底なしの国

桜橋 渡(さくらばしわたる)

第1話 理想の世界

 岩を削る音が継続的に鳴る。砂や小石が散乱した灰色の世界に響く数少ない音だ。そこかしこに置かれた複数の松明が光熱を満遍なく行き渡らせ、岩と金属、そして行き交う異形の者たちを絶えず照らし続けていた。

 ここは人権を与えられず、都から隔絶された者たちが、文字通り手作業で採掘を行う採石場だ。今もまた二足歩行で作業をする者の足元を、別の四足歩行の者が縫うように歩いていく。己の角や爪を岩肌へ振い続けている彼らはそれぞれ異なる容姿を持っており、皆一様に底人と呼ばれていた。

 その隅にある人目のつかない岩場に、一人の底人が傷だらけで倒れていた。黒い作務袴を着ており、両手には獣のように硬く尖った爪が備わっていた。底人は薄目で様子を伺っていたが、加害者たちが去ったと知るとゆっくり体を起こし、うずくまる体勢で座った。頭からは黒い血が流れ、白い手足には内出血の跡がいくつも浮かんでいた。これらは全て自分たちを見下し、支配下に置く都人から受けたものだ。袖に手を通すと中に入っていた本を取り出し、胸を撫で下ろす。絵がついた子供向けの事典だ。幸い取られずに済んだ。

 ふと耳が音を捉える。叫び声と足音が遠くから響き、やがて唐突に静まり返った。また何かあったのだろうか。やがて沈黙が続いた後、土を掘り返す音がこちらへ近づいてきた。

「無ヶ、大丈夫か」

 どこからか声の主がする。くぐもってはいるが仲間の声だ。無ヶと呼ばれた底人は立ち上がる。

「あぁ、私だ。血の臭いを辿ってきたのか」

「そうだ。都人にやられたそうだな」

 横から爪が飛び出し、容易く岩を砕いて大穴を作る。そこから顔を覗かせたのは目元を包帯で巻いた大男だ。

「大丈夫か? 複数人から叩きのめされたそうじゃないか」

 鼻先を動かしながらそう尋ねる彼の名は、熊手だ。名前の通り爪や指全体が大きく湾曲し、表面が金属のように硬化している。両手の指先は泥や土に混じって赤く濡れていた。

「私は大丈夫だが、その手は?」

「お前の仇を取ってやった。なに、軽く突いた程度だ。死にやしない」

 驚きを隠せない無ヶと対照的に、次は半殺しもいいなと笑って見せる。熊手の指先は岩石に容易く穴を開ける。つつくだけでも致命傷になりかねない。ありがとうと言いながら、彼にあまり暴れないよう注意した。

「どうってことないさ。俺たち底人は頑丈で、どんな怪我でもあっという間に治ってしまう。都人なんざ敵でもない」

 お前だってそうだろうと言われ、無ヶは自身の腕や頭に触れる。黒い血の塊が皮膚に張りついてはいるが、もう出血は止まっていた。内出血した箇所も縮小し、一時間もすれば完治するだろう。しかし心配事は他にあった。

「私は彼らと対立したくない」

「ほう。どうして」

 無ヶは熊手の疑問に答えられなかった。俯いたまま言葉を探していると、頭に手が置かれた。

「とにかく戻ろう。もう離れて作業するなよ」

 無言でうなずくと、彼の後を追って開けた場所に出た。いくつもの松明に包囲された空間に、作業をする者たちが二手に分かれて採石と運搬を行っていた。中央には寝食や交流を行う石造りの建物があり、ロッジと呼ばれている。だが都人が来てからは彼らの拠点となっており、食料等の支給品も独占状態にあるのが現状だ。

 しかし二人の目指すロッジは別にある。

「休憩になっても来ないから、俺が様子を見に行ったのさ。そしたら、奴らの声を聞きつけた」

熊手は誇らしげに語る。

「都人が底人の作業現場に来ることなどまずない。更にお前の血の匂いがすると気づいた。こいつらがお前に何かしたと確信したのさ」

「しかし、いきなり手を出すなんて……。彼らはなんて言っていた?」

「分からん。何か叫んではいたなぁ」

 ロッジと対極側にある茂みを通り、狭い隙間に体をねじ込む。岩の裂け目の先から姿を現したのは、別の建物だ。先ほどのより小さいが、地形に沿う形で複数並んでいる。松明もないため視界はほぼゼロになったが、夜目が効く無ヶたちの障害にはならない。それにここは二人が生まれ育った場所でもあり、過ごした年月は共用のそれより遥かに長いと確信していた。今も底人たちがめいめい水を飲み、食事を取り、団欒の時を過ごしていた。

