2 なぜ居たのか

 橋本は、奇妙な顔をしながらも素直についてきてくれて、学習室で勉強を教えることが出来た。

 けど。


「やっぱり、今日だけで終わる量じゃないですね」


 勉強のし過ぎで疲れたらしい、右側でテーブルに突っ伏している橋本へ言う。借りられる時間めいっぱいで学習室を借りたけど、もう、時間ぎりぎりだ。


「……結構やったと思うんだけど……?」

「はい。それは。橋本さん、結構飲み込みは良かったですから。ですが、範囲を全てさらうにしても、最低あと一週間は必要ですね」

「一週間?!」


 橋本はガバッと顔を上げた。


「それじゃ遅い! 来週の月曜なんだ!」

「なんの話ですか?」

「……あ、いや……」


 橋本は目を逸らす。


「……来週の月曜、つまり5日後に、学校で補習でもやるんですか?」


 聞いたら、橋本は盛大に舌打ちをしたあと、


「……留年になるかどうかの、試験」

「え」


 橋本はため息を吐いて、頭をガシガシとかき、


「この際だから話す。授業もまともに受けてない、試験もいつも補習になる、出席の日数もほぼアウト。その俺は今、留年しかけてる」


 さもありなん。


「けど、……留年したくねぇ」


 橋本は腕を組んで、苦々しく言った。


「学園側も、なるべく留年生を出したくないらしい。まあ、だろうとは思うけど。そんで、3教科の年度末試験の範囲のテストを受けて赤点にならなきゃ、俺は2年にしてもらえるって、そういう話になった。……だから、勉強してた」

「そして、私に声をかけた、と」

「……ああ」


 悔しそうに言う橋本。奥歯を噛みしめる音が聞こえてきそう。


「でも、それ、赤点回避なんですよね?」

「あ? ……ああ、そうだけど?」

「なら、そうですね……もう一日あれば、赤点の範囲は超えられると思います。で、その復習をずっとしていれば、理論上は、ですが。赤点は回避できると思いますよ?」

「……えっ」


 橋本が、ぽかんと口を開けて、私を見た。


「さっき言いましたよね、飲み込みが良いって。それに、そもそも河南の入学試験を突破して、通えているんですから、あなたの能力は高いはずです。それを加味しての発言です」


 ぽかんとしたままの橋本へ、


「でも、そのやり方だと、確実、とは言えませんから。もう少し進めて、固めておいたほうが良いでしょうね」

「……成川」

「なんですか?」

「……明日も、教えてくれねぇか。頼む」


 橋本がまた、頭を下げた。


「……生憎、私、明日はバイトなんですよ。フルタイムで」

「…………そうか」


 ゆっくりと上げかけられた頭に、


「だから、勉強の続きは明後日ですね」


 と言ってやった。


「えっ? ……良い、のか」


 またぽかんとしたそのカオを見て、なんだか胸がすく思いがする。


「留年されたら、私のせいみたいじゃないですか。日曜日までお付き合いします。バイトがちょこちょこ挟まれるので、そこは了解してください。それと、一応言っておきますが、今日の分、ちゃんと復習してくださいね」

