無菌室

 視覚というものはあらゆる感覚に訴える。

 真っ白な無菌室のヴィジョンはチアノーゼの甘い匂いが漂っていると誤認してしまう。そして、実際には漂ってこないわけだが。

 目の前には確かに無菌室があった。そこは現実に存在する。プラスチックとステンレス。HEPAフィルターに、気圧差調整装置。冷暖房装置から緊急用の医療装置から生命維持装置。時間ごとに供給される有機栽培された青果物やバイオラボで生成されている人口食品と濾過フィルターでバクテリアや廃棄物を除去した飲料水。どれもれっきとした物質であり、触れられることができる。それらすべてがいまの僕には浮世離れしているように思えた。

 すぐに視覚の片隅にデジタルメッセージが現れ、認証確認が求めてくる。


「カーツ・フォスター。登録番号A-0873。ゴイムA-34の検分をしたい。作業用アンドロイドへのアクセス許可を」


 僕はいった。けど、空気と声帯を震わせる音ではない。あくまで電子データの中で発せられた信号でしかない。管理AIは了承しましたというメッセージボックスを表示させたあと、視界から消えた。

 部屋の真ん中には一体の生命体がいた。僕たちとは違う本物の肉体を持った生命体。そして、ヒューマノイドとはまた別の生き物であった。

 頭髪と思わしき毛髪は動物特有の油で艶が出ており、またその頭部はホモ・サピエンスと比べてかなり肥大化しており、眼球もかなり大きい。下腹部もバレーボール大に膨れ上がっており、その姿はグレイ型宇宙人のよう。

 手足は細長く、指の長さはハロウィン前に摂れるカボチャなど簡単に包んでしまいそう。まさに異世界からの住人だ。

 僕はマイク・スピーカーにアクセスした。


「やあ、レネイ。気分どうだい?」


 レネイはスピーカーからの音声に反応し、ピクリと顔をあげた。コードブックに載っている合成音声は自分と剥離しているように思える。

 ヒョコヒョコと歩き始め、スピーカーに近寄った。ひとしきり匂いを嗅いだり、指先でつつき始める。


「先ほどまで四時間の睡眠を取っていたようだね」


 彼女を監視していたカメラ映像から


「食事はきちんと摂っているね。いい兆候だ」


 と、僕はスキャニングを開始してレネイの身体を調べた。

 レネイの体内には別の命が宿っている。発覚したのはつい二か月前のことだ。スキャンデータに、腹部にしこりがあると思えば、日を増すごとに膨れ上がっていく。胎盤が出来始め、しこりが微かに脈打っているのがわかった。レネイ自身も食事を吐き出したり、部屋のなかを落ち着きもなく動き回ることが増えた。まさに、つわりの症状と一緒であった。

 過去のデータとの比較を行っていると、アクセスコールが鳴った。アクセスコードを見れば、人類統括卿のガバリャンだ。すぐに外部接続マイクを切り、通信許可を押す。

 コール通知が消え、かわりに神経質な顔した男が視界の端のウインドウに現れる。ガバリャンのアバターだ。シンギュラリティ以前から自分の顔を変えていないのだろう。つり上がった目に高く鋭い鼻をしていて、管理者が好む白い巡礼服を着ていた。


「カーツ・フォスター君。実に523時間と28秒ぶりだ」

「どうも、ガバリャン司祭」

「過去ログを見させてもらったが、アクセスログだけで実に133回。きみは随分とA-34にご熱心のようだね」、と皮肉交じりにいう。

「ええ、私自身も自分に驚いていますよ」


 なんと疎ましいことか。僕はこの三次元空間に自身のアバターなど持ち込みたくなかった。僕はウインドウを視界の隅に移動させる。出来ることならアンダーバーに下げたかった。残念ながら、管理者のウインドウは向こうの許可がない限り、消したりミュートにもできない。


「気にいったのかね、この生命体――いや、ゴイムを」


 僕は頷いてみせる。

 レネイは、《データセンター》から一,〇九〇マイル離れたマンハッタン遺跡の外れで見つかった。


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