猫がこっちを見る理由

雹月あさみ

ヘアゴム

 

 お風呂上がり。部屋着に着替えた私はキッチンへと向かった。

 淡いブルーのTシャツとショートパンツ。上下セットの部屋着だ。

 夕食に黒酢あんの酢豚を食べたからか、それともいつもより長めにお風呂に入って火照ったからなのか、喉が渇いた。

 口元を潤したい気分だ。


 一人暮らし用の小さな冷蔵庫を開けて、ドリンクホルダーを見る。

 炭酸水が入っていた気がしたのだけれど、何もなかった。

 そういえば一昨日、飲みきったのだった。

 水でも飲もうかとも思ったけれど、生ぬるい水道水の口当たりを想像したら、もっと冷たいものが欲しくなった。


 冷蔵庫を閉め、上段の扉を開ける。直冷式の冷凍庫内には、びっしりと霜がついている。学生時代から使っている冷蔵庫で、かれこれ六年の仲だ。

 その間、霜取りをしたことがなく、年々、庫内スペースに占める霜の割合が増えてきている。


 冷気が肌に当たって気持ちいい。


 庫内には間仕切りがされており、製氷皿を置けるスペースがあるのだけれど、私はそこにアイスを入れている。

 アイスなんか食べたら、さらに喉が渇きそうとも思ったけれど、冷たいものを食べたい欲が勝った。


 数種類の中からカップタイプのアイスを取り出す。取り出すときに周りの霜にパッケージがあたって、サリサリと音がする。

「プレミアムアイス 宇治抹茶味」

 上品なフォントでデザインされた商品名とともに、スプーンですくった濃厚そうな緑色が目に入ってきた。

 うん、違うんだ。美味しそうではあるが、今の気分ではない。もっとさっぱりしたアイスが食べたい。


 抹茶アイスを戻し、代わりに細長いパッケージを手に取る。

「チョコ&バニラモナカ」

 好きだよ、バニラもチョコも。でも違うんだ。今の気分は。もっとシャリシャリしてる氷菓がいいんだ。


 私は次のパッケージを手に取る。バータイプのものだ。

「冷凍果実シリーズ 完熟キウイバー」

 パッケージには、みずみずしいキウイの断面が弾けるように描かれており、その手前には、透明感のある緑色のしたアイスバーの写真がデザインされていた。

 そうそう、これ。私が求めていたもの。同じ緑でも抹茶とは違う、さっぱり系のシャリシャリタイプ。

 私はキウイバーを手に取り、ワンルームへと向かった。

 

 ふたりがけの小さなソファには、飼い猫のマルが気持ちよさそうに丸くなって寝ていた。

 高校生の時、親戚のおばさんから譲り受けた子猫で、上京するときに一緒に連れてきた。

 もちろんマンションはペットOKの部屋である。

 かれこれ八年の仲だ。まあ、冷蔵庫より長い。


 茶色地に黒色の縞模様があるキジトラのミックスのオス猫。まん丸い黒い瞳がかわいくて、マルと名付けた。

 マルを起こさないように、ソファに寄りかかるように地べたに座った。マルは一瞬だけ起きたかのように思えたけれど、すぐに手で顔を覆い、寝返りを打ってまた寝てしまった。


 テーブルに置いてあるスマホを手に取り、動画配信アプリを立ち上げると、トップ画面には「続きから見る」と、韓国ドラマのシリーズ名が表示されていた。

 十八年来の幼なじみのふたりが、お互い親友として接していたのだけれど、男性の方が仕事の関係で生まれ育った街を離れることになってしまい、それをきっかけに少しずつ恋を意識し始める、といったストーリーの恋愛ドラマだ。


 スマホを横にして、テーブルの上のティッシュBOXに立てかける。

 韓国ドラマにはまっていて、最近は毎日、こうして寝る前の数時間ドラマを見ている。


 キウイバーのパッケージを開けて、中身を取り出す。アイスにはパッケージ通り、キウイの種がたくさん含まれていて、「冷凍果実」の名にふさわしい果実感がある。

 アイスを口に持っていき、一口かじる。シャリ、と音がした。

 ひんやりと冷たい氷の食感と、甘さと酸味のキウイの味が口の中に広がる。

 うん、美味しい。このアイス、美味しい。


 アイスも食べ終わり、四十分ほど韓国ドラマを見ていると、足下にヘアゴムが落ちているのに気がついた。


 さっきまであったかな?


