瞳の先に


 カシャ。カシャ。

 シャッターの切れる音が部屋に響く。連写せず一枚ずつ丁寧に撮影していく。

 シエルが驚かないようにシャッター音をオフにすることもできるが、この音が僕には小気味いい。なんていうかフォトグラファーって感じがする。

 もちろんシエルが嫌な顔をすればやめるけれど、シエルは窓の縁に座って澄ました顔をして外を見ている。エメラルドグリーンに輝く瞳で何を見ているのだろうか。ビー玉のように艶やかで美しい。


 グレーの毛色も、暖かい陽光に当たりシルバーのように輝いていて美しい。シエルはロシアンブルーの猫だ。ロシアンブルーのブルーは毛色のことを指している。ブルー、つまり青色のことなのだが、猫の世界ではグレーのことを指すらしい。なぜグレーのことをブルーと呼ぶのかインターネットでその由来を調べて見たこともあったが、遺伝的な小難しい話が書いてあって、いまいちよく分からなかった。


 学生の頃はプロの写真家を目指していた。しかし写真コンテストへ何度応募しても、一度も入選した試しがなく、その道が厳しいことを思い知らされた。だから今は趣味程度に写真撮影を楽しんでいる。


 それでも撮った写真をSNSにアップするとそれなりに「いいね」がつくし、コメントをしてくれるフォロワーもいて、自分の撮った写真で誰かが元気になってくれていると思うと嬉しくて、趣味で写真を撮り続けている。


 また、インターネット上にある画像素材提供サービスにも写真を掲載している。利用者が僕の撮った写真をダウンロードすると、一件あたり数円から数十円の収益を得られるのだ。

 このサービスで生活できればありがたいが、残念ながら月収にしても数千円レベルだ。


 シエルが子猫だった時に撮った写真は今でも定期的に収益が発生している。子猫の時は目が淡いブルー――この場合は、青――の色をしていて、その目でカメラを直視しながら、口角を上げて笑っているような姿をした写真だ。


 この写真がたまにダウンロード数を増やすことがあって、一桁上の月収になることもあるが、それでもやはり小遣い程度である。

 だから普通に働いている。本業は会社員で、全国各地に飛び回って事務機器の販売営業をしている。この職に就いてかれこれもう六年目だ。出張中は妻がシエルの面倒を見ている。


 山から一望する地方都市、木漏れ日の並木道、澄んだ川に泳ぐ小さな魚たち、温泉街の猫。営業先で撮った風景はどれも絵になる。出張の前後どちらかに休みを重ねて、そのまま温泉や観光地に行き、一眼レフカメラ片手に写真を撮りながら、リフレッシュ休暇を楽しむこともある。


 それから休日には妻とカフェ巡りをしながらパフェやケーキといったスイーツの写真を撮るのも楽しい。プリン、アイスクリーム、コーンフレーク、バナナ、そしてチョコレートソースのかかったパフェ。いちご、キウイ、みかん、ベリーなどの艶やかなフルーツがふんだんに乗ったタルト。真っ白なホイップクリームとクレープ生地が何層にも重なったミルクレープ。どれも細部まで作り込まれていて写真としても撮りがいがあるし、デザートとしても美味しい。

 デザートを食べる時、僕は決まってブラックコーヒーを頼む。甘さと苦さのバランスがちょうどいいのだ。

 この前も妻と原宿へデートに行き、十代二十代に人気のパンケーキの店に一時間並んで入った。

 なかなか一人では入れないような店も妻と一緒ならば入りやすい。


 カシャ。カシャ。

 F値を2.8まで開放して明るくし、背景をぼかす。補正はプラス0.3上げる。

 シエルは口角を上げ、微笑むような表情をしている。その姿はロシアンスマイルと呼ばれている。横顔が美しい。


 ファインダーを覗き、シエルの瞳にピントを合わせる。ひまわりの種のように細くなった黒目、濃淡のあるエメラルドグリーンの虹彩、外の景色が映り込むほどクリアな角膜。それらが合わさると、惑星とも思える神秘的な美しさを瞳の中に感じる。その瞳をずっと見ていると吸い込まれそうになる。


 シエルはそうして凛々しい横顔で窓の外を見ている。

 残念ながら、窓の外には数十センチ先に隣の家の二階の窓と地味なベージュのモルタル壁があるぐらいで、背景になるような景色は見えない。建物同士の隙間から辛うじて見える空からは陽光が降り注いでいる。これが背景全てに青空でも広がっていればさらに絵になるのだけれど。

 絵としては見劣るが、背景がベージュ一色なので、シエルだけを切り抜いて使いたい場合は扱いやすい素材だろう。

 シエルの瞳にカメラを寄せる。24mmの単焦点レンズは被写体の近くに寄れて大きく撮ることができる。


 カシャリ。

 一枚写真を撮る。

 ファインダーから視線を外し、カメラ背面の液晶モニタに撮影した画像を映す。拡大ボタンを押し、瞳の中央を確認するとそこには見たことのない生命の神秘が広がっていた。フルサイズの解像度はどこまでも小さな世界を映し出しており、虹彩の凹凸や眼球内の血管までもが鮮明に記録されている。それでいてブラックホールのように深く吸い込まれそうな瞳孔と、その周りには銀河のように壮大な深いエメラルドグリーンの色彩が広がっている。


 再びカメラを構え、ファインダーを覗く。

 シエルは動くことなくじっとして外を見ている。撮影はシエルの真正面からではなく横からのためシエル自身、警戒することなくより自然体を撮ることが出来ている。撮りたい構図をゆっくりと探しながら、ここだと思うところでシャッターを切る。


 カシャ。

 すると、シエルは突然、窓の縁から飛び降りスタスタと部屋の中を移動していった。


 もう少し窓辺の写真を撮りたかったのだけれど、猫は気まぐれだから仕方がない。

 シエルを追って部屋を移動すると、シエルは姿見の前の床に寝っ転がっていた。陽光に当たり身体が火照ったのだろう。シエルはいつもこうして熱を冷ましているのだ。


 僕は姿見でふと自分の瞳を見た。さっき見たシエルの透き通った瞳と比べて、少し白く濁っているようにも見える。ひょっとして白内障だろうか。明日病院に行って診てもらおうか。


 もうそんなに若くない。だって僕は来年定年を迎えるのだから。




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