飼い犬に見られる


「よし、ジョン。散歩行くよ」

 左肩をくるくる回しながら、ジョンを呼ぶ飼い主の声を聞くと、ジョンは飼い主の足に飛びついてきた。おまけに嬉しそうに尻尾まで振ってる。


 飼い主はここ三年ほど慢性的な肩こりに陥っていて、病院に行くほどではないが、冷える朝は痛みを感じるのだ。

 早朝。外はまだ寒い。ジョンに防寒機能も兼ね備えているリード付きハーネスをつけてやる。そうして外出の準備ができたら、飼い主はジョンと共に外に出た。


 散歩は二十分から二十五分。住宅街を十分歩き、折り返し地点で牛乳を買い、また十分かけて自宅に戻る。それだけだ。これが飼い主とジョンの日課である。


 ジョンを飼って三年、雨風など天候が悪くない日に限り、飼い主は毎日欠かさず散歩をしている。

 散歩の後、飼い主は仕事に出てしまう。日中一人で留守番をしているジョンにとって朝に外の空気を吸えることはストレス発散になっていることだろう。

 これは飼い主の単純な思い込みではなく、ジョン自身がそう飼い主に伝えているのだ。


 と言うのも飼い主が朝起きると、ジョンはまず食事を要求する。飼い主はいつものようにジョンに餌をあげ、その後、飼い主は自身の歯磨きや洗顔をしに洗面所に向かう。飼い主が朝の支度をしている間にジョンは食事し終える。そして次に飼い主に要求を伝えるために玄関の扉の前に行くのだ。ジョンはそこでちょこんと座ると、扉に前足をつけては外に出たいことをアピールするのである。

 このアピールがあっての散歩なのだ。


 外に出ると、決まって通行人の誰かがジョンと飼い主を不思議そうに見る。

 もう三年も同じコースを毎日歩いているのだから、そろそろ慣れてもらいたいものだが、初見の通行人には真新しいのだろう。リードをつけた猫が外にいることに。


 狭い住宅街の散歩コースなのに、まだまだ彼らの存在を知らない人がいるものだ。

 見知らぬ通行人の中には、目の前の飼い主とジョンを綺麗なほどに二度見して驚いた顔をする人、飼い主とジョンを左右交互に見る人、目を逸らさずに堂々とガン見してくる人、中には「猫ちゃんなのにお散歩するのねぇ」と上を見ながら声をかけてくるお婆さんもいる。

 「猫なのに」という言い方は飼い主は気に入っていない。外に出たい飼い猫だっているのだ。


 また、そうやって見てくるのは何も通行人だけではない。散歩中の飼い犬だって、そこらへんの野良猫だってジョンを不思議そうに見上げてくるのだ。だが賢いもので、何度か見るうちに慣れてしまうようだ。


 もちろん、顔見知りの「散歩仲間」とは、お互いすれ違いざま笑顔で「おはようございます」とか「今日は冷えますね」とか簡単な挨拶を交わしている。


 ジョンは走っている車や自転車を見たり、街路樹を見たり、飛んでいるスズメを見たり、空を見たりしている。動くのもに興味があるみたいでバランスをとりながら首が回る限り、その動いているものを目で追うようにじっと見ているのだ。


 折り返し地点に来ると、飼い主は牛乳を買う。牛乳宅配センターの店先にある直売の自動販売機だ。そこには瓶や紙パックに入った一八〇ミリリットルから三〇〇ミリリットル程度の様々な牛乳が販売されている。


 飼い主はその日の気分で、一つ牛乳を買い、その場で飲むのだ。

 今日も自販機の前に立ち、何を買うか選ぶ。ジョンも飼い主と同じように自販機の中身をじっと見ている。いちごやコーヒーが入った牛乳は与えてもらえない。だけど通常の牛乳だと、ストローの先につけたほんの二、三滴を飼い主の指から与えてもらえる。それが欲しくて、だからジョンも飼い主が選ぶ牛乳をじっと見るわけだ。

 陳列されている左上が生乳だ。ジョンはそれを知ってか知らずか、左前足を高く上げ、自販機のガラス面に向けてちょいちょいと空中で前足を泳がしている。

 その仕草を見て「飲みたいか」と飼い主はジョンに言うと、物欲しそうにジョンは鳴いた。


「美味しいか。よかったな」

 ジョンは指に湿らせた牛乳をチロチロと小さな舌で舐めては「もっとちょうだい」と懇願するよう目の前の飼い主に向かって小さな黒い瞳で訴えかける。

「ダメダメ。今日はここまで」

 飼い主がそう言うと、ジョンは諦めたのか、飼い主から視線を外し自分の前足をペロペロと舐め始めた。

 飼い主もその場で牛乳をストローで飲み終え、「よし、帰るか」と帰路へと向かう。


 同じ道ではあるが帰路の方がすれ違う通行人の数が多い。時間的にも方向的にも通学や出勤してくる人と重なるためだ。


 そうなると当然、飼い主とジョンを見てくる人も増えるわけだ。

 「猫が散歩してる!」、「逃げないの?」なんてことを小学生たちに訊かれる。 


 ジョンはこれまで一度も散歩中に逃げ出したことはないが、不意に駆け出していく可能性がないわけではないし、駆け出した直後に車にはねられる可能性だってある。

 そのようなリスク対策として、飼い主の左手にはいつもリードを握ってジョンが逃げ出さないようにしているし、万が一駆け出したとしてもリードが不必要に伸びないようにしているので、車にはねられたり、飼い主の目の見える範囲から離れて遠くに行ってしまうことはないようにしている。


 さらにこの他にも飼い主はジョンを外に連れ出す際に気をつけていることがある。

 それは外のものには一切触れさせないということだ。


 例えば野良猫やハト、スズメなどの生き物だ。彼らは衛生的によいとは言えず、病気を持っている可能性が高い。彼らが多くいる公園や茂みには近寄らないし、ジョンが飛び移らないように塀の近くからも離れて歩く。

 さらに朝のごみ集積所にはネズミやゴキブリ、カラスもいるし、腐った食べ物を食べてしまう恐れもあるので、もちろん近づけさせない。


 ジョンは動くものに興味があり、散歩をしている時いつもその場でキョロキョロと周りを見るので、不意に飛び出して行かないように注意している。


「ねぇ、触らせてよ」と、ひとりの小学生が手を伸ばしてきた。

「ごめんね。この子は臆病だから」

 そんな言い訳をして飼い主はジョンに触らせないようにしている。


「そっかあ、残念」と小学生が言う。

 少し申し訳ない気持ちにもなるが、何か病気でももらったらと、ジョンの健康を考えると致し方ない。


 小学生たちがジョンに向かって別れの挨拶をした。


「じゃあね、肩乗り猫さん!」




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