雨のオムニバス

仲瀬 充

雨のオムニバス

★小糠雨

ぬかの粉のようなこまやかな雨が降り続いている。

庭の椿の葉先から落ちる雨滴を小半時こはんときも見ていたろうか。

頬杖を突く私の頬も涙に濡れていた。


言葉にすれば育児ノイローゼということになるのだろう。

9年ぶりに二人目の子供が生まれた直後、私は精神に変調をきたした。


たとえば、皿に盛ったイチゴが食べられなくなった。

表面の小さな種の一つ一つが閉じた目のように思えた。

フォークを突き刺すと、それらが一斉に目を見開く。


夜は二人の子供を両脇に、文字どおり川の字になって寝た。

夫は隣室で高いびきだが、私は眠ろうにも眠れない。

目を閉じると見知らぬ人の顔が次々に現れて私を凝視しながら消えていく。


小学4年の娘が私の布団に潜り込んできて抱きついたこともあった。

ハッと我に返った私の手は、夜泣きをやめない下の子ののどをつかんでいた。


眠れないまま朦朧とする明け方、新聞配達のバイクの音が耳に入る。

早い時間に出勤する人たちの車の音も聞こえ出す。

その頃になって私はようやくまどろむ。


皮肉なものだ。

生活不適合者の私は、生活の音で不安や恐怖が薄らいでいく。




★送り梅雨

「美枝子、遅れるわよ」

母に急かされて、私はトーストを頬張りながら玄関に急ぐ。

ぐずぐずしていると、だからその年まで結婚できないのよと二の矢が飛んでくる。


通勤には路面電車の通りのバス停を利用しているが、ある朝、男の人に声をかけられた。

梅雨を送り出すかのような梅雨明け間近の激しい雨が降る日のことだった。

「一緒に乗って行きませんか。会社の近くまでお送りしますよ」


7月に入ってから時々この通りで見かけるようになった40前後の男の人だ。

私がバスを待っている側でその人はいつもタクシーに乗り込む。


いきなり声をかけられた私は遠慮しかけたが、雨脚があまりに強いので乗せてもらうことにした。

それがきっかけとなって、その後も何度か雨の日に同乗させてもらった。


西田です、と名乗った彼は大阪でIT関連の事業を手掛けているという。

仕事の関係で暫くこちらのウィークリーマンションを借りているとのことだった。

その彼は梅雨が明けると顔を見なくなり、興味を持ち始めていた私は少し残念に思った。


彼氏でもできたの? と私はロッカールームで帰り支度をしながら言った。

同僚の誠子は、最近浮かれ気味だ。


分かる? と微笑みを返されて、冗談を投げかけたつもりでいた私は驚いた。

誠子は同期入社の私と同じアラサーで、それに人目を引くような容姿でもない。


私は誠子を喫茶店に誘った。

「教えなさいよ、どんな人なの?」


「大阪で宝石商をやってる下田さんって人。こっちの旧家や廃業する料亭の宝石の買い付けに来てるんだって」

「じゃ、知り合ったばかり?」


「ううん、7月の初めからよ。彼、バス停からタクシーに乗るんで同乗させてもらうようになったの」

私とかぶるところがある話なので気になった。


「タクシーって、毎日?」

「そうねえ、彼が外出しないっていう雨の日以外はたいていね」


私がバスを待つ電車通りの背後は小高い丘陵になっている。

その丘の中腹にもバス通りがあり、誠子はその通りのバス停から会社に通っている。


「でも、その人、大阪に帰っちゃうんでしょ?」

私が懸念を示すと、誠子は指をそろえた左手を私の前に差し出した。


「えーっ! 婚約したの?」

「大阪に戻って一段落したら呼び寄せてくれるって」

誠子は嬉しそうに言うけれど、私の疑念は深まった。


「やきもち焼くわけじゃないけど、なんか気になるなあ。彼、宝石の買い付けなんでしょ? 一か月近くも滞在する必要、あるかな。それにサラリーマンじゃあるまいし、誠子が出社する時刻に毎朝タクシーに乗るっていうのも……」

