アカシック・コード:000 転生都市怪奇事件録

アスノウズキ

case:竜死一生

第一話 Turn over/ひっくり返す①

 人生はなぞなぞのようなものだ、と誰かが言った。

 例えば俺の場合、十二の頃に父親を殺すことになった。

 父親は酒浸りで、酔うと俺や母親にも暴力を振るうろくでなしだったが、その時は違った。完全に別のものになっていた。

 よく憶えてる。割れた月が馬鹿みたいに明るい夜だった。俺が家に帰ると、母親がリビングに横たわっていた。どうして、と思う間も無く理由がわかった。あたり一面血の海で、父親が、掻っ捌かれた母親の腹に首を突っ込んでいたからだ。食っているのだ、とすぐに分かった。

 顔じゅう血まみれの父親と目が合った。俺は逃げたが、どうにもならなかった。床に抑え付けられて、母親の血がべったりついた歯で、父親が俺の喉笛を噛み切ろうとしているのがわかった。

 俺は必死だった。近くにあった花瓶を手に取って、父親の頭を殴りつけた。

 父親には恨みがあった。俺や母親を理不尽に殴りつけるこの男を殺したいと思ったことが無いとは言わない。だが少なくとも、この時俺の中にあったのは憎悪ではなかった。ただ、生きるのに必死だっただけだ。

 何度も何度もそうする内に、やがて父親は動かなくなった。リビングには父と母の血が夥しく流れていて、鉄の匂いがあたり一面に漂っていた。今や嗅ぎ慣れた人間の死の匂いだ。

 それから俺はほどなく企業複合体の運営する施設に保護された。最初は全くわけがわからなかったが、どうやら父親は狼男だったらしい。

 なら俺もそうなんじゃないかって? それは無教養から来るありふれた勘違いで、かなり差別的だ。『転生病』患者はある日突然自分を人間ではない"何か"と錯覚する。そこに遺伝性は無い。

 ともかくそんなわけで身一つで綺麗さっぱり天涯孤独になった俺は、自分で自分を生かす方法を探さなきゃならなくなった。


 これが俺の目の前に現れた最初のなぞなぞリドルだった。答え合わせは誰にもできない。本当に正解なんてものがあったのかも、誰にもわからない。

 だが事実として俺は父親殺しであり、『人狼殺し』でもあった。暴力の記憶が俺を歪め、その在り方を決定した。それが、俺に課せられたなぞなぞリドルへの答えになった。


 このエンブリオ市には、無数の転生病者が住んでいる。狼男、吸血鬼、人魚にハーピィやゴブリンにオークまで、唸るほど居る。ここはそうした罹患者を集めた元人間達のための医療特区なのだ。

 転生病にかかって自分を人間以外の怪物だと思い込んだ奴らがひしめき合って暮らすこの街はまさしく混沌とした種族のサラダボウルで、日々あらゆるところでクソどうでもいいものから最悪に厄介なものまで諍いと暴力に満ち満ちていてシミのように消えることはない。

 まさに絶え間無き悪問のなぞなぞリドル

 それが、俺の飯の種だ。


「ころっ」


 俺を囲む男のうちの一人が『殺せ』、とかなんとか言おうとしているのが分かったので、俺は聞き終わるのを待たずにそいつの喉を突いた。異常巨体のオークは喉を押さえて膝から崩れ落ち、悶絶した。

 ゴブリンだろうがオークだろうが急所の位置はそう変わらない。そもそも、どいつも自分でそうと思い込んでるだけの人間でしかないからだ。


「無理に決まってんだろ、ブタヅラ」


 オークの転生者は、その多くが自らの顔面を亜人のそれに整形し、人工筋肉や人工脂肪を後付けする。

 彼らの認識が持つ人ならざる自分の姿と、現実の彼らの肉体の乖離による認知的不協和を埋めるためだ。

 俺にしてみれば進んで不細工になっているだけのように思えるが、本人達にとってはそれが必要な"治療"なのだ。


「███ッ! █せ!」


 "転生"して別の種族になってしまった奴らは元の人間のコミュニティには馴染めない。必然的に同族同士のコミュニティを作り、時には彼らにだけ通じる言語やスラングでコミュニケーションを図る。

