第2-7話 逃げても無駄
「あの、弓月はどうしました?」
「あの子は納得ずくだよ」
「!?」
「特別に高い花代と引き替えに、枕の相手を了解したんだ。ちゃっかりしてるよ。あたしとしちゃ、ちゃんと教育してからにしてあげたかったけどね」
朱老太婆は少しだけ不満を漏らした。
家族のために、そして好いた相手のために一日でも早く稼ぎたいとこぼしていた弓月。本人が納得しているのなら自分の出る幕はない。止めに入らなくて正解だったのだと思うと少し悔しかった。
スッキリした顔で戻ってきた隻眼と目を合わさないように背を向ける。
「朱老太婆、ぼ……わたしの化粧をもっと濃くしたいのですが」
「はあ? なにも対抗心を燃やすこたあないよ」
照勇の肩をぽんと叩く。
「五娘はあと三年は配膳担当だねえ。やせっぽちだし、胸だってぺったんこだし。弓月の代わりにまめまめしく働くんだよ」
「……皿を戻して、新しい酒を用意してきます」
厨房では厨師の阿辺が鍋を振っていた。
「皿洗いを手伝います」
このまま厨房にこもっていたかった。殺し屋連中がいつ照勇の女装を見破るかわからない。だが阿辺はあっさりと断った。
「必要ない。それより饅頭が出来たから持って行け。全部の卓子をまわって配るんだぞ」
大皿の上に五段に積み上がった饅頭が置かれている。
「……はい」
照勇は阿辺の目を盗んで饅頭をふたつ胸にしまった。
厨房の壁にはずらりと並ぶ光るものを見つけた。
日が暮れると酒肆は目が回るような忙しさだった。目当ての妓女の順番を待って酒を飲んで時間を潰す者や、景気づけに軽く一二杯を引っかけて上階にあがる者。回転が早くてめまぐるしい。
胸の詰め物と濃い化粧のおかげで誰からも男とは気づかれていない。
沢蓮至たちもいつのまにか上階にあがって、めいめい部屋を取ったようだ。
宿屋代わりに泊まっていくのだろう。
殺し屋は沢蓮至とどんな関係があるのだろう。朱老太婆が言っていたように、中央からお役目のために派遣された連中は沢蓮至と連絡をとっていたのだろうか。
十年間も一緒に暮らし、父のような存在だった沢蓮至。密命が皇帝から発せられたのだとしたら、ぼくは慈父にも祖父にも見捨てられたのだ。
石栄を惨殺した殺し屋と一つ屋根の下に居る。そう考えると氷塊を飲んだように身がすくむ。いますぐに逃げ出してしまいたい。
入口を見る。客を引き込んでいた朱老太婆と目が合った。
「五娘、ちょっとこっちにおいで」
入口に近づく好機だ。隙を見て飛びだしてやろうと思って小走りに駆け寄った。
だが朱老太婆は照勇の二の腕はがっしりとつかんだ。
「外を見てごらん。あそこにいかめしい建物があるのがわかるかい」
「街を見下ろすように建っている、大きくて立派なあれですか」
どの建物かは一目でわかった。立派な門構えとひときわ目立つ朱色の壁。夜陰をものともせず燈火に浮かびあがっている。
「あれは政庁さ。怖い役人がたくさんいる。悪いことをすると捕まって牢屋に放り込まれるのさ。うちの用心棒よりもずっと恐ろしいんだよ」
「盗人や人殺しとか、悪いことをすればでしょ?」
芙蓉姐さんの恋人は知事の随行員だと言っていた。日中はあの官衙で働いているのだろう。
「逃げ出した妓女も捕まるんだよ」
「妓女も?」
「盗人は他人の物を盗んではいけないという約束事を破った者だろ。人殺しは人を殺してはいけないという約束事を破った者だ。さっき取り交わした契約証文だって約束事だ。借金を払い終えるまで、あたしはあんたを拘束する権利がある。借金を踏み倒そうとしたら、杖で滅多打ちにしていいことになってるんだよ」
「あんな不平等な証文なんて──」
根拠になるものか。役人に訴えたらわかってくれるはずだ。朱老太婆がニセの借金をでっち上げていることは明白なのだから。
「証文は証文さ」
朱老太婆はにたりと笑った。その笑みには憐憫を含んでいた。
役所に逃げ込んでも無駄だと釘を刺しているのだ。
おかしな話だと思う。ちょっと調べたら不正だとわかるのだから。官衙は朝廷が派遣した知事や長官によって運営されている。いわば国家の末端組織だ。庶人の規範となって正しさを証明しないといけないはずなのに、形ばかりにとらわれて現実を視てくれないなら、あってもなくても一緒ではないか。
石栄は俗世は非情な世界だと言った。
三娘は世の中に正義などないと言った。
夢も希望もない。昨日今日で一生分の絶望を味わった気分になった。
「下手なことをしたら損をするのはおまえのほうってことさ」
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