第3-3話 獣道へ

「そうかあ、よかったなあ。五娘はうまいこと妓楼を抜け出せたんだなあ。兄さんも無事でいるといいなあ」


 悪い人ではなさそうだ。悪い人ではないかもしれないが言動は浮ついている。李高は生乾きの方術士の服を裏返して身にまとった。地味で目立たない色と意匠である。ありふれた旅人が一人出来上がった。


 とっぷりと暮れた頃、ようやく小さな宿場までたどり着いた。宿場といっても数軒の農家が寄り集まっているだけ。農閑期を利用して、使わない部屋を旅人に貸し、つましい料理を提供している。

 それでも野宿よりはずっといい。


『妻と娘です。だから部屋はひとつありゃいいよ』


 家族のふりをしていたほうが目眩めくらましになる。そううそぶく李高は三娘の設定年齢を勝手に大幅に引き上げたせいで、部屋に通されたあとの空気が重苦しかった。宿の主人がすんなりと受け入れたことも拍車をかけた。


「おい、どうしたらいい。姉さんの機嫌がなおらんぞ」


 李高の首には金属の輪。輪には細い鎖がつながっていて先端は三娘が天井の梁に結んだ。眠っている間に悪さをしないように、だそうだ。


「動けば動くほど、輪がしまる構造になっている。寝ろ。翌朝になったら外してやる」


「そんなあ」


「逆らわないほうがいいですよ」


 壁がかたかたと鳴った。雨音がだんだんと大きくなり、やがて平手で何度も叩くような耳障りな音にかわった。柱がぎしぎしと軋む。大風だ。


「野宿にしなくてよかったな」


 揺れに怯えながらも、疲れていたせいかぐっすりと眠れた。

 すっきりと目覚めたときには、自分はずいぶんと逞しくなったのではないかと、心ひそかに自賛した。


 朝飯は薄い魚片入りの粥だった。粥をすすりながら李高と主人の会話に耳を傾ける。


「雷怖かったねえ。火が出なくてよかったよ」


「首を絞められたような怖さでよく眠れませんでしたよ」


「大袈裟だねえ。このへんじゃ落雷は珍しくないんだよ」


「おや、ようやく雨があがったと思えば、ぶへっくしょん、まだあの山の向こうは墨をこぼしたような雨雲が残ってる。川上の村を訪ねるには渓谷沿いに行くのがいいですかねえ」


「渓谷はやめといたほうがいいよ」


「なぜですか」


「しばらく近づかないほうがいい。水かさが増してるだろうから」


 雨のせいで水かさが増し、流れが急になっているのだろう。


「ああ……ってなると……ぶへっくしょん」


「右じゃなくて左の道を行きな。行商の荷車がよく通るから整備もされてる。迂回路うかいろだけど女の足でも歩きやすいし、どっちも川にぶつかるからね。ぶつかるころには水かさも落ち着いてるだろうさ」


「そうしますよ。ご親切にどうも」


 宿屋の主人に見送られ、三人で出発したのだが──


「おい、さっき左の道を行けと言われたろう」


「従う義理はない」


 宿を出て一刻もしないあいだに李高と三娘が揉めだした。右と左の分かれ道にいたったのだ。


「五娘、姉さんを説得してくれ。おまえだって楽な道のほうがいいだろう」


「はあ」


 右の道は山の中腹を抜けるため起伏があり獣道みたいで歩きにくい。だが近道だ。左は山裾をぐるりとめぐるので遠回りだが往来には便利だ。よく利用されているのは左の道なのだろう。そのぶん人目につきやすくなる。


「きっと姉さんには考えがあるんだ。でなければ、李高さんのことが大嫌いなんだと思う」


「手ごころって知ってるか?」


「違う、そうじゃない」


 先を歩いていた三娘は、すでに木立のかげになって見えなくなった宿場に視線を投げた。


「理由はあれだ。獣道が嫌なら、李高、おまえとはここで別れるもよし」


「あれ? あれって?」


 宿のあるあたりから煙が立ちのぼっている。昨夜の雨で薪が湿気ったせいで煙たいのだろう。視界に入るのはそれぐらいで、三娘の考えていることは照勇には読めなかった。


「嫌ってわけじゃ……山道は疲れるから美人姉妹には厳しいんじゃないかなって」


 姉妹への気遣いのつもりのようだが本音は李高のほうが厳しいのだろう。真冬の湖で凍えたせいか、今朝はくしゃみと鼻水がとまらない。『美人姉妹』はもう三娘には無効だった。

 李高の体調を考えてあげるならば、ゆるやかな道を選ぶべきだ。


「でも、考えてあげるべきかどうかも考えるべきか」


 そもそも李高と行動を共にすることが益になるのか。ここで別れるもよし、と三娘は思っているのだ。

 宿屋の主人の優しさを無碍むげにするのは心苦しいが、われらが船頭は与三娘で間違いない。

 李高を味方につけておくことで照勇に益はあるのか。まったくない。


「姉さんが右に行くというなら、黙ってついていこうよ」


「五娘……」


 李高の声音はすでに泣き声混じりだ。


「嫌ならお別れですね。お気をつけて」


 かくして、李高は足をもつれさせながら獣道を進んだ。体力のない照勇もけして余裕があったわけではない。だが見たことのない植物を数えたり野うさぎを追いかけたりしているうちにいつのまにか渓谷にたどりついていた。植物は次第に竹の群生に置き換わっていき、笹鳴りが耳についた。


「風がまた強まってきてるね」


 先頭を行く三娘が立ち止まった。


「橋が流されている」


「ええ……!?」

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