 そうやって種族同士の同一性を高めることで自分を"そういうもの"として定義しようとするのだ。

 スラング混じりのオークの言葉は俺にはほとんど理解できなかったが、それでもそこに込められた刺々しい敵意は理解できた。襲いかかってきたそいつの顎を掌底でかち上げて、そのまま脳天から床に叩きつける。

 ゆうに200kgはあろうかというオークの異常巨体を叩きつけられて、コンクリートの床にクレーター状のヒビが入った。

 俺を囲む一群に、動揺がさざなみのように広がるのがわかる。

 ここまでの全てが、俺にとっては造作もないことだった。


「人を探してる。おたくらの"客"はどこに居る?」


 俺の質問に、オーク達は誰一人答えなかった。いくら彼ら自身がそうである事を認めようとしなくても、彼らも元は人間だったからには俺の言葉は通じているはずだったが、そこにはどうしよぅない断絶があった。

 オーク達は答える代わりにめいめい雄叫びをあげ、手に持った鈍器を振り回した。


 俺は俺自身に暴力の徒であることを望み、その中で戦い続けることを自らの価値にする道を選んだが、それでも対話の余地さえもを奪ってしまうようなどうしようもない暴力の渦を前にすると悲しい気持ちになってしまう。

 暴力が全てを等しくする。後には何も残らない。

 俺は襲いかかってくるオークを一人一人丁寧に昏倒させた。俺以外に動く者が居なくなるように、徹底的に。


「██ッ!」

 

 それは金切声の悲鳴のようでもあったし、あるいは本当に豚の鳴き声のようでもあった。少なくとも彼らにとってはそれが言語であり、俺に向けられた殺意の発露なのだった。

 硝煙を上げる銃口が見えた。

 オークだって拳銃くらい使う。当然だ。実際には人間なんだから。


「痛えな」


 衝撃によろめいた俺が血の一滴も流さずに再び体制を持ち直すのを見て、オークの目に明らかな困惑が広がった。

 オークは立て続けに引き金を引く。俺は両腕で顔を庇い、そのまま突進。銃を持った腕を掴み、横っ面を殴り飛ばす。オークの異常巨体は、馬鹿馬鹿しいほど軽く吹っ飛んでいった。


「骨が折れたらどうするんだよ」


 残るオーク達の俺を見る目に、戸惑い以上のものが浮かぶのがわかる。それは恐怖だ。人間が化け物を目にした時に浮かべるのと、ちょうど同じ類の。

 だが、この世にはそんなものは居ない。オークもゴブリンも人魚もハーピィも、全部そう思い込んだだけの人間だ。俺はスーパーマンじゃないし、そう思い込んだ勘違いマンでもない。

 怪力のタネも、単なる仕事用のパワードスーツのおかげだ。オーク達のような拡張義体サイバネティクスなんて、ただの人間が使えばすぐに正気じゃ居られなくなる。俺のは、ただそういう機械を身につけているだけだ。


