透明な世界


 今日から中学生。初めての通学路。学校の帰り道。私は猫を拾った。

 入学式をして、教室に戻って、先生とクラスのみんなと自己紹介をして、教科書をもらって、午前中には学校が終わって、お母さんと一緒に家に帰っていた時、道の真ん中で倒れている猫がいたのだ。


 初めは死んでいるのかと思った。だって猫の周りには赤く血が広がっていたし、猫も動かなかったから。

 反射的に目を背けた。おめでたい日に嫌なものを見てしまったなあ、って思ってしまった。それに怖かったから。だけどもし、まだ生きていたら見捨てることになっちゃうんじゃないかと思った。それでもう一度だけ見てみることにした。

 すると猫のお腹が上下に動いているのが分かった。呼吸が荒かった。


「お母さん、大変! 猫が交通事故に遭ってる!」

 私が猫に近寄ろうとするけれど車がやってくる。

 車は猫を轢きそうになって、ギリギリのところで避けて通過していった。このままでは本当に轢かれて殺されてしまう。

 そんなに交通量の多い通りではないので、車が来なくなった隙に、お母さんと猫の元に行った。


 まだ小さい子猫だった。その子猫をそばで見て驚いた。両目が白く濁っていたのだ。怖くて直視できなかった。目が見えてないのかもしれない。

 とりあえずここにいては私たちも車に轢かれてしまうので、猫をゆっくりと歩道へ運んだ。


 お母さんが近くの動物病院の場所を調べてくれた。ここから歩いて五分のところにあると分かり、近くてよかった。

 怪我している子猫を極力動かさないようにゆっくりと運んだ。


 動物病院ではすでに先客の犬や猫が待っていた。私は今まで金魚ぐらいしか飼ったことがなかったので、初めての動物病院だった。犬がこっちを見て吠えていて怖かった。

 受付のお姉さんに猫を見せて事情を話すと、奥から獣医師さんがやってきた。メガネをかけた髪がボサボサの男の人だった。


 獣医師さんはその場で子猫を診ると「急いで診察室に」と、待合の人たちよりも先に診てもらうことになった。

 獣医師さんの話によると、下顎と後ろ足を骨折していて、お腹からは内臓が飛び出していたみたい。

 怖くて、診察台に横たわっている子猫をみる事ができず、獣医師さんの話だけを聞いていた。


 獣医師さんは難しい言葉を使って怪我した箇所を説明していたのだけど、後で私にも分かるように分かりやすい言葉に言い直してくれた。

 ひとまず応急処置はその場でしてくれたのだけれど、お腹の損傷が激しいらしく、ちゃんと手術しないと長くは持たないそうで、その場で安楽死を勧められた。


 それから、目が白く濁っているのは、細菌による感染症になっているようで、不衛生な手で目を擦ったことが原因のようである。両目とも角膜が傷ついていて、すでに失明しているか、じきに失明してしまう可能性があるそうだった。


 子猫の身体中からは、フンのようなくさい臭いがした。ノミやダニも沢山いて、とても劣悪な環境にいたようである。

 獣医師さんの推測では、食事もろくに出来ず、目が見えにくい、もしくは見えない状態でふらふらと道路を歩いていた時に轢かれたのではないかという。

 子猫を助けるには手術や入院、薬といった費用がかかるそうだ。手術しても助からないかもしれない、と獣医師さんは言っていて、「お母さんどうしますか」と訊いていた。


 助けてほしい。だけど提示された費用がどのくらい高いのか分からなくて何も言えなかった。

 私はおろし立ての中学校の制服を見た。左袖と左脇のところに血と汚れがついていた。

 気がつくと私は泣いていた。動物病院に連れてきても何もできず、弱っている子猫の顔すらみる事が出来なかった。

 ここから逃げ出したかった。お金が必要だなんて思っても見なかった。ただ、助けたいって思っただけなのに。

 目の前の命を見捨てるようなことをしたくなかった。


 お母さんは私の背中をトントンと撫でて「手術してもらおう」と言ってくれた。



 子猫を獣医師さんに預け、待合室に戻って待つことになった。受付のお姉さんが、待合室で吠えていた犬の名前を呼んだ。「こちらへどうぞ」ともう一つの診察室へと案内されていた。どうやら受付のお姉さんも獣医師さんだったようだ。

