二
一九九一年、夏。
周囲の山々は盛んに萌え、山滴る季節。
軒先にある主のいないツバメの巣も、すっかりと干からびている。
ほんの数カ月前、仕事も伴侶も失って独りになった僕には、両親から頼まれた田んぼの世話をするしか選択肢がなかった。
偶然通りかかった近所のお爺さんに、田んぼをやりたいと伝えれば、しばらくの静寂の後に返ってきたのは「農協に行け」という冷たい声。
だけど、軽トラックで一〇分もかからずに辿り着いたそこでは、青年部が就農支援コーナーを設けていて、紙の資料をごっそりと渡されたものだった。そこで両親から田んぼを任されたこと、お爺さんのことを話すと、「三郎さんは変わり者だからな」と意図せずあの矍鑠とした老人の名前を思い出すこともできたのである。
しかし、再会したときならともかく、子供の頃の僕には三郎さんが変わり者であった記憶などない。両親が変わり者であることは、幼いながらも薄々思ってはいたのだが、或いは、それで三郎さんのことを変わり者だと思わなかったのかも知れない。
そんなことがあって、僕は実家のすぐ隣にある田んぼ二枚の世話を始めた。
両親は余所から越してきて、僕も余所から戻ってきたというのに、地区の人たちは親切で、その中には変わり者だとして距離を置かれている三郎さんも含まれている。なぜ、三郎さんが距離を置かれているのかは、彼を変わり者だと思えない僕には分からなかった。
「暑いな」
塩化ビニールのパイプで作った
東京よりは涼しく、気温が三〇度を超えることなどほとんどないというが、今日はどうも当たってしまったらしい。こういう日は忘れずに水を入れなければ、稲はすぐにやられてしまう。かと言って多くやってしまうと、それもそれで根腐れでやられてしまうから、前に三郎さんから教えてもらった目安をメモした紙を片手に、畔に腰掛け、のんびりと待つのである。
すると、ゴム底の足音が僕に近づいてくるではないか。この足音はもうすっかりと耳に馴染んでいる。きっと三郎さんのものだろうと振り向けば、予想通りであった。
僕と同じように麦わら帽子に長袖長ズボン、そしてゴム長靴という格好で、背筋はしゃんとしているが、やはりどうにも暑そうだった。
「暑いな」
三郎さんが、つい先ほど僕が呟いたものと同じ言葉を繰り返す。
「暑いですね」
僕もオウム返しにする。
空を見上げればまったくの青空で、蝉の声と水の音と稲が揺れる音、そして遠くを走る自動車の音だけがしばらく流れた。
水位が程よくなったところで
「いいとこ、連れてってやる」
大学、そして就職で東京に出ていたとはいえ、僕も高校を卒業するまではここに住んでいたのだから、今さらいいところなどあっただろうか。
「早く来い」
少し逡巡している間に三郎さんはさっさと歩き始めて、僕を催促する。これはしょうがないと腹を決め、そのままの格好で三郎さんの後ろを歩く。そうして見えてきたのは道のどん詰まりにある林で、いいとこ、という程でもないように見える。しかし、いざ明るい林の中に入ってみれば、三郎さんがいいとこと言ったのも頷けるものだった。
まばらに陽射しが届くその場所は、
キョロキョロと観察しながら三郎さんの後をつけて進めば、果たしてそこには僕が予期した通り小川があった。しかしその流れは石によって整えられたもので、人工的に造られた水路であった。
瞬間、キラキラと夏の日差しを反射する水に、ひんやりとした匂いと、誰のものとも知れぬ子供の笑い声が浮かぶ。
僕は、ここに来たことがある。
子供の頃、やはり夏の季節に両親に連れられ、水深が一〇センチにも満たないこの場所で、何度も水遊びをした記憶がある。
記憶の中のこの場所は、周りの木々も高く鬱蒼としていたけれど、或いは昔からこうだったのかも知れない。
「冷たい!」
昔のように靴と靴下を脱ぎ捨て、ズボンの裾を折り上げて無造作に入ると、その水の冷たさに悲鳴のような声が出た。慌てて三郎さんの方を見遣れば、あの人は長靴と靴下を脱いで足を投げ出しているだけで、水の中にまでは入っておらず、「土食て虫食て口渋い」だとか「
確かにこの冷たさでは年配の人間の心臓には悪いだろう。
けれど折角だ。
ろくに海水浴にも行ったことがない僕の貧乏性がすぐに上がることを良しとせず、反対側の岸まで歩いてみようと促してくる。冷たいと感じたのも最初のことだけのように感じられたことから、どうにもその好奇心に抗えなかった。砂と小石を足の裏に感じながら、僕は年甲斐もなく一五メートルほどの向こう岸まで歩く。そこで何かを得られたかと言えば、そのようなこともなく、元いたところまで若干の後悔を抱えながら戻っただけになった。涼んでいる三郎さんの顔は硬く、それについて特に口を開くこともない。
「ここの水は、どうしてこんなに冷たいんでしょうね」
しかし、少しの気恥ずかしさを冷たい水になすりつければ、それについては語ることがあるようだった。
「ここの水路は
「ぬるめ……冷たい、ぬるいのぬるめ?」
「ここいらを流れる川は、水が冷たすぎて田んぼには使えないからな」
「それで太陽の光で温めようと?」
「うん。土地が強い酸性で畑ができないというのに、水が冷たくて稲も少ししか育たない。戦争が終わって儂らが来た頃には、そんな酷い有様だったが、これができてから随分と米もできるようになったもんだ」
名前も知らずに無邪気に遊んでいた僕と違い、三郎さんのぬるめへの思い入れは強い。聞けば、昭和三〇年代に始まった工事には、三郎さんも進んで参加したのだという。そうして、いつもより饒舌な三郎さんからぬるめ――本当は温水路というのだそうだ――の重要性を聞くも、やがて話は終わり、二人のうちのどちらが言うでもなく帰路についた。
帰り道、三郎さんのしゃんとした背中と北アルプスの雄大な山々を眺めながら歩いていると、辺りにはいつの間にか美味しそうなソースの匂いが漂っていた。
己の空腹に思わず匂いの元を探すと、少し離れた空地に今日はいくつかのテントが立っている。お囃子は聞こえてこないが、ソースの匂いとテントと言えば連想されるのは祭りであり、それも恐らく地区の集まりのようなものであることは想像に難くない。
「三郎さん、お祭りをやっているみたいですよ。一緒に行きましょう」
そう声を掛けると、三郎さんはテントの方を見てから、「儂はいい。一人で行って来い」といつもの調子で答えたのだった。
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