「おーい皆、戻ってきたぞ」

 熊手が手を振りながら大声を上げる。二人に気づいた底人達は鼻先を動かすと、慌てた様子で這い寄ってきた。鼻を二人の足元にすり寄せ、すんすんと音を立てている。

「無ヶ、話は聞いたぜ。いじめられたんだって?」

「都人め。仇を取ってやる!」

「まぁまぁ、落ち着いてくれよ。ちゃんと仇は取ったし、一から話すから」

 熊手が笑いながらことの次第を語ると、彼らの間から限りない称賛の声が上がった。底人と都人の対立は深く、先ほどのようなトラブルが水面下で絶えず繰り広げられていたのだ。一対一で対抗できる者は熊手を含め少数しかおらず、常に彼らへの復讐を願う者も少なからずいた。

「これを機に都人へ報復しよう。もう彼らの支配下にいるのはうんざり!」

 胴の長い胴長という底人が短い腕を掲げる。白い包帯が闇の中で存在感を放っていた。

「おぉそうだ。胴長よ、地の利では我々が圧倒的に有利なのだからな」

 薄い羽を持つ薄羽も賛同する。だが無ヶは唯一消極的な態度をとった。

「彼らは私たちよりずっと賢い。また下手に騒ぎを起こせばこちらの立場も悪化し、より大勢が連れていかれる可能性がある」

 薄羽たちは納得いかなそうに顔を見合わせる。それがどうしたと言いたげだ。

「無ヶよ、お前は突然ここへ来て傍若無人に振る舞う都人を許せと言うのか。我々と違って手首の羽や鋭い鉤爪など不要なものばかり揃えた彼らが、こちらに勝るものなどないと言うのに」

「彼らには知性がある。それこそ都という大都市を建設し、文明を作るだけの知性が。だから、彼らに暴力で挑むのは得策じゃない」

 無ヶは袖から辞典を取り出し、間に挟んだ地図を取り出す。ここの採石場の全貌を描いたもので、今後の計画に必要なのだ。と言っても底人の特性上無ヶにしか使えないのだが。

「私は彼らと戦うのではなく、逃げたいと考えている。支給品が届く時にしか開かない門があるのだが、そこを狙うのはどうだろう」

 薄羽が唸りながら羽をはためかせる。彼女の性格上、逃げるという行為に抵抗があるようだ。

「まだ情報が足りないから、私はもっと調べてみる。どうか信じてくれ」

「おーい、ひと段落したか?」

 熊手が割り込んできた。

「あまり考えても仕方ないさ。いつも通りに行こうぜ」

 彼の声を皮切りに話し合いは終わった。薄羽含めた皆が彼のことを信頼しており、彼の言うことは常に正しいと言う共通認識があったからだ。二人は隅まで移動すると石の上に座りこんだ。

「薄羽たちは俺の話を聞いていい気になってるだけだ。一晩寝たら忘れるに決まってる」

 どうかなと自信なさげに呟く。否定も肯定もできなかった。自分たちだけの住処や食糧があるとはいえ、都人からの差別や弾圧による不満が解消されるわけではない。この不安定な状態を永遠に保てないこともわかってはいた。

「私は彼らに対し、何もできていない」

「今みたいにまとめ役を務めているじゃないか。平穏が保たれているのも、お前が皆に呼びかけているからだろうよ」

 それは皆の協力があってのことだ。と言い返したかったが、せっかく褒めてくれたのでありがとうと返すことにした。

「お前は年の割に賢いからなぁ。あいつらの言葉が分かるのは大したもんだよ」

「彼らの会話を盗み聞きしてたからさ。それにこれのおかげでもある」

 地図を挟んだ事典をそっと閉じる。採石場で落ちていたものをたまたま拾ったのがきっかけだ。好奇心のままに読み耽ったことで、彼らの言語の理解に大いに役立ったのだ。

「この採石場だけが全てじゃないと知った時、この世界の可能性に気づいたのだ」

「どんなだ?」

 適当にページをめくって広げる。

「世界は知らないものに満ち満ちている。例えばこのリンゴっていう文字。赤くて丸い食用の木の実の名称だ。中の種子は食べられない。赤というのは都人の血の色と同じだが、絵を見る限りとても綺麗な赤なんだ。うーん説明が難しいな……」