 飼い主と共に何組かの犬や猫が診察室に入っては出てを繰り返したけれど、子猫が手術している方の診察室は一向に開かなかった。

 二時間近く経ってようやく、くしゃくしゃ頭の獣医師さんが扉を開けて「終わりましたよ」と顔を出した。



 手術により子猫は一命を取り留めた。しばらく入院して回復を待つことになった。

 頭部分は、顔全体に包帯を巻かれ、身体を舐めないようにエリザベスカラーもつけられていた。

 それから、お腹と後ろ足にも包帯を巻かれていて、前足には点滴の管が刺されていた。


 ここに運んだ時よりも毛並みが整っていた。だけど、目は相変わらず白く濁っていた。失明はしていないようだけど、視力が回復するかどうかは分からないそうだ。

 視界が遮られているせいか、音に敏感になっていた。

 私たちができることは何もなく、今日のところは子猫を置いて帰ることにした。



 家に帰ると、お母さんが学校に電話してくれて、明日はジャージで行くことになった。血のついた制服はクリーニングに出すことになった。

 翌日、制服を着ていない私は、クラスですぐに話題になった。怪我をした猫の話をすると、みんな驚いていた。昨日あった出来事を詳しく話すと、私の周りにたくさんクラスメイトが集まってきて、すぐに友だちが出来た。


 学校が終わると、すぐに動物病院に向かった。子猫は昨日より元気になっていて、ケージの中を左右に歩き回っていた。だけど、後ろ足を引きずるように歩いていて、痛々しかった。


 それから目の濁りも取れてなくて、それどころか目の周りに目ヤニが沢山ついていた。本当に良くなるのか心配だった。



 それから二日後の土曜日、子猫は動物病院を退院することになった。

 子猫のお腹は毛が剃られていて縫った跡が痛々しく残っていた。頭と足の包帯もそのままで、エリザベスカラーもつけたままだったけれど、体力は回復しており、あとは薬と自然治癒で治していくことになった。目には一日二回、目薬を差すことになった。


 お母さんとお父さんに相談して、この子猫を飼うことにした。学校に行っている間はお母さんに世話してもらうことになるけど、それ以外はちゃんと育てることで承諾してもらった。

 未来に向かって歩んで欲しい。そう思って子猫は「あゆむ」という名前をつけた。


 あゆむを抱きかかえ、目薬を差す。目薬が目に触れると、あゆむは痛そうにビクンと身体を反応させ、腕の外に抜け出そうとする。力が強くて腕を引っ掻かれてしまった。


 一人では目薬を差すのも大変で、お母さんがサポートしてくれた。私があゆむを抱き、お母さんがあゆむの顔を動かないように固定してくれた。そうしてもう片方の目に一滴、目薬を垂らした。


 あゆむは逃げ出せず、目をしばたたかせながら、小さく「にゃぁーん」と鳴いた。

「痛いだろうけど頑張って治していこう」とあゆむに言った。

 両目とも瞳孔が分からないほどに白く濁っていたあゆむの目は、数日かけて次第に濁りが薄くなってきた。



 それからさらに数ヶ月。動物病院に行っては検査してもらい、家に帰っては薬をあげて、を繰り返した。

 後ろ足の包帯は取れ、お腹は縫合後が目立たなくなり、毛が生え始め、頭部の包帯もエリザベスカラーも取れた。



 あの日、安楽死を提案された子猫は、今では元気に部屋の中を駆け回っている。


 あゆむは、透明に輝く瞳の中に世界を映し、私を見ては「にゃあーん」と元気に鳴いた。




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