「復習……」


 橋本が目に見えて狼狽える。


「……ちゃんと出来るか不安ですか?」

「っ!」


 図星らしく、橋本の肩が跳ねる。


「……さっきやっていたことを、繰り返してください。構造が理解できて解けた問題を、また、解く。文章を読む。その繰り返しを。……これなら、出来ますか?」

「………………やっ……て、みる…………」

「じゃあまた明後日、……何時に来れますか?」

「え、……と、別に、ずっと、勉強する気だったから……」

「なら、一日空いている、と?」

「お、おお……」


 呆気にとられている。


「では、開館時間に集合で。……来れますか?」

「わ、かった」


 頷いた橋本を見て、


「では、今日は終わりです。時間もギリギリですし、カウンターに、終わったことを言いに行きましょう」


 ◇


「……。私は何をやってるんだぁ……」


 家に帰ってベッドに寝転んだ私は、力なく呟いた。

 なんで? なんで自ら不良に関わりにいった? そりゃ、勉強ができてないのは気になったけど……。


「なんでご丁寧に日曜まで教える約束をしてしまったんだぁ……」


 関わりたくないのにぃ……。

 けど、あそこで切り捨てるのも、人の心がない気がしたし……。


「……切り替えよう」


 私はベッドから起き上がり、さっきドサッと置いた荷物の整理に取り掛かる。


「さっきから何言ってんのお姉ちゃん」


 また絵を描いているんだろうか。床に座り、板タブレットにペンを走らせながら、来年度になったら中学生になる妹の愛流めるが言ってきた。

 私と愛流の部屋は別にある。中学を卒業したばかりの弟と小4になる弟のも一つずつある。一番下の3歳の弟は、まだ両親と一緒に寝てるけど。

 と、いうことで、ちゃんと自分の部屋があるのに、「ここがいい」と、愛流はよく私の部屋に来る。


「図書館でアクシデントがあったんだよ……」

「アクシデント?」

「それで、2年に入る前の予習がほとんど出来なかった……1年の復習は出来たけど……」

「ふぅん? なんか大変だね」

「……愛流、何描いてるの?」

「ん? こういうの」


 こういうの、という言葉に振り返り、向けられたタブレットの画面を見れば、そこには『美』が似合う青年が描かれていた。


「……愛流は本当、絵が上手いねぇ……」

「これね、この前落書きで描いたオリジナルなんだよね。で、出したら、ちょっと受けたもんで、また描こうと思ってさ」

「どのくらい受けたのさ」

「2万くらい? だったっけ」


 私も下手じゃないけど、愛流は完全に芸術家肌だ。小学生の時も何度も賞を取っていた。将来の夢はイラストレーターらしい。


「で、今日の晩御飯は何かね? お姉ちゃん」

大樹たいきが当番だから、カレーでしょ」


 大樹は、さっき言った、中学を卒業したばかりの弟だ。

 と、下から、ただいまー、と声が聞こえた。


「あ、マシュマロが帰ってきた」


 妹の言葉に、


「マシュマロと彼方かなたとおじいちゃんでしょ」


 と、窘めるように言う。彼方は、2番目の弟だ。


「へーい」


 絵を描き続けて動こうとしない妹を置いて、私はマシュマロたちを出迎えに玄関へ下りていった。


 ◇


 二日後。また、図書館の学習室で。


「……この前より出来てるじゃないですか」 

「えっマジか?!」

「はい。ちゃんと復習してきたんですね」

「まあ……出来る限りは……」


 目をウロウロさせる橋本に、私は言う。


「でも、まだまだですからね。理解度を高めつつ、今日はこの前の5倍くらいの量を詰め込む勢いでいきますよ」

「えっ」

「そうしないと間に合わないでしょう」

「……」


 そして、その日も勉強して、次の日はバイト。その次の日の日曜。勉強を終えた橋本に、


「はい。お疲れ様でした。勉強も今日で最後ですからね。明日の試験、留年しないよう、がんばってくださいね」

「……おう……」


 恒例の如く力尽きてテーブルに突っ伏している橋本は、力なく答えた。


「あ、それと橋本さん」

「なに……」

「最低限復習はするとしても、夜はちゃんと寝てくださいね。睡眠不足はテストの大敵です。もう少し勉強しよう、もう少ししてから寝よう、なんて思わずに、しっかりと寝て、英気を養って、明日に備えてください。緊張や不安で寝れなくても、横になって体を休めて下さい。あなたはここまで投げ出さずに、真面目に、一生懸命に、できる限りのことをやったんですから。あ、あと、これは私のやり方ですが、試験が始まる前にも、教科書斜め読みとかでもいいので、サラッと教材に触れておくと、落ち着きます」

「……。……成川って、面倒見いいよな」


 ムクリと顔を上げた橋本に、


「私、長女なので」


 よく言われることを、お決まりの言葉で返した。


「え? きょうだいいんの」

「いますよ。私を含めて5人きょうだいです」

「5人……すげぇな」

「どうも。ほら、早く立ってください。もうギリギリの時間ですよ」

「あ、ああ……そうだった……」


 そして、次の日の夜。


「……」


 私はスマホとにらめっこしていた。

 今日、橋本は留年かどうかが決まる試験の日だ。少し手伝った身として、手応えくらいは知りたい……気もする……。

 が、相手は不良。当たり前だけど、ラインでやり取りしたこともない。それに、試験結果が分かるのは数日後だろうし……。


「……はぁ……」


 私はスマホの画面が暗くなるのを見てから、布団を頭から被って寝た。

 そしてそれから、図書館で橋本と遭遇することはなくなった。

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