 オークの内の何人かが、武器を捨てて俺が入ってきた入り口に駆け込むのが見えた。現場放棄だ。存外に人間的な反応と言えるだろう。

 やめておけばいいのに。恐れを知らない怪物のままで居たなら、それ以上のものなんて味わう事もなかったのに。


「おいギギ、そっち行ったぞ」


 俺がそう呼ぶと、応えるように鉄扉が跳ね飛んだ。

 彼らがまず目にしたのは、腕だった。

 人間のそれでは無い、鱗を生え揃わせた、腕のように発達した前肢だ。

 その爪が跳ね飛ばした鉄扉をまるで紙屑のようにくしゃくしゃに丸めた。

 次に見えたのは目。爛々と輝く黄色い瞳を、黒い瞳孔が縦に割く爬虫類の目だ。

 次いで悍ましく生えそろった牙が、尾が、翼が見えた。

 ドラゴンが、彼らの前に立ち塞がっていた。


『私ニ無駄働きヲさせルな、カブト』


 ドラゴンは人語を発して、俺の名を呼んだ。どことなく、機械的な発声だった。

 ゆらゆらと揺れる尾が、鉄の鞭そのものの威力でオークを打ち据えると、彼らは一斉に恐慌に駆られ、降伏した。

 ドラゴンは、あらゆる生態系における頂点捕食者だ。彼らの変性した自我には、その根源的恐怖が刻み込まれていた。


「火を吹くなよ、燃えると人探しどころじゃなくなる」

『竜の息吹ハ、そウ易々と見せルものデハ無い』


 ドラゴンは誇り高い。無限に等しい命を持っていて、常に定命の者を見下してるからだ。

 奴らはそういう世界観で生きている。俺の相棒もその例に漏れない。


「まあいいや、じゃあ俺例の探してくるから、お前ここで待ってろよ」

『……元ヨり、ソノつもリだ。お前が無駄働キを押し付けなけレば』

「普段がサボりすぎなんだよ。たまには働け、ギギ」


 このドラゴンの名を、ギギイロイ・ウルムガバトという。旧き竜の言葉とやらで、『真の王』を意味するという。少なくとも、ギギ自身はそう信じている。

 当然ながら、ギギもまた本物のドラゴンなんかじゃない。俺が今とっちめたオーク達と同じ、自分を「そういうもの」だと信じ込んだだけの、ただの人間だ。

 ギギの場合はそれが他より少し重症で、ギギ自身が自らの世界で正しく生きていく為には、特殊な義体が必要だった。特殊で、強力な、ドラゴンの義体が。


「俺が戻るまで大人しくしとけよ。ステイだ。わかったか?」

『……』


 ギギは喉の奥で不服そうに唸ると、やがて素直にその場に寝転がって昼寝の姿勢に入った。

 でっかい猫みたいだ。鱗が生えてるし、火も吹くが。


「さて」


 こんな仕事をしていると独り言が多くなる。何せ話し相手と言えば生ある者を等しく見下すいばりん坊のドラゴンくらいなものだからだ。

 俺はオークが根城にしていた雑居ビルの探索を続けた。こうした『転生者』達に占拠された建物やなんかは、しばしば『ダンジョン』なんていう呼び方で表される事がある。そこには彼らの蓄えた宝物なんかが眠っているわけで、なるほどこの狂った街にお似合いの皮肉だと言える。

 俺の目当てはそれだ。オークの宝。それを探すために、ここへ来た。


「ここかな」


 一際厳重に施錠された一室があった。俺は力を込めて鍵ごと破壊しながらドアを開いた。


「バックス福祉局だ。転生事案に関わる人命保護でここに来た」


 俺はオークの宝……各地から攫われてきた人間の女達……に対して、自分の所属を名乗った。人間には、そういう手順が必要だからだ。

 敵意がないことを示すために、両手をあげて何も持っていないことをアピールしながら、部屋の奥に踏み入って行く。自らに訪れた悲惨を呪うことにさえ疲れ果てた者達の、擦り切れた恐怖の視線が突き刺さった。


「別にお邪魔しようってんじゃないんだ。人探しに来ただけでね」


 福祉局と言えば聞こえはいいが、この職業は俺たちの街ではもっと別の名前で呼ばれるのが一般的だ。つまり、荒事屋だとか、事件屋ランナーだとか。だから、警戒されるのは当然のことだった。

 言いながら、俺は部屋の中を見回す。探している人物……という表現はこの街では大いなる誤解と諍いの種だ……に一致する特徴を持った女性が居ないかを探す。

 彼女達は一様に俯いていて、俺と目を合わせようともしない。オークの仲間か何かだとでも思われているのかもしれない。ってマジか? こんなにハンサム顔なのに?


