彼女と猫


 彼女は予告なしに猫を連れてやってきた。いや、正確には予告はあった。猫を連れてくる一時間前に。

 今から数日、猫を預かって欲しい、と。


 だけどそれには問題が三つあった。

 まず一つ目は、僕が猫アレルギーであることだ。病院に行って検査してもらったわけではないので実際には違うのかもしれないが、ついこの前、大学の男友だち三人で初めて猫カフェに行ったとき、店に入って数分後には鼻がむずむずしてきて、くしゃみが止まらなくなったのだ。


 ついでに目も赤く充血していて、友だちからは「お前それ、絶対猫アレルギーだって」と、笑われながら言われた。

 アナフィラキシーショックを起こすほどではないけれど、猫カフェどころではないのは間違いなく、僕はひとり、カフェスペースの隅の方に座って、症状が治まるまで、ただただ耐えていたのだった。


 二つ目は、住んでいるマンションがペット飼育禁止であることだ。

 大学には自転車で十五分程の距離で行けるし、商業施設にも大学と反対側に十分程、自転車を走らせれば行ける距離にあって、家賃も、ワンルームで一ヶ月一万八千円とかなり安い。


 築年数は三十五年以上経過しているし、水回りは狭く、ユニットバスはバスタブがなくシャワーのみであったり、キッチンのシンクは、手洗い場と疑う程の小ささだし、洗濯機置き場も部屋にはなく、一階にある共有コインランドリーを使う必要がある、といった不満点もあるけれど、それらも気にならないぐらい学生にはありがたい賃貸料なのだ。しかも僕が住んでいるのは七階建ての五階と、割と上層部である。

 大学進学の時に地元から関東地方に出てきて、ひとり暮らしをするために借りたのだ。かれこれ住んで三年になる。


 当然、今、犬も猫も小動物も飼ってないし、物件選びの時だって飼う予定もなかったから、ペット飼育可能のマンションなんて条件から外れていた。犬や猫が嫌いなわけではないが、ペット飼育可にするだけで家賃は数段上がり、それ以外にも食事代や病院代などの費用が発生する。貧乏大学生のひとり暮らしでわざわざ飼おうとは思わないのが当然だろう。


 そして三つ目の問題は、彼女も一緒にうちに数日転がり込んでくるらしい。彼女とは学部は異なるけれど同じ大学、同じ学年である。

 彼女は五駅先の実家暮らしで、電車とバスを使って通学していて、その実家で飼っている猫が「でぃーちゃん」である。


 でぃーちゃんは、シルバーグレーとブラックのサバトラ模様のミヌエットだ。

 ミヌエットという猫の種類は彼女から聞くまで知らなかった。マンチカンとペルシャの交配種だそうだ。手足の短いマンチカンの特徴と、ペルシャの特徴である長くて柔らかい毛を持ち合わせた猫だ。

 性格は甘えん坊で人なつっこく、好奇心旺盛な猫である。


 でぃーちゃんの写真や動画を彼女に見せてもらったことがあり、そこで猫のおもちゃで遊んでいる姿や彼女の実家の廊下を全速力で走っている姿が印象に残っている。

 遊ぶのが大好きな猫なのだと彼女から聞いている。確か年齢は四歳だったはずだ。

 そのミヌエットのでぃーちゃんが彼女と一緒に僕の家にやってくるのだ。


 実家の両親とその飼い猫に関して、些細な言い合いをしたみたいで家を出たらしく、その行き先として僕の家が選ばれたようである。

 彼女は僕の家の住所も知っているし、前に一度、部屋に来たこともある。大学の友だち数人と宅飲みすることがあって、その時に彼女も誘ってみたら、あっさりOK返事をもらって家に遊びに来た。


 ちなみに、「彼女」と言っているが、別に付き合っているわけではない。大学一年生の時に一度、僕は彼女に告白してフラれているのだ。

 その後も好意を寄せてはいるものの、関係が大きく変わることはなく、あくまで仲のよい異性の友だち止まりなのだ。だから当然、宅飲みしたときも、それ以上何かあったわけでもない。


 その彼女が、突然、今度はひとりで、猫を連れて、しかもおそらく泊まりで、しばらく僕の家で過ごすというのだから、頭の整理が追いつかないわけである。

 彼女が家に泊まりに来るということを考えると、猫アレルギーだとかペット禁止マンションだとかは、正直どうでもよい問題だった。


 部屋が散らかっているから片付けなければならない。彼女はどこに寝るのだろうか? まさかこのベッドに僕とふたりで寝るのか?

