無くしたと思っていた照明のリモコン


「あー、もう。のらったら! ちょっと! そこはダメだって言ってるでしょー。もう!」


 茶色と黒色のサビ柄子猫、のらは、部屋中を駆け回っている。元気なものだ。


 部屋の中は、片付けをしているのか、散らかしているのか分からない状態だ。のらを飼うことになったのだけれど、住んでいるアパートがペット禁止だから、ペットOKのマンションに引っ越すことにしたのだ。通常、住処を決めてから猫を飼う順序かもしれないけれど、まあ仕方ない。のらがかわいかったのだから。


 部屋の広さは今よりも少し狭くなるし、家賃も今よりも高くなるうえ、駐車場代も別で費用が発生するのだ。その上、築年数も今よりも八年も古い。二〇〇六年のアスベスト規制よりも前に建てられたマンションなのだ。とはいえマンションにアスベストが使われているわけでもないし、そもそも建築基準法上ではもっと前の法改正で建物へのアスベスト吹き付けは規制され始めていたし、そこに関しては特段心配しているわけではないのだけど。


 ただ全体的に今のアパートの環境の方が好条件に感じられるので、そこを引き払って引っ越しすることに若干の心残りはある。


 その代わりに、堂々とのらを飼えることができるのだから、まあ仕方ない。それに階数が一階から四階になる。これも地味だがありがたい。地方都市で治安がそこまで悪いわけではないけれど、それでもやはり女性の一人暮らしで一階というのは、少なからず抵抗があった。それもあって洗濯物は部屋干ししてたし、掃き出し窓には常に備え付けのシャッターを閉めて、部屋の中が見えないようにしていたのだ。


 その点、四階であれば、洗濯物もベランダに干せるし、気兼ねなく窓が開けられる。

 流石に今は、引っ越しの片付けで部屋の中が埃っぽいので、何ヶ月かぶりに吐き出し窓のシャッターを開けて、換気しながら作業している。もちろん、のらが脱走しないように網戸は閉めているし、シャッターを開ける時にはのらはケージに入れている。

 セミの鳴き声と共に夏のもわっとした熱気が外から流れてくる。


 のらは数段積み上がった段ボールから他の段ボールへと飛び乗ったり、せっかく畳んだ衣服の上に乗っては、走り回って散らかしたりしている。挙げ句の果てにジャンプして飛び乗ろうとした段ボールの天面がまだ閉じられていなく、バランスを崩し着地に失敗して、段ボールを倒し、中身を部屋中にぶち撒けた。


「のらー! ちょっと大丈夫? 怪我してない?」


 のらは段ボールを倒して大きな音がした瞬間に、その場所から遠いところに一目散に走っていった。そしてこちらを見つめて首を傾げながら「ん? あたし、ずっとここにいたけど、どうしたの?」という顔で、無罪を主張している。


「そんな顔したって、のらがやったの見てたからね」

 のらは「にゃーん」と鳴く。まるで「あたし、何もやってませーん」と言っているかのようだ。


 倒れた段ボールに近づき散らかったものを見ると、化粧品類が転がっていた。瓶が割れたり、中身が漏れたりしている様子はなかった。周辺に散らばったものも拾い上げ、段ボールの中に戻していく。


 今の職場では屋外作業が多く、汗をかくこともあって必要最低限のメイクしかしていない。そのため結構使わなくなった化粧品類が多いのだ。この機会に捨ててしまおうかとも思ったが、ほとんど使っていないのに捨てるのももったいなく、とりあえず段ボールに入れていたのだ。


 引っ越し作業を再開すると、のらがまた遊び始めた。

「のら、危ないからこっちおいで」

 猫用のおもちゃでのらを誘うけれど、それには見向きもせずに部屋中を駆け回っている。

 

 夕方になり涼しい風が外から入ってきた。朝からずっと片付け作業で疲れてきた。ちょっと休憩しようかな。部屋の中を見渡すと相変わらず散らかってはいるけれど、梱包できた段ボールもそれなりに増えてきていた。両腕をあげて少し伸びをする。


 のらが静かになったので、遊び疲れて寝たのかと思うとそうではなかった。

 開けっぱなしのクローゼット――扉は白い引き戸でクローゼットというのに相応しいが、中は木製の板張り二段構造で押し入れと言った方がしっくりくる――の床をじっと見つめていたのだ。