 黒いシンプルなヘアゴムだ。手の届く位置だったので、それを拾い、自分の手首に掛けた。


 ヘアゴム入れはベッド側のサイドテーブルの上にある。大手生活雑貨店で買ったアクリルの箱だ。そこにいろんなヘアゴムを入れている。

 サッと立って、ヘアゴムをしまうことも出来るけれど、ドラマの途中だし、しかも良いところだし、見終わってからやろう。

 

 ドラマでは、恋のライバルと言うべき存在が初登場したのだ。幼なじみのふたりは、結局は結ばれるのだろうな、と思っていた矢先の登場だ。しかもイケメン俳優。グイグイと彼女を引っ張っていきデートに誘っている。

 幼なじみの彼が犬系だとすると、ライバルはキツネ系だ。

 私自身、キツネ系がタイプだから、グイグイ迫られると落ちてしまうかもしれない。


 場面はキツネ系彼が彼女と話をしているときに、偶然に犬系彼が鉢合わせてしまったのだ。

 犬系彼はばつが悪そうに眉を八の字にし、うつむき加減で彼女を見つめている。捨てられた子犬のような目で「彼氏……、ではないですよね?」と言いたげである。

 さすがにかわいそうな状況だ。犬系彼には何の罪もない。むしろ今まで従順に彼女に尽くしていたわけである。


 一方、キツネ系彼は、「どう? 行くよね?」とさらに彼女に迫っている。彼の顔がアップで映し出されると、カメラ目線で「ん? 行かないの?」と、まるでこちらに問いかけてくるように訊いてくる。

 ドラマの彼女になったかのように耳が赤くなる。たっぷりと尺を使って彼女の返事を待つ。彼はクールな目つきで私を見ている。


 やば。直視できない。一瞬、スマホの画面外に視線を外すと、マルがちょこんと座ってこちらを見ていた。

 さっきまで私の後ろのソファで寝ていたはずなのに、いつの間にか移動していた。

「マル、どした?」

 マルは何も鳴かず、私を見ている。まん丸い黒目でただじっと、何かを訴えかけるように見つめている。

「どした? ご飯?」

 鳴かない。違うらしい。でもじっと私に視線を送っている。

「あれ?」

 マルの足下にはヘアゴムが落ちていた。黒いシンプルなヘアゴムだ。思わず自分の手首を見ると、そこにはさっき拾ったヘアゴムがかかっていた。さっきのとは別のヘアゴムである。

「マルが持ってきたの?」

 マルは声にならないくらい小さな声で「にゃぅーん」と鳴いた。

「遊んで欲しいのか」

 普段、ヘアゴムを飛ばすと、マルは口に咥えて持ってきてくれるのだ。さっきのヘアゴムもマルが持ってきたのかな。

「今、ドラマ、良いところなんだけどな……」


 視線を再びスマホに戻すと、今度は犬系彼がアップになっていた。

 「その人とデート、行かないで……」と言いたげにつぶらな目を潤ませている。

 キツネ系彼もやばいが、こっちもやばい。私を見ているようだ。この視線にやられる。これは心が揺らぐ。

 私はまたドラマを見入った。


「にゃーん」


 マルがさっきよりも大きな声で鳴き、さっきよりも近い位置に来ていた。いつの間に近づいたんだろう。まるでだるまさんが転んだのようだ。マルの足下にはヘアゴムが置いてある。


「遊んでよぅ」と言いたげに、少しムッとしたように頭をほんの僅かだけ下げて、私を見ている。


「何? きみ? 文句あるの?」

 キツネ系彼が、犬系彼にふっかけてきた。

「あなたこそ……」

 犬系彼も負けじと何か言おうとしている。


「にゃあーんっ!」


 マルは足を伸ばしている私の太ももに登って来たかと思うと、そこに座り、「遊んでくれるまでここから動きません!」とでも言うかのように目で訴えかけながら、全体重を乗っけてくる。

 そして、今度は見上げるように私をまん丸い黒い目で見つめてくる。じっと。じっと。

 テレビばかり見てないで遊んでよぅ。

 そう聞こえた。


 そして私はその熱い眼差しに負けた。犬系彼よりもキツネ系彼よりも、猫系彼、というか猫のマルの瞳に私は弱い。

「よし! 遊ぼう!」

 ドラマの途中だったけれど、動画配信アプリを終了し、マルが持ってきたヘアゴムを拾った。


「にゃーん!」


 ヘアゴムをキッチンの方にぽーんと飛ばしてやる。すると、マルは嬉しそうに犬のように駆けていき、ヘアゴムを咥えて持ってきたかと思うと、私の前にぽとんと落とした。


 また飛ばして。


 マルはまん丸い黒い瞳で訴えかける。

「持ってきてくれて偉いね。よーし、また飛ばすよ、ほら!」

 マルはまた駆けて、ヘアゴムを咥えて持ってくる。

 

 もっと遊んで。


 まん丸い愛くるしい黒い瞳が私を見つめている。

 あぁ、かわいい。




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