この人生の主人公

執行 太樹

 



 「私、失うものって案外何もないと思うんです。だってほら、今でもこうやって生きているんですから」


 手に取った雑誌を読みながら、私はかつて自分が記者のインタビューに応えた時の台詞を思い出していた。

 私は、3年前からエッセイストをしている。私の書く文章は、評判が少しずつだか広がっており、順調に進んでいる。私の書いた文章で、誰かを元気にさせられるなら、それは素晴らしいことだと思う。でも、それよりも、自分のしたいことができていることが、とても楽しい。人のため、そして自分のために生きている、そんな毎日に心から幸せを感じている。3年前に、思い切って転職して、本当に良かった。


 休日の午前中、私は、朝から部屋の整理をしていた。窓に掛けられたカーテンの隙間から、太陽の光がもれていた。外からは、誰かが犬と駆け回っている声が聞こえる。私は、先月結婚した。そして、来月から新たな場所で、新たな生活が始まる。今は、そのための引っ越しの作業中だ。

 押し入れの中を整理していると、少し色あせた箱が出てきた。私は、その箱を手元に引き寄せ、箱のふたを開けた。箱の中には、学生の頃に使っていた教科書やノート、仕事をし始めた頃のノートなどが詰め込まれていた。私は、一冊ずつ取り出して、それぞれのノートに詰まっている思い出を思い返していた。

 その色々あるノートの中に、一冊の日記があった。私は、不意にその日記を手に取った。表紙には、6年前の日付が記されていた。私が大学を卒業して、社会人になった年だ。私はおもむろに、その日記の表紙をめくった。

 日記には、私が仕事を始めたときのことが書かれていた。



 きれいに仕立てられたスーツを身につけた私は、思い切って会社の扉を開けた。おはようございます、と意気込んで挨拶をすると、すぐに受付の方が出迎えてくれた。

 私は、とある食品メーカーの企業に就職した。食べることが好きだったという理由で、あとは求人票を見て、何となく条件が良かったからという理由で、この企業に就職した。

 受付の方は、控室に案内してくれた。入社式までは、まだ30分ほど時間があった。担当の者が来るまで、ここでお待ちください、と受付の方は言い残し、控室をあとにした。

 控室には1人、奥の方ですでに席に座っている男性がいた。

「あ、はじめまして。僕は片野と言います。片野直樹。よろしくお願いします」

 片野との最初の出会いだった。片野とは、同じ年に入社した同僚だった。

「はじめまして。私、今井と言います。今井香織です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 私は片野にそう応えた。片野は笑顔だった。緊張しますね、と話しかけられたのを憶えている。片野の第一印象は、とても真面目そうな人だった。

 その後、私達の他に2人、新入社員が控室に入ってきた。今年の新入社員は、私を含めて4人だった。入社式の後、片野と私は、同じ部署の同じプロジェクトに入り、共に働くこととなる。


 片野は、見た目通りの真面目な人だった。真面目すぎるぐらいだった。片野とは、デスクが隣同士だった。普段の彼の行動を見ていると、つくづくそう思った。

 片野と2人、出張先でご飯を食べようと牛丼屋に入った時のことだ。ゆっくり食事をしようと思いながら、自分たちが食事をしている時だった。片野は他のお客さんが順番を待っているのを見かけると、急いで自分の食事を済ませていた。なぜそんなに急いで食べるのか聞くと、はやく次のお客さんに席を譲ってあげたいからと応えた。自分のことよりも、片野は、相手のために動くような人だった。

 他には、共にコンビニに入った時のことだ。片野は、コンビニの棚の商品がきれいに並んでいないと、店員でもないのに陳列する。お客さんが商品を見やすいからだそうだ。もちろん、最低でも何か一つは買ってから店を出た。

 道を歩いていても、地面に落ちているゴミは、拾ってゴミ箱に捨てる。近くにゴミ箱がなかったら、ゴミ箱があるところまでずっと拾ったゴミを手に、街をさまよう。自分の手が汚れようとも、お構いなしだった。片野とは、そんな男だった。


 食品メーカーでの私と片野の仕事は、主に営業だった。自社の製品を他の企業に紹介する、という、いたってシンプルな仕事だった。しかし、これがなかなか大変だった。上司と色々な企業を回り、自社の製品を説明する。どこがどう良いのかを伝え、製品を取り扱ってもらえるよう薦める。流れはとても簡単だった。しかし、相手の方に理解してもらうことは難しかった。気に入ってもらうことは、もっと難しかった。契約してもらうのは、もっともっと難しかった。

 営業は、上手くは進まなかった。毎日毎日、自社の製品の特長を頭に叩き込んで理解しては、その内容を伝える。しかし、相手先の方は、なかなか首を縦には振ってくれなかった。そして、何がいけなかったのかを反省し、また自社の製品について調べる。その繰り返しだった。

 私は、営業の成績に不満を抱いていた。私は自社の商品について、しっかり理解している。商品の内容についても、ちゃんと説明している。それなのに、なぜ分かってくれないのか。こんなに頑張っているのに、なぜ上手くいかないのか。社会は、そう甘くはなかった。


 入社して半年ほどたった。私の営業の成績は、相変わらず散々だった。どのようにすれば、相手先の方に私の伝えたいことを理解してもらえるのか、分からなくなっていた。私は途方に暮れていた。

 そんなある日、私と片野は、あるプロジェクトに選ばれた。それは、新商品の開発というものだった。若手の、フレッシュな意見を取り入れたいという意向だった。どんな意見でもいい、新商品に活かせそうな案を1ヶ月ほどで出してほしい、と言われた。

 急な話で、私は戸惑ってしまった。ただでさえ営業の仕事で忙しいのに、新商品の開発だなんて・・・。私に良い案が出せるはずがない。私は、追い込まれた気持ちになっていた。どう返事をしたらよいか、迷ってしまった。

