行くために支度する。身体が重い。
リリーは窓辺で朝日に当たりながら気持ちよさそうに寝ていた。
喉の痛みは相変わらずあるし、全身が熱くふらつきもある。その一方で、咳や鼻水といった症状は今のところ出ていない。吐き気や下痢の症状もなかった。
外に出て少し歩くと目眩がした。通勤通学する人たちがスタスタと自分を追い越していく。陽の光が眩しい。行き交う車の音が大きく聞こえて頭に響く。
病院までの徒歩十二分がこんなに長かったものかと感じた。
ようやく病院に着き、少し待たされた後に診察を受けた。感染症の疑いも調べられたが、結果は新型コロナウイルスやインフルエンザなどではなく、ただの風邪とのことだった。疲れが溜まっていたのかもしれない。しっかり休養を取れば、二、三日で快復するだろう。
医者から解熱剤などの処方箋を出してもらったので、近くの調剤薬局で薬をもらった。薬局の待合室で、彼女に診断結果をメッセージで伝えた。
彼女からはすぐに「今日はゆっくり休んでね」と返事が来た。
それからドラッグストアにも寄って、冷却シートやスポーツドリンク、ゼリータイプの栄養補助食品を買い込んだ。高熱で力が出ないのか荷物が重く、行きよりもゆっくりと歩きながら帰った。家に帰った頃には、すでに昼近くになっていた。症状も悪化している気がするので、そのまま寝室に入り、熱を測った。
体温計は38.7℃を指していた。本当にただの風邪なのだろうか。体温計を見ると余計に身体がしんどく感じる。
処方された薬を飲んで横になろう。食欲はあまりないが、薬を飲むために何か胃に入れなければならない。
フラフラした身体でキッチンに行き、冷蔵庫を開けた。卵、チーズ、鶏ひき肉、梅干し、納豆、豆腐、めかぶ、各調味料と牛乳やビールなどの飲み物。野菜室には、ミニトマト、青梗菜、レタス、玉ねぎ、キャベツ。
食材は豊富だが、さすがに作る気にはなれない。
冷凍庫にある冷凍パスタやチャーハンは味が濃そうだし、アイスを食べる気分でもない。棚にあったカップラーメンも同様だ。
ドラッグストアに行った時に、レトルトのお粥でも買ってくればよかった。そこまで頭が回らなかった。
また外に出て最寄りのコンビニに行く気もしないし、スマホアプリのデリバリーサービスで注文して届くのを待つのもしたくない。できれば薬を飲んですぐに寝てしまいたい。
リリーがキッチンにやってきて、ちょこんと座って僕を見ている。遊んで欲しそうな顔をしている。残念ながら今日は遊べそうにない。
何か食べなければ。僕は仕方なく、そのまま食べられるチーズ、ミニトマト、めかぶを手に取り、ダイニングテーブルに持っていった。リリーも僕と一緒にダイニングテーブルの前までついてくる。
それからさっき買ってきたビタミンの入ったゼリーと処方箋を取りに、寝室に戻る。リリーもトコトコとついてくる。
「リリー、今日は遊べないんだ。ごめんよ」掠れた声でそう話すと、リリーは「にゃーん」と鳴いた。
またリリーと一緒にリビングに戻り、僕は軽く食事を済ませた。薬を飲み再び寝室に向かう。寝室はカーテンが閉まっていて薄暗い。リリーも一緒に寝室の前までついてきたが、僕の様子が普段と違うことを感じ取っているのか、それ以上部屋には入らずに、前足を揃えてちょこんと座ってじっとこちらを見ていた。
ごめんね。何もしてあげられなくて。ちょっと休みたいから。また快復したら遊ぼうね。そう心の中でリリーに言った。
ベッド横に置いたペットボトルの蓋をあけ、スポーツドリンクを飲む。
それから、額と首筋に冷却シートを貼って横になった。
熱にうなされしばらく寝付けなかったが、いつの間にか溶けるように寝ていた。
何か黒い影が延々と追いかけてくるような悪夢を見ていた。やがて僕は転んでしまい、その影に捕まってしまった。影は足元からどんどんと僕を飲み込んでいく。
重い。とても重い。影は上半身までやってくると、悪魔のような姿になり、大きな口で全てを飲み込もうとした。
存在が消されてしまう。その瞬間。僕は目を覚ました。
目の前には、僕の胸の上で香箱座りをして、喉をぐるぐると鳴らしているリリーの姿があった。僕と目が合う。リリーは嬉しくなったのか、ぐるぐるの音が大きくなる。目を合わせたまま、ぐるぐる、ぐるぐる言っている。
なんだリリーだったのか。やけにリアルな重さを感じたわけだ。うなされた原因が分かってホッとした。と同時に身体中が汗でぐっしょり濡れているのが分かった。
体勢を整えようと身体を動かすと、リリーは僕の上から落ちないように、座り直そうとする。
「リリー、ちょっと重いんだ。ごめんね」
リリーはそれでも上に乗ってこようとするので、一度、身体を起こした。汗で冷えたのか悪寒がする。
目を覚ましたついでに、時刻と体温が知りたかった。スマホを見ると、十六時半過ぎだった。だいぶ寝ていたようだ。続いて体温を測ると37.6℃まで下がっていた。解熱剤が効いたのかもしれない。スポーツドリンクを飲み、水分補給する。
そして再び横になった。リリーはさすがに今度は胸の上には乗ってこようとはしなかったが、僕の顔の真横にくると、そこにそっと香箱座りすると、黒く丸くした両目で僕を静かに見ていた。
普段と違う様子に、リリーなりに心配してくれてるのかもしれない。
リリー、また元気になったら遊ぼうね。
リリーがそばにいてくれることで不安な気持ちがいくらか穏やかになる。
ぐるぐると喉を鳴らしている音を聞きなながら、僕は再び眠りについた。
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