第3話 たった二年、されど二年

 鶏肉と野菜のシチューとパンという簡単な夕食を終えたレオンがちょいちょいと手を曲げて、私を呼ぶ。皿を下げるために近づいた私に向かい、

「フィル、いつも飲んでいたハーブティを2つ」

 2つ?ちょっと首を傾げてみるけれど、それでいいんだと頷くレオン。

 それならポットでサーブするよ?と言ったら、じゃあポットでサーブしてくれ、カップは2つ。と言葉を返してきた。

 どうやら私とお茶を飲みたいらしいと気付き、ちょっとだけ肩をすくめて頷く。皿とカトラリーを厨房まで運んで、彼のオーダーしたハーブティを用意する。

 このハーブティは、母さんのオリジナルブレンドを教わったもの。メインのハーブに朝や夜でブレンドするハーブをちょっと変えることで、すっきりしたものや安眠効果があるものに変化させて楽しめるので、レオンも気に入って毎日飲んでいた。

 彼のためにハーブティに最後のブレンドを加えて淹れるのは、私の仕事だった。

 珍しく手に入っていたハチミツの小瓶も用意して、レオンの待つテーブルに戻る。

 レオンはテーブルに肘をついて窓から見える風景を見ているようにも見えたけれど、この時間では外はもう暗いだけだ、窓を見つめながら何かに思いを馳せているのかもしれない。

 静かな佇まいで待っている彼の足元には、すっかり定位置に戻ったかのような顔をしたバロンがくつろいだ様子で伏せている。

 一式を用意したトレイを両手に持って彼の待つテーブルへと近づきながら、その二年前と変わらぬ彼の佇まいと温めたポットから立ち上るハーブティの香りが、あの頃の記憶を緩く軽やかに蘇らせる。

 懐かしいな。そんな言葉が唇を動かすけれど声にはならない。

 まだほんの二年前なのに。でももう二年前なんだ。

 テーブルの上にトレイを置いて、彼の向かいの席に腰を下ろす。

 程よく蒸しの時間を終えたハーブティを2つのカップに注ぎ分ける。

「はい、どうぞ」

 私たちの間に緩やかに立ち昇るハーブティの優しい香り。

 レオンがカップを持ち上げて唇を付ける、その流れるような整った仕草が貴族のように見えて、ちょっとどきっとする。

 そんな気持ちをごまかすわけじゃないけれど、自分もカップを手にして、ふぅふぅと息を吹きかけてからハーブティを口にする。

 夜も更け行く時間なのでブレンドにカモミールを選んだのだけれど、自分を落ち着かせる効果も少しはあるかしら。

「で。アルベルトさんもロゼリアさんも姿を見ないし、今月で宿を閉めるってどういうことなんだ?」

 やっぱりそのことかぁ。まぁ、父さんも母さんも見当たらないんだし、そうなるよね。

 聞かれてもおかしくはないことだし、まぁ当然の質問かな。

 レオンの深みがある琥珀色の瞳は静謐なまま、私を映している。

 そこには脅迫のような強さはなくて、まっすぐな眼差しと真摯な表情という様子から、私が自分のタイミングで話し出すのをじっと待ってくれているという思いが感じられる。

 受付でおたついた時にも感じたけれど、相変わらずこういう場面では優しい。

 彼の琥珀色の瞳を見返しながら、どこから話そうかと思案していたのだけれど、その真摯な視線含めて整っているというか整いすぎているレオンの顔面にどきどきしてしまう。

 そ、そんな場面じゃないのに、自分の顔がぽぽっと赤くなっている気がする。

 動揺している自分を落ち着かせたくて左手でこめかみから流れる亜麻色の髪の一束をくるくるといじって、話し出すタイミングを自分で計るけれど、やっぱりイケメンを見ているとドキドキしてしまう。

 あぁ、これはもうダメだ、何か遮らないと落ち着かない……

 ふうっと軽めにしながら息を吐いて、温かいカップを両手で握りしめて、彼を見ないようにするために目を閉じる。

「……一年半くらい前かな。母さんが体調を崩したんだよね。

 母さんは薬草の知識が豊富だったから色々と試してみたんだけど、治療としてはあんまり効果がなかったみたいで。ただ、薬草のおかげか苦しんだりすることはなくて、ある朝起きてこなかったんだ」

 あの朝のことが、ぎゅっとつぶった眼の裏に浮かぶ。

 いつも通りの朝だった。いつもと変わらない朝だった。

 自室の扉が何度もノックされて、一瞬しつこいなぁと思ってすぐに飛び起きた。父さんがそんな風に扉をノックする事なんて、普段は絶対にないことだから。手近のショールを肩に羽織ってすぐさま扉を開けた。