「人魚の娘を探してるんだ。居るか?」


 部屋の中には三十人ほどの女性がすし詰めになっている。埒があかないので、俺は素直に協力を仰ぐことにした。


「年齢は多分二十代で、女性の人魚の方。居たら手上げて!」


 手を挙げてぷらぷら振ってみる。俺は愛想が良い方のはずだが、誰も答えてはくれなかった。ただ彼女達の発散する猜疑心が、その場の空気を際限なく重くさせるだけだった。


「あの……」


 そんな中、一人の少女が手を挙げて俺に答えた。年齢は恐らくまだ十代で、軟禁生活でひどく薄汚れていることを除けば、美しい少女だった。オークたちにとっても、さぞや大事なお宝だったのだろう。ひどい話だ。


「私、見ました。人魚の娘」

「どこだ?」

「……連れて、行かれた」


 暗い目をしていた。ひどい苦痛と、拭い去ることのできない恐怖が染み付いていた。


「一度、奴らがここに来てあの娘を連れてって……それで、もう、戻ってこなかった」

「そうか」


 何もかもが摩耗してしまったかのような、平坦な声だった。そうやって感覚を鈍麻させることでしか恐怖に抗う術が無かったのだろう。力のない者がこの街で正しく自らを定義する為には、時にこうして最低の苦痛を受け入れる必要がある。生きる為に。自身が何者であるかを忘れない為に。


「協力に感謝する。こいつはお礼だ」


 俺は上着のポケットから安物のチョコ菓子を取り出して、彼女の手に握らせた。彼女はその意味さえもわからないと言うように、ぼうっとお菓子を握った自分の手を見つめている。


「食えば、少しは気分がマシになる」


 生きる為に感覚を鈍麻させる事を選ぶ。だが、どれだけ感覚を意識から遠ざけても、それでも人は痛みや苦しみから逃れられないし、眠くもなれば腹も減る。狼男も、ゴブリンもオークもドラゴンも、皆同じだ。何故ならこの街に居る誰もが、ただ自らをそう思い込んだただの人間に過ぎないからだ。

 だから、人間には甘いお菓子が必要だ。生きる為には。


「それで気分が良くなったら、ちゃんと家に帰れ。歩けるか?」


 俺が言うと、彼女は虚な目でゆっくり頷いて、それからぼろぼろと涙を溢した。歪になってしまった日常の中で、次第に表すことを忘れていた感情が堰を切っていた。彼女がこれから先の人生を真っ当に生きていける保証はどこにもなかったが、それでも、今はそうする事が必要だった。


「ここのオークは片付けたし、今に警察も来る。助かる気があるなら、みんな家に帰る準備をしておけよ」


 誰も彼も、助かりたければ勝手に助かればいい。そうする為の選択肢が残っているなら、そうするべきだ。

 生憎と、俺には彼女達全員を助け出してその後の人生を少しだけマシに生きられるように治療や支援に精を出すつもりはないし、その責任も無い。そこまでするのは、俺の仕事ではないからだ。

 俺の仕事は、もっと下品で野蛮な別のことだ。



『見つかったカ、カブト』


 来た道を引き返すと、昼寝の姿勢から片目を開けて、ギギが俺を見た。


「まだだよ」

『急げ。私は貴様の期待するほど気が長くは無イぞ』

「ああ。悪いがもう少し昼寝してろ。人探しは俺がやっておく」

『なに?』

「お前はもう十分くらい、そこで大人しくそうしてろ」


 俺の後ろから歩いてくる女たちを見て、ギギはわざとらしくため息に近いニュアンスの音声を発した。実に人間臭い仕草だったが、それを言うと不機嫌になって面倒なので何も言わないでおいた。


『貴様の人道主義ニは、毎度呆レル』

「見殺しにすると寝覚めが悪いだけだよ。心の冷たいトカゲ野郎と違ってな」

『百年も経てば誰モ生きてハ居られんヨウな軟弱ナ生き物に肩入レする気が起きなイだけだ』


 ドラゴンの最悪なところがまさにこれだ。奴らは自分たち以外の生き物を根本的にナメきっている。

 実際にはギギだって人間なんだから百年も経たずに死ぬのだが、当然のように自分を非定命の上位存在だと思っている。ドラゴンは自らの寿命による死という避け得ない認知的不協和をどうやって回避するのだろうか? どうやってもクソも、生き物はその時が来ればどのみち死ぬのだが。