 そんな私の横で片野は、わかりましたと威勢よく承諾した。私は驚いた。片野も、営業の方で成果を上げられていなかったはずだった。心身ともに疲れていたはずだった。

 話し合いが終わった後、私は片野に話しかけた。あんなに元気よく引き受けて、本当に良かったの。少し考えさせてください、と言っても良かったんじゃないの。私は片野にそう話した。片野の返事は簡潔だった。

「やりたいんです、新商品の開発を。それで、色んな人に喜んでほしいんです。僕は、食べ物を通して、みんなに笑顔になってほしいんです」

  営業が上手くいっていない僕が言うのもなんですが、と照れ笑いしながら、片野は謙虚にそう付け加えた。片野さんらしいですねと、私は呆れながらも一緒に笑った。

 その日から、本当に大変だった。営業に、新商品の発案に、毎日が目まぐるしく過ぎていった。営業の方は、もちろん上手くこなすことができなかった。

 今思えば、この時あたりだった。私の中で、仕事に対して何か違和感を抱き始めたのは・・・・・・。


 新商品開発のプロジェクトに参加して2週間ほどたったある日のこと。その日は1日中、雨が降っていた。仕事が終わった帰り道、駅まで片野と一緒になった。

 私たちに任された新商品の案は、なかなか良いものが浮かんでいなかった。営業の方も、全然だった。そのせいもあってか、2人とも黙ったまま、並んで歩いていた。私は、自分の仕事ぶりを振り返っていた。私は今、仕事を楽しんでいるのか、本当にこのままでよいのか、答えのない問いを自分に繰り返し尋ねていた。

 傘に当たる雨音をただ聞いている私に、片野は不意に話しかけてきた。

「あの、今井さんはこの仕事に就いて、どんなことがしたいですか。どんな時に幸せを感じますか」

 急な質問だった。私は、はじめ意味がわからなかった。片野は一体、何を聞こうとしているのか。慌てて片野の方を見ると、片野はいつになく真剣な顔だった。

 私は・・・・・・。そう言ってすぐ、私は口をつぐんだ。言葉がすぐに出なかった。私にとっての幸せって、なんなのだろう。

「私は、新しい料理を考案して、みんなに食べてもらうこと、かな」

 私は嘘をついた。いや、嘘ではない。確かに、それで人を喜ばせることが出来たなら、それは私にとって嬉しいことだ。しかし、何かこう、ちょっと違うような・・・・・・。要するに、私は片野に、当たり障りのない言葉を返したのだった。

 片野さん、あなたはどうなんですか。何が幸せですか。私は、片野に同じ質問を返した。片野は少し沈黙した後、私の方を向いて、こう答えた。

 「自分は、美味しいご飯で世の中を幸せにしたいんです」

 その目は、真っ直ぐ私を見つめていた。片野の眼差しは、力強かった。いつになく真剣な片野の顔に、私は心を打たれた。心からの言葉だと思った。こんなふうに、私は答えられるものがあるだろうか。私は、片野を羨ましく思った。

 「ご飯って、そういう力があると思うんです。だから私は、この仕事に生きがいを感じています」

 そう言って、片野はまた笑った。

 その日から、私たちは、もう一度真剣に新商品の案を考え合った。営業でクタクタになっていても、毎日毎日考え合った。しかしその後、期限になっても満足のいく案は浮かばなかった。頑張ってひねり出した案は、結局採用されることはなく、私たちは新商品のプロジェクトチームから外れることとなった。


 入社してから1年がたち、私も片野も随分と仕事に慣れてきた。片野は、変わらず仕事に一途であった。自社の商品を通して人を幸せにしたい、という気持ちはより一層強くなっていた。営業も、少しずつだが功績を上げてられるようになっていた。

「あいつは、自分のことは二の次で、本当に誰かのために動くよな」

「顔も見えない、誰かもわからない他人のために、よくそこまで動けるよな」

周りからそう陰口を叩かれていても、片野は動じなかった。片野は、自分を貫き続けた。

 一方で私は、ある決心を持っていた。片野といつか雨の日に、自分の幸せについて話した時のことだ。あの日から、自分にとっての幸せとは何なのか、漠然とした問いについて考えていた。

 今の仕事は嫌いではない。でも、本当に私がしたいことは、これではない。私が本当にしたいこととは、一体何なのか。そして、私は何のために生きていきたいのか。その答えが、最近になって、見えてきたような気がしていた。

 片野を見ていると、人は結局のところ、誰かのために生きているのかもしれない、そのように感じる。私も、私の人生、誰かのために生きてみよう。いつしか、そう思うようになった。

 その1年後、私は食品メーカーを退職した。


 ▼


 私は、日記から目を離した。

 私はあの頃、必死で社会にしがみつこうとしていたのかもしれない。その中で、自分のしたいことがわからずに、不安で仕方がなかったのかもしれない。自分のことを考える余裕もなく、ただただ余裕のない日々を過ごしていた。

 今振り返ると、あの雨の日が、私にとってのターニングポイントだった。あの日のおかげで、自分を見つめるきっかけを持つことができた。

 今、私はエッセイストという仕事をしている。私の人生を通して、エッセイという形で誰かを元気にしたい。それが私にとっての幸せという答えだった。自分のしたいこと、自分にとっての幸せを見つけることができて、本当に良かった。そして、それを考えるきっかけを与えてくれたのは・・・・・・。

 部屋の外から、夫の声が聞こえてきた。また、飼い犬のドンちゃんと一緒に遊ぼうと私を誘っているのだろう。

 はーいと返事をし、片野香織は静かに日記を閉じた。






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この人生の主人公 執行 太樹 @shigyo-taiki

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