「のら? どうしたの?」

 話しかけても、のらはこちらを見ずに、じっと一点を見つめている。


「そこに何かあるの?」


 のらが見つめている床には色々な物が散らかっていた。ゲーセンで取ったキャラクターのぬいぐるみ、下着、鞄、リップクリーム、いつのか分からないのど飴、ちょっとだけ入っているペットボトルの水、古いものか新しいものか分からない乾電池、無くしたと思っていた照明のリモコン、ヘアピン、爪切り、ちょっと古い年の雑誌類、何かの充電ケーブル、割り箸などだ。まぁごちゃごちゃしている。引っ越し作業中だし、まあ仕方ないと自分に言い聞かせる。


 のらは前足で積み重なっている雑誌の隙間をちょいちょいとし出した。

「え? なんかいるの?」

 のらは雑誌の隙間を熟視しては、前足でちょちょいとする。


 すると、雑誌の裏側からゴキブリが走り去っていった。のらは突然出てきた動くものに驚いて、その場で縦飛びした。

「ゴキブリ! のら捕まえて!」

 のらはゴキブリが走って行ったクローゼットの奥に入っていく。


 この家に住んで四年経つが、今までゴキブリなんて見なかった。クローゼットの中に潜んでいたのか、それともここ最近引っ越し準備で掃き出し窓を開けているので、外から入ってきたのか。網戸しているのに入ってこれるのか疑問は残るが。

 のらは奥から戻ってきては、こっちを見ながら「にゃーん」と鳴いた。まるで「見つけられませんでしたー」と言っているかのようだ。


 特段ゴキブリに対して恐怖心があるわけではない。地方生まれで虫の多いところで育ったことや、職場で害虫を見ることも多いので、ゴキブリの他、カメムシ、カマキリ、セミ、バッタ、ネズミなどには耐性がある。むしろ幽霊のような得体の知れないものの方が怖い。


 だけど自分の家にいるとなるとやはり多少の嫌悪感はある。早く仕留めてしまいたいと思う。

「のら、一緒にゴキブリ探そ」

 クローゼットの床に散らばっているものを、まとめて部屋に移動させる。部屋が余計に散らかってしまうが、まあ仕方ない。


 のらは楽しそうに部屋の中をまた駆け回り出した。

 クローゼットの下段奥には、衣装ケースがあったのでそれを引き出した。すると衣装ケースの下にゴキブリが隠れていたようで、カサカサと動き出した。


「いた!」

 咄嗟に近くにあった雑誌を丸めて仕留めようとする。


 ぱんっ! 大きく空振りした。


 音にびっくりしたのらが、駆け回るのを止めて、ダンボールの影に隠れてこっちを静かに見ている。


「のら、ゴキブリがいるの!」

 ゴキブリはすばしっこくクローゼットのさらに奥に走っていくと、クローゼットの木製の壁の隙間に入っていった。ゴキブリが出入りできそうなくらい壁板が浮いていた。築浅物件なのにこの作りは、作りが甘いなと思った。


 気がつくと、横にのらが来ていて、ゴキブリが入った壁の隙間をじっと見つめていた。「そこにいるんですかー?」と言っているように壁に向かって「にゃーん」と鳴く。反応がないと、こちらを見て「何も出てきませーん」というような顔をして報告してくれる。


「ゴキブリ、逃しちゃったね」

 とりあえずガムテープで侵入経路を塞いだ。さすがにもう出てこないと思うが、引っ越しする来週までの辛抱だ。


「のら、ちょっとケージに入ってて」

 外が暗くなってきたので、シャッターと掃き出し窓を閉めることにした。ガラガラとシャッターの閉まる大きな音がする。

 のらはケージの中で、「早く出たいでーす」と、こちらを見ながら「にゃーん」と鳴いた。


「のら、おいで」

 ケージからのらを出して、ベッドに横になるとのらは胸の位置にちょこんと座り込んできた。頭を軽く撫でてやると、笑うように目を細めては、手に頭を近づけてスリスリと擦り付けてくる。ゴロゴロと喉も鳴らしている。


 のらのその仕草は、引っ越し作業の疲れも忘れてしまうほどかわいかった。




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