「お前の前にもいつかジークフリートがやってきて真っ二つにされるかもしれないんだぜ。もうちょっと殊勝に振る舞って人間に敬意を払うってことを学習したほうがいいな」

『人間ノ神話なド、笑イ話だ』


 ギギは嘲るように鼻を鳴らして再び目を閉じた。竜を殺してその血を浴びて不死身になった英雄の神話など、自分を本物の無敵のドラゴンだと思い込んだギギにしてみれば笑い話にすぎない。自分が人間などに負ける筈がないと考えている。それがドラゴンというものだ。

 俺はそれ以上ギギには構わずオーク達のダンジョンの探索を続けた。

 元は廃ビルだったが、"ダンジョン"と化したここは既にオーク達の巣であり、即ち自らを亜人と信じ込むという病に侵された人々の家だった。

 このビルには十数人のオークが生活していた。その全てが俺に殴られ、ギギに脅かされ、無力化した。

 ここが彼らの家であるからには、そこには生活の痕跡がある。脱ぎ散らかされた服(彼らは服屋に売っているようなものではなく、あえてボロキレのような布を体に巻いただけの粗野なスタイルを好む)や、"宝物"達のための人間用の食器や、彼女達の管理とささやかな楽しみの為に用いるのであろう道具の類が散乱する。

 人ならざる者と成り果ててなお浅ましい人間の悪業が折り重なって形を成したかのようなここは、正しくこの世ならざるダンジョンと言えた。


 通路を奥へ進むと、どこからか腐臭が漂ってきた。臭いを辿って、さらに奥へ。

 臭いの源は、厨房だった。腐臭と、淀んだ血の匂い。足を踏み入れる。


「……見つけた」


 果たしてそこには、俺が探していた人魚の女性が居た。

 その体は青ざめて死斑が浮き上がり、あちこちが欠損してその表情も写真とは似ても似つかない恐怖と苦痛の表情に凍りついてはいたが、首筋のタトゥーが事前に聴取した特徴と一致していた。

 俺は端末で遺体の写真を撮りながら、現場の検証を始めた。彼女を探すのが俺の受けた依頼だったが、その成否に彼女の生死は含まれなかった。つまりはそういう仕事で、彼女もまたそういう女だった。


『ひどイ、モノだな』


 厨房の扉からぬっと首を突き出して、ギギが言った。


「昼寝してろって言ったろ」

『知っタことデハない』


 ギギは鼻をひくひくと動かして、部屋の中の空気を知覚しているようだった。あるいは、そこに満ちる色濃い悪徳の臭いを嗅ぎ分けようとしているのか。


「ギギ、オークってのは攫った女を殺すのか?」

『他種族のメスは、オークにとっては貴重ナ子袋であリ、玩具ダ。弄びこそスれ、殺スなど考えられン』


 ギギは転生した奴らの習性に詳しい。

 ただの冷血トカゲモドキではないのだ。そうでもなきゃこんな奴を相棒にしたりはしない。

 

『理由ガわからん、オークには遺体ヲ損壊する理由が無イ』


 彼女の遺体の欠損した部位──頬の肉/腹の肉/肋骨/生体義肢で再現された魚の下半身の肉、その一部。

 性器や乳房には一切関心を払わず=どこまでも無機質な肉体の分解。かつて生命であったものを、ただの物としか考えないものの有り様。


「見ろよ、あいつらボロきれみたいな服着て棍棒振り回してるくせに冷蔵庫なんか使ってるぜ。どういう神経してんだよ」

『遊んデいる場合カ』

「腹減ってんだよ」


 皮肉や軽口は、受け入れ難い現実から心を守るための緩衝材になる。こんな街でこんな仕事をしているからには、必須のスキルだ。

 俺は厨房に備え付けられた馬鹿でかい冷蔵庫の扉を開けた。


「なあ、ギギ」

『なんだ』


 実は俺の脳にも、ちょっとした拡張サイバネが施されている。モグリの闇医者にやらせたせいで具合が悪くて、考え事をするとひどく疼く。クソみたいなことを考える時には、特に。