誠子の笑顔が少しずつひきつってきた。


誠子が殺されたのはそれから数日後だった。

事件現場は、誠子のマンションとそれほど離れていないウィークリーマンションの一室だった。


新聞の記事によると、逮捕されたのは安村という大阪在住の男で、結婚詐欺の常習犯だった。

誠子が聞かされた下田という名前は偽名だった。


安物の婚約指輪で信用させた後、仕事の資金の肩代わりを持ちかけて姿をくらます犯行をあちこちの都市で繰り返していたようだ。

記事によると今回の事件も融資話のもつれからの犯行とある。


会社の誠子の机には一輪挿しの花瓶が置かれていた。

誠子の死の責任の一端が自分にあるように思えて私は気が滅入った。


誠子は私の忠告を聞いて男のところへ押しかけ、渡していたお金を取り戻そうとでもしたのではないだろうか。

騙される結果になったとしても、私が口を出さなければ殺されることはなかったのではないか。


暗い気持ちで帰宅し家族と一緒に夕食を食べていた私は、テレビを見て悲鳴をあげた。

「美枝子、どうしたのよ? 大声出して」


たしなめるように眉をひそめる母に、私は震える指で画面を指さした。

「この人、この人……」


ニュースは誠子の事件を報じていたのだが、新聞には載っていなかった犯人の顔写真が映し出されていた。

犯人の安村は、西田と名乗って私にタクシーへの同乗を勧めた男だった。




★驟雨

夫の笑い方は分かりやすい。

漫画の擬音語のように「ワッハッハッハ」と笑う。

時には「ゆかい、ゆかい!」と言いながら手を叩く。

けれどもそれは人前に限っての話で夫は子供たちや私には笑顔を見せたことがない。


ある夏の日、職場のソフトボール大会でこけて夫が膝を傷めた。

辺りが真っ白くなるような驟雨しゅううに襲われて一時中断した直後で、地面が滑りやすくなっていたせいだった。


入院した夫の病室に部下が連れ立って見舞いにやって来た。

彼らが帰る時、私は夫の車椅子を押してエレベーター口まで見送った。


「半月板損傷だから半月で退院するよ、アッハッハ」

軽口を叩きながら夫はエレベーターに乗り込んだ部下たちに小さく手を振った。


エレベーターのドアが閉まると、私は車椅子をくるりと反転させた。

その時、向かいの壁の鏡に映った夫の顔に驚いた。

夫の顔からは全ての表情が消えていた。


ついさっきの笑顔と一瞬でうって変わったその顔を見て、私は悟った。

夫の笑顔は作りものなのだ。


思えば、何度か部下たちを家に連れて来た時も同じだった。

部下たちが引き上げると夫はとたんに仏頂面ぶっちょうづらになったものだ。


家族の前では不愛想な顔しか見せない夫。

不思議にも不満にも思っていたあの顔こそが夫の素顔だったのだ。


長年連れ添って来たのに、気づくのが遅すぎた。

外面そとづらのいい人だ、これまでそんなふうにしか思っていなかった。


夫は毎朝家を出ると、家族を養うために懸命に笑顔で闘っているのだろう。

不器用な役者のようにぎこちない笑顔を作り、「ワッハッハ」と台詞せりふをしゃべりながら。




★秋霖

同じ学部の同じ3年生に可愛い子がいるが、その子は卒業した先輩と将来の結婚の約束を交わしていた。

僕がそのことを知ったのは、彼女を本気で好きになった後だった。


思い当たることと言えばそんな間抜けな失恋くらいだろうか。

しかし、それも後づけの話であって、僕が死のうと思ったのに特別な理由はない。


大体が、睡眠と死とはどう相違するのだろう。

再び目覚めるかどうかの違いだとすれば、起床時に何の感激もない僕はむしろ死後の世界を知りたくなった。


昼食を済ませて家を出た僕は、東へ東へと自転車を走らせた。

それも、西へ向かえばすぐに海に出るので東を選んだに過ぎない。

4、5時間もペダルを漕いだろうか、けっこうな高さの峠に着いた。


秋の日が暮れるのは早い。

登ってきた山肌はまばゆいばかりの茜色に染まっているが、これから降りていく里の家々は既に灯をともしている。


そのコントラストは僕の目と胸に沁みた。

自分が生と死のはざまに立っていることを実感した。


峠を降りた僕は、古びた暖簾の掛かる食堂に入った。

メニューの450円の天ぷらうどんを安すぎると思いながら注文したが、現物を見て納得もし落胆もした。


具は海老天ではなく、丸く平たい揚げかまぼこがうどんの上に無造作に浮かんでいた。

この地方では揚げかまぼこを「てんぷら」とも呼ぶ。

僕の間抜けな勘違いは、間抜けな僕の最後の晩餐にふさわしい。


食堂を出るとすっかり日が暮れていた。

僕は死に場所を求めてペダルをゆっくりと漕ぐ。


山裾のこじんまりとした神社を見つけて自転車を停めた。

社殿の濡れ縁に上がった。


これまで少しずつ集めてきた睡眠薬を飲み終え、仰向けに寝転んだ。

雨が降り出した。


秋霖しゅうりんと言うのだろうか、最近は雨の降る日が多い。

この縁側に降りこまなければいいが……、死にゆく身でそんなことを思っているうちに意識が遠のいた。


僕だけが地球の引力から解き放たれたように、頭を下にしてゆっくりと月に向かって落ちていく。

月に接する直前、ふわりと体が反転して月に降り立った。