 無ヶは頭を抱えた。言語は同じなのに、熊手のような者に色という概念を教えるのはとても大変だ。彼は困ったように肩をすくめた。

「簡潔に述べてくれ。リンゴと俺たちの境遇の関連性を、端的に話してくれ」

「底人が差別されず、自由に暮らせる世界だってあるかも知れないということだ。希望的観測だが、私はそれを信じている」

 熊手はそれを聞くと、そうかとゆっくり瞬きした。包帯の隙間から見えた彼の目は、濁っているにも関わらずこちらを見透かしている気がした。

「血は争えないな。お前はやはりあの人の子供だ」

「母親のことか?」

「そうだ」

 彼は遠くを見つめると、岩を長年かけて穿つ雨垂れのように、ポツポツと言葉を紡いだ。

「幼いお前のために都人へ反発し、言語を学んで自由を訴えていた。ある日急に姿をくらました時、皆探したよ。都人共に彼女をどこへやったか問い詰めていた。外の連中が鎮圧に来るまで騒ぎは続き、当時の俺は怯えるお前をずっと抱きしめ続けていた」

 その話は前にも聞いた覚えがある。物心がつく前の出来事だったため、無ヶにとって親とは熊手のような人物というイメージができていた。

「ここだけの話。俺は信じている。彼女が都かどこかで元気で生きているって。だって俺が憧れていた人でもあるからな」

 もしこの外に出たら会えるのだろうか。そう思っていると、熊手が肩に手を置いて上を見上げた。

「たまに思うんだ。俺たちの世界は真っ暗だが、お前はどんな世界を生きているのだろう。お前が住みやすい世界をこの手で作れたら、どれだけいいだろう」

 目を固く瞑る。理不尽な暴力が蔓延る毎日だが、熊手のような理解者がいるだけで強くいられるような気がした。

「自分が住みやすい世界はただ一つ。底人が差別されず、それぞれが自分に備わった特徴を活かせる世界だ」

熊手はそうかと無ヶの頭をなでた。無ヶも上を見上げると、暗闇に等間隔の灯りが浮 かぶ天が目に飛びこんできた。どこかにきっとあるはずだ。本の中にしか存在しない、青色の空に包まれた世界が。

「お前なら見つけ出せるさ。もしなかったとしても作り上げてしまえばいい」


 定刻になると再び採掘が行われる。誰かが決めたわけでもないが、都人と底人は別れて作業に当たっている。底人が岩を削る役割で、都人はその岩を然るべき場所に運搬し、スペースを作る役割が自然と決まっていた。無ヶは先ほどのことがあったので薄羽や熊手と近い位置で岩を削ることにした。黙々と爪を振るっていると薄羽が話しかけてきた。

「ねぇねぇ、この岩石何に使うのだろうな? 積み上げて遊ぶか都人の頭をかち割るくらいしか用途がないな」

「私も詳しくは分からない」

 そもそも採掘の目的自体知らされていないのだ。ただ自分たちはどこからか監視されており、仕事をしない者は外へ連れ出される。その行方は誰も知らない。そして掘り出された岩石がどこかに運ばれることもない。外部から人が来る時も支給品の配給と働けない者の連行が目的で、労働者の様子を見ることもない。基本無関心なのだ。

「何のためにこんなことしているのだろう」

 無ヶは思わず手を止めた。都人のうち大多数は都で暮らしているが、ここにいる者たちは訳あってここへ運ばれたらしい。彼らに聞けば分かるだろうか。しかし普通に聞いたところで答えてくれるわけがない。すると後ろから這い寄る足音が近づいてきた。胴長が紙やすりを抱えていた。

「これいる? ロッジにいっぱいあったよ」

「おぉ、かたじけない!」

 二人は自身の爪を見た。無ヶは岩を削る作業でひび割れており、爪の皮膚の間には砂利が詰まっていた。薄羽は飛んでいるだけで爪は使わないのだが、好戦的な彼女曰く、戦闘に向けて備えたいそうだ。爪を研ぎながら胴長は満足そうに笑っている。

「しばらくは爪割れに困らないでしょう。あいつらに取られないうちに全部持ってきたの」

「よくやった! 日頃の仕返し成功だな!」

 紙やすりの枚数は二十枚と少しだ。普段支給される数は三枚程度だから、今回はやたら多い。裏返すと何か刻まれた跡がある。爪先でなぞると砂利がついたので、岩か何かで削ったのだろうか。

「胴長、ロッジの近くに誰かいたか?」

「都人がいたよ。私を見てやたら笑ってたけど、何もしてこなかったよ」

 彼らがただ底人を笑うだけの連中ではない。もしこれらがただの支給品じゃないとしたら……。

「薄羽、松明を持ってきてくれ」

「いいとも」

彼女が近くの松明を両足で掴み、運んできた。薄闇の中で見えないなら、明かりの元 で見れば良い。薄い紙やすりをかざした途端、それは浮かんできた。

「来い」

「来い?」

 動揺を隠そうとしながら大きくうなずく。他の紙やすりも松明にかざす。底人、採石、目的。間違いない、これは全て都人からのメッセージだ。

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