 俺はこめかみの辺りを引っ掻きながら、冷蔵庫の中から出てきたものをギギに見せた。

 ギギは無機質な完全義体の両眼をすがめた。


「オークってのは、人間食うのか?」

『なに?』


 冷蔵庫の中に入っているのは、パックに切り分けられた肉……どうやらそれは、解体された人魚の欠損部位と一致する。


「あの遺体、欠損してるのはどこも柔らかくて美味そうな部位だと思わないか?」

『肉、ダト?』

「頬肉、腹肉。魚の部分は……フライにでもしたか?」


 専用のパックで密閉された人魚の身体部位は、そうと知らなければただの精肉のようにしか見えなかった。厨房に無造作に打ち捨てられたそれとは異なり、限りなく死の臭いを消し去った、無機質な死体。


『……オークは奴隷商人でもあル、お前も知ってイルだろう』


 オークは他種族のメスを攫って繁殖する。だが、生まれてくる子供が同じようにオークとは限らない。父親が狼男になった俺が今でも真人間のままであるように、転生病は遺伝しない。

 人ならざる自身の種から、人間の子供が生まれる。それが、彼らには耐え難い認知のズレになる。「自分は本当は人間である」という不都合な事実を思い出してしまう。

 だから、オークは生まれた子供や利用価値のなくなったその親を売り飛ばすのだ。戸籍を持たない人間の子供の需要は、この街では常に存在している。オーク達もまた、この街を回転させる俗悪と欲望の機構の一部なのだ。


「商人が、自分で自分の商品を食うわけがないか」

『誰カ、それを欲しがる者が居ル』

「理由はなんだ?」


 それは誰か。

 この街にはいくつもの種族がいる。オーク、ゴブリン、ハーピィに鬼、動く死体リビングデッド

 多種多様、無数無類の生物群バイオーム──行き着く果てとて知れぬ、生命の混沌。


 誰かが人魚を殺している。その肉を喰らうために。

 それは一体なぜなのか。


 果てしなく暗い闇から投げかけられた、馬鹿げたなぞなぞリドル



『……さあな、ダガ、これで条件は揃っタ』


 ギギが呟くように言った。無機質な合成音声でありながら、その声はどこか暗かった。


「なにが?」


 ギギの言いたいこは、本当は俺にもわかっていた。

 だが、それを受け入れるのには努力が必要だった。それが、俺にって最大級の面倒を意味することだったからだ。

 

秘匿業務司令アカシック・コード:000だ。当該案件に関スル、封じ込み処理が発令さレル』


 この街には人魚が居る。ゴブリンが居る。オークが居る。ハーピーや、オーガやドラゴンが居る。

 ならば、その肉を食おうという者も居るのだろう。

 それが、その人物の持つ異形の性質によって与えられた食性であるのか。あるいは個人の持つ異形の嗜好の類であるのか。


 一つ確かなのは、その誰もが、ただ自らを"そう"だと信じ込む病に侵された病人に過ぎないということだ。

 そうであるならば、そこにあるのはただの人間と、その死体を食う人間に過ぎない。


『この事件は、迷宮入リだ』


 この街で起こる面倒事が俺の飯の種であることは確かだったが、何もそれを解決するのが俺の仕事ってわけじゃない。

 どんな物事にも因果がある。卵が割れたなら、それは誰かが卵を割ったからだ。

 なぜ卵は割れたのか? 誰が卵を割ったのか? なんのために卵は割られなければならなかったのか?

 全てには答えがある。既に起こった結果と因果関係によって結びつけられた事実がある。

 俺の仕事は、その糸を闇の中に葬り去ることだ。答えの存在する問題を、どこにも答えのない、ひっかけ問題の馬鹿げたなぞなぞリドルに変えてしまうことだ。

 この都市が、俺にそうすることを要請する。狂気へ至る病を解明するために造り出され、そうして自らも同様の狂気に沈んでいくこの都市が、俺にそうすることを要請するのだ。


「また、面倒なことになったなあ」


 街の名はエンブリオ。

 この世に蔓延る病巣を鋼の卵殻に押し込めた、異形の都市である。

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