 食事はどうしよう。冷蔵庫に何もない。というかこのキッチンではろくに調理も出来ないだろう。

 彼女もここでシャワー浴びるってことだろうか? うち、脱衣所ないんだけど、どうしたらいいんだ? 朝は大学には一緒に行くのか? その時、でぃーちゃんは家に留守番? 鳴いたりしないか? 彼女の実家のように部屋は広くないけれど大丈夫なのか? でぃーちゃんはどこで寝るのか? え、というか彼女はこのベッドで僕と寝るのか? 朝まで? いや、その場合、僕は床で寝た方がいいのか。え、てか、なんで僕のうちに来てくれることになったのか? これは期待していいのか? 部屋のニオイ臭くないか? しばらくって何日いるんだ? そんな夢みたいなことあっていいのか? やば、どうしよう、緊張するんだけど。


 とにかく片付けた方がいいか。もうそろそろ彼女が来てしまう。ほんとうに僕の家でいいのか? ほんとうに僕の家に泊まりに来るのか?


 僕の頭の中は騒がしかった。この状況に喜んでいる僕もいれば、いやいや、ここは冷静さを保たなければと気持ちを正す僕もいれば、早く部屋をきれいにしなければと焦っている僕もいる。

 彼女はタクシーで来るそうだ。電車だと人が多く、でぃーちゃんが怖がってしまうかららしい。タクシーだと四十五分ぐらいで着く。


 ピンポーン、とインターフォンが鳴った。


 結局時間がなくて、部屋はあまり片付けられなかった。玄関に向かい、扉を開ける。

 外には彼女がスーツケースと猫のケージ、それから背中に大きなリュックを背負った格好で立っていた。


 彼女は予告通りに猫を連れてやってきた。

 青と灰色の手提げ型のケージの中から、猫の鳴き声が聞こえた。

「入って、いい?」

 彼女が僕に尋ねる。

「あ、ごめん。どうぞ」

「ありがと」

 僕は玄関の扉を大きく開いて、扉を押さえながら彼女を部屋に招き入れた。


「でぃでぃ。ごめんねぇ。怖かったね」

 彼女は部屋に入るなり、ケージからでぃーちゃんを出して抱きかかえた。彼女はでぃーちゃんを落ち着かせようと頭を撫でている。

 そうしていると、でぃーちゃんは次第に落ち着いてきて、彼女は床にでぃーちゃんを降ろした。


 でぃーちゃんは少し歩くと、視線の先にいる僕と、自然と目が合った。そしてすぐに動きを止めて固まってしまった。

 目の周りの毛並みが困り眉のような形になっていて、頭もかしげている。

 「目が点になる」という表現がぴったりな程に、小さな黒目でじーっと僕を見ている。


 誰ですか、あなた。


 そう聞こえてきそうな目だ。でぃーちゃんは次第に僕を警戒しだして、僕を見つめたまま、少しずつ後ずさりをしていく。


「でぃでぃ、怖くないよ、大丈夫、大丈夫」

 彼女がなだめるけれど、それでもなお後ずさりしていく。

 そして、僕は急に鼻がムズムズし出して、大きくくしゃみをした。


 くしゃんっ!


 その瞬間、でぃーちゃんは驚いて、僕から逃げるように駆けだして行ってしまった。


 でぃーちゃんはカーテンの隙間に隠れて、こちらの様子をそろりと困った顔をしながら、片目だけでじーっと覗いている。


 あぁ、どうしよう驚かせてしまった。


 うまくやっていけるだろうか。この先が不安だ。




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