見上げると、満月の何倍も大きな地球が真上に青く輝いている。

少しずつ息苦しくなる。

「やっぱり月には大気がないんだな」


苦しくて寂しくて地球を見上げていると、降り出した雨が僕の顔を濡らした。

「月にも雨が降るのかな」

甘露のように優しい雨だった。


僕は仰向いたまま地球に吸い寄せられるように少しずつ浮揚していった。

そうして僕は再び地球の大地に足をつけた。


「直樹! 直樹! 直樹!」

目を開けると、父が僕の名を呼び続けている。

病院のベッドに横たわる僕の顔を濡らしていたのは、父の涙だった。




★父親と息子

息子の直樹は、幸運なことに神社の神主の夜間巡視で発見された。

すぐに病院に搬送され、胃洗浄の処置を受けた。


警察からの連絡で、私は夫と娘と共に病院に駆け付けた。

「直樹! 直樹! 直樹!」

いつも不愛想な顔をしている夫が取り乱す姿を私は初めて見た。


直樹が目を覚まして話せるようになると、夫が私に言った。

「しばらく、二人だけにしてくれ」


私と娘の美枝子は個室の入口近くのソファーに移った。

夫は直樹のベッドまわりのカーテンを閉めた。


「直樹、お前に話がある」

息を吹き返したばかりの息子を責めたてたりしなければいいがと思いながら、私は美枝子と一緒に耳をそばだてた。


「お父さんは最近、ある人と5日連続で顔を合わせなければならない仕事があった」

何を言いたいのか見当もつかない話を夫は切り出した。


「その人はスーツの胸ポケットにアスパラガスを1本挿していたんだ」

直樹の声は聞こえず、夫は適当にを空けながら一人で話し続ける。


「最初はそういう形のボールペンかと思ったが、どうも本物っぽい」

「それが2日、3日と続くと気になって気になって仕事どころじゃなくなった」


「そしてだな、最終日の5日目、その人は胸ポケットに細いキュウリを挿して現れた」

「もうお父さんは我慢できなくなって聞いた。『あなたはどうしてポケットにキュウリを挿しているんですか?』ってな」

ここで夫はもったいぶった間を置いた。


「その人、何て答えたの?」

初めて直樹の声が聞こえた。


夫は小さく咳払いをして言った。

「『今日はアスパラガスがなかったんです』だってさ、アハハ。そこで目が覚めた」


ぷっと直樹も噴き出したようだった。

「なあんだ、夢の話だったの」


気が楽になったような声で直樹が続けた。

「でも、なんでそんな話を僕にするの?」


「お父さんは人との接し方というのが分からないんだ。会社だけでなくお前たち家族に対してもそうだ」

夫の声は今度は重々しくなった。

「だからお前にもああしろこうしろというような話しかできなかった。面白い夢を見たよ、そんな何でもない話もこれからはしたいと思ってな。今回のお前のことはまともな親子関係を築けなかったお父さんの責任だ」


「父さん、心配かけてごめん」

「すまないのはこっちだ。お前もいろいろと辛かったんだろう」

直樹と夫のすすり泣きの声が漏れて来た。




★母親と娘

私と美枝子はどちらからともなく顔を見合わせた。

「男ってめんどくさいね」

私も娘に同感だ。


「でも直樹だけじゃなく、あんたも7月は危なかったわね」

「そうそう。晴れの日は誠子、雨の日は私が標的になってたのよね」


人口の割にタクシーの台数が多い私たちの町では普段はどんな道でもタクシーが拾える。

けれども雨の日は幹線道路だけでも多くの客が手を挙げるので、タクシーはわざわざ山の手の道は走らない。

事件の犯人がやって来たのは梅雨の終盤だった。


「1か月早かったら、誠子と私が入れ替わっていたかもね」

確かに、雨が降り続く梅雨のさなかならば娘のほうが頻繁にタクシーに誘われて犯人との関係が深まっていただろう。


「とにかく直樹もあんたも無事だったんだから雨降って地固まるってとこね。今後は気を付けなさい」

「ずいぶん上から目線だけど、お母さんも昔は危なかったんじゃない?」


「何の話?」

「直樹が生まれた後、お母さん、ヤバかったよ」


私は美枝子が布団に潜り込んできた夜のことを思い出し、顔がこわばるのが自分でも分かった。

「何か覚えているの?」

「あっ、その感じ! あの頃のお母さん、なんか変だった。いっつも怖い目をしてた」


「あんたには分からないだろうけど、産後っていろいろ大変なのよ」

ひそかに胸を撫でおろしながら、私自身も雨降って地固まるの口だったのだと思った。

今回の直樹の件はちょうどよい機会だ。

私が音頭を取って4人協力して親子関係をやり直そう。


夫がカーテンを開けた。

直樹のベッドの向こうの窓から澄んだ青空が見える。


私は立って窓辺に行き、空を見上げた。

しばらく小春日和が続きそうだ。


「お父さんも直樹も美枝子も協力して。私ひとりじゃ手に余るから」

直樹が退院したら、まず家族みんなの布団を家じゅうの手すりに干そう。

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雨のオムニバス 仲瀬 充 @imutake73

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