 いつもと違う表情の父さんが立っていた。顔の色がないっていうか、表情がないっていうか、いつもと違うことだけ強く印象に残っている。

 その雰囲気だけで、私は両親の部屋へと駆け寄った。そんなに広い家じゃない、十数歩位の距離。なのに、慌てて駆け寄っているはずなのに、なんだか扉が遠くに感じた。

 手を伸ばして、ノブを回して、もどかしく扉を開けて。

 母さんの眠る寝台へと、躓きそうになりながらも駆け寄って。

「母さんはいつもと同じ雰囲気のまま……亡くなってた。

 その顔も寝顔みたいな感じで普通で、母さん起きて。って声を掛けたら、ふって目を覚ますんじゃないかって思うぐらいに、いつもと同じ感じだった。

 なのに不思議だよね、天に召されているってわかったの」

 寝台の上に横たわる姿は寝ているようにしか見えなかった。でもそこに“生”を感じることがなくて、触れなくても、もう母さんはここにいないってことが分かった。

 ベッド際に跪いて、母さんの手に、頬に、触れた。昨日までは弱々しいけれど暖かくて、私を見ると微笑んでくれていたのに。その全てがひんやりとしている。

 少し呆然としていたと思う。

 後ろから肩に父さんの掌がそっと添えられたことで、自分が呆然としていたらしいことに気付いたから。そのまま引き寄せるでもなく力強くもないその腕の重みを感じて振り向いた瞬間に、泣くことを忘れてしまったかのような父さんの顔を見て、自分が泣き出してしまった。

 嗚咽する私の頭を父さんはただ撫でて、震える肩を支えるように抱きしめてくれていたけれど、きっと父さんの方が泣いていたと思う。涙が出ないだけで、私よりも深く。


 レオンを見ながら言葉を告げるのが辛くて見ないように閉じていただけの目、いつの間にか力が入っていてぎゅっと強く瞑っていたみたい。

 そうっと瞼を持ち上げて開いてみると、強く瞑り過ぎていたせいか白いチカチカした星で視野が奪われた。慌てて顔を上げて視線を動かして、何度も瞬きしてチカチカしてる星を追いやろうとする。

 その瞬きで、知らないうちに眦にたまり始めていた涙の粒が小さく弾けて零れ落ちた。

「―― !」

 レオンの唇から何かがこぼれて、でも言葉にはならなくて。そのまま私たちの間にある静かな空間に、水で薄めるかのように緩やかに溶けていく。

 少しの沈黙。少しの躊躇。少しの距離。

 そんな場面を自分でもどうしていいかわからなくて、慌ててまたカップの中をじっと見つめていると、柔らかなレオンの声が静かに聞こえた。

「そ、れで。アルベルトさん、は?」

「母さんを見送った後、半年後くらいかな。この辺りで長雨が続いた時期があって。

 山肌の土砂崩れが起きやすい場所へ、村の自警団の人たちと一緒に見回りに行って……」

 ひゅっと息が飲まれた。自分が飲んだのか、レオンが飲んだのか。二人ともが、息を飲んだのかもしれない。

 どうしても顔を上げられなくて、俯いたままで言葉をつなげる。

「他の人たちを助けて、土砂崩れに巻き込まれて、母さんと同じ場所に行っちゃった」

 声が震えないようにするだけで、精一杯だった。代わりに早口になってしまって冷たい声になったように感じたけど、これ以上はうまく出来なかった。

 両手で握っていたカップがテーブルに触れて、小さくかたかたと耳障りな音を立てる。

 でも自分の意志で音を立てているわけでもなくて、止めようとしたいけれどどうしたらいいのかわからなくて、ただカップを見下ろしてた。

 だんだんとカップの輪郭が水を刷いたようにぼやけて滲んでいく。と、その視野の中にレオンの両手がゆっくりと伸びてきて、そっと私の手をカップごと包み込んだ。

 彼の手は冒険者だからか大きくて厳ついのだけれど、でも暖かくて優しい力強さをいつも感じる。その上にぽつぼつと私の瞳から涙が落ちる。

「――すまなかった」

 カップから目を離せず俯いた姿勢のままで、レオンが告げた静かな声を受け止める。すぐに首を左右に振った。

「そんなことになっているとは知らずに訪ねてきて……

 いや、もっと早く訪ねてきていれば……」

 逡巡と戸惑いの混じったような複雑な声音が続いて止まる。

 私も、彼も、次の言葉を紡ぐことが難しくて、ただ静かに夜の帳の中にひっそりと佇む。

 カップを見つめていた視野にあったレオンの両手がゆっくりと開かれて、ゆっくりと離れていく。私の視線は変わることなく、カップの中をただ見ている。

 ――何か言えればいいのに。

 かたん。とレオンが椅子から立ち上がる。こつ、こつ、と歩み寄る音は数歩分。

「もう休もう。続きは、明日」

 彼の手のひらが私の肩にやさしく触れる。立ち上がるように促す言葉と手の動きに導かれて、小さく頷いて私も立ち上がる。

 レオンの動きに合わせて私の足元まで来ていたバロンが、その温かい鼻づらで私のふくらはぎを数度こする。まるで僕がいるから大丈夫だよ、と励ましてくれているように。

 両親が続けていなくなった時に、心の支えとなってくれたのはバロンだった。今と同じように何度も何度も寄り添ってくれた。

 昼も夜も何も出来なくなっていた私のそばに寄り添って、そのぬくもりを与えてくれた。とても深い悲しみはどうしようもない気持ちのまま残っている日々だったけれど、不思議なことにバロンが寄り添ってくれることで少しずつ形を変えていくことができた。

 今がもう全てが大丈夫なわけではないけれど、それでもバロンがいてくれて本当に良かったと思える。

「お前もそう思うよな」

 レオンはそう言いながら、バロンの頭をくしゃくしゃと撫でる。

「わふっ」

 私たちの言葉が分かるようにバロンが答える様に、ちょっとだけど笑みが零れた。

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