第2話

 哲也を搬送してきた救急車が病院の緊急外来受け入れ用の駐車場に到着すると、待機していた医師や看護師たちは直ちに対応にあたった。しかし、救急車の扉が開かれた瞬間、車内から立ち込める異様な悪臭に彼らは顔をしかめた。

「な、なんなの、この臭い……。マ、マスクを貫通してくる。うちの旦那の足の臭いを100倍程度では効かない強烈な」中年女性看護師の一人が鼻を押さえながら呟いた。

「ぐぅっ。……こ、これは……凄まじいな」若き日のジェフリー・コムズ似の医師が顔を顰め、思わず後ずさりした。因みに彼の名字は西である。ドクター西。死者すら蘇らす男と言われているとか、いないとか。

「早くストレッチャーを、患者を降ろさなきゃ!」別の看護師が更に別の看護師に急いで指示を出しながらも、悪臭に耐えきれず涙目になっていた。

 救急車内から下痢便塗れの哲也がストレッチャーに乗せられ運び出されると、その汚れと臭いは一層強烈な存在感を放った。

「何と言う下痢と嘔吐だ。赤痢、コレラ、感染症を疑え。素手で触るな」医師と看護師たちは手袋をはめ、慎重に哲也の体を扱いながらも、明らかな不快感を示していた。

 臭いが目に染みる。「目の結膜から感染しては敵わん。ゴーグルを着用しろ」医師が言った。

「なんて汚い……」一人の看護師が言葉を漏らし、失言を繕う為なのか、吐き気を堪える為なのか、口元を抑えた。

「これは、すぐに洗浄しないと。病院内に感染拡大の危険がある」医師が冷静に指示を出しつつも、明らかに顔を顰めていた。「取り敢えず、患者の身体を塩化ベンザルコニウムで洗浄しろ。受け入れ口は次亜塩素酸ナトリウムを使え」

「すぐに隔離病棟へ運びましょう」看護師長が指示を出し、スタッフたちが迅速に動いた。

 病院内に入ると、哲也を乗せた担架は緊急処置室に運ばれた。医師たちは防護服を着用し、感染対策を徹底しながら処置にあたった。

「まずは身体の洗浄からだ。この状態じゃ処置ができない」医師が指示を出し、看護師たちが慎重に哲也の体を洗浄し始めた。

「ぐ、ぐそっ、この臭い……。何でマスクを通過してくる」一人の看護師が顔を顰めながら、必死に作業を続けた。

「耐えるんだ。患者の命がかかってる。便の一部は採集して生検に回せ」医師が励ましながらも、自身は臭いに耐えかねて、哲也からちょっと距離を取っていた。

「こんな状態で運ばれてくるなんて、どうしてこんなことに……」別の看護師が呟いた。

「身体中の水分が上と下の穴から流れ出していて脱水症状が酷い。取り敢えず点滴で生塩を入れろ。何があったのか、本人の意識が戻ったら、確り聞き取り調査する必要があるな。これだけの異臭を放つ下痢便、普通じゃない」医師は哲也の状態を確認しながら、深刻な表情を浮かべた。

 哲也の体が清潔にされ、点滴で輸液を入れたので脱水症状による死亡の確率は低下した。これでようやく本格的な処置が始められる段階に達した時、医師たちは一息ついた。

「これでなんとか治療ができる。すぐに血液も採取、嘔吐物も一緒に検査に回せ。これが感染性腸炎だとすれば、起因病原体を特定せねばな。取り敢えずは、ペニシリン系抗生物質投与で様子見しよう」医師が指示を出し、看護師たちが迅速に動いた。

 一方で、処置室の外では他のスタッフたちが異様な臭いに耐えきれず、顔を顰めながら哲也の運ばれた後の清掃に追われていた。次亜塩素酸ナトリウムの匂いが充満し、病院内は異様な緊張感に包まれていた。

「この便臭、暫く消えないかもしれないな……」看護師の一人が憂鬱そうに呟き、他のスタッフたちも無言で同意した。

 哲也の体から滴り落ちて床を汚した下痢便の地獄めいた異臭は、瞬く間に廊下を漂い広範囲に広がり病院全体に深刻な影響を及ぼし始めていた。スタッフたちはその対応に追われ続ける。彼らの顔には、何時終わるとも知れない悪臭との戦いへの疲労と不安が浮かんでいた。






 哲也が病院へと搬送された少し前に時間は戻る。

 救急車に連絡を入れた隣の住人は、管理会社に連絡を入れ、本人は病院に運ばれたが、哲也の部屋が糞便だらけの酷い状態になっている事を伝えた。管理会社は翌朝、様子を見にくると応えた。

 哲也の部屋は2階である。さて彼が病院へ運ばれた頃、床に撒き散らされた下痢便はどうなったのか? 何と、下痢便はブルブルと震えだし、少しずつ集結し、或る程度のサイズの集合体となった。

 ゼリー状の塊は、まるで汚物で出来たスライム……The Blobの様ではないか。元が粥状便なのでちょっと白いので、The Stuffっぽさもある。B級ホラー映画好きが見たら大喜びな光景かも知れない。

 懸命な読者であれば、この状況で何が起こったのか、もうお気付きかもしれないが、お気付きでない場合に備え説明すると、糞便と同化した超病原性腸内細菌が増殖し、粘菌的特性を得るに至り、群生体という形で恰も一つの大きな生物体の如く振る舞う術を覚えてしまったのである。

 這いずり回る下痢便の怪物。臭く汚く恐ろしい、現代人にとっては悪害でしかない、究極の汚物の塊が誕生してしまったのである。

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