再スタート

 数日後の朝。

「アルセニー様、おはようございます」

「おはよう、パーヴェル」

 パーヴェルの声でゆっくりと目を覚ますアルセニー。

「今日も帝都中心部まで出る予定だ」

「承知いたしました」


 以前のアルセニーはユスポフ子爵邸に引きこもる生活だった。しかしタチアナに生きる選択をすることを提案した日以降、アルセニーは帝都中心部まで出向いたり、外へ行くようになった。

 というのも、ユスポフ公爵家を追放された際に持たされた資産には限りがあり、タチアナと生活をするならば一年も持たないのだ。

 そこでアルセニーは自分でお金を稼げるよう、事業になりそうなネタを探しに行っているのである。


「アルセニー様、すっかりお変わりになられましたね」

 パーヴェルは嬉しそうに微笑んでいる。

「そうだな。今までの私は、君の為に自死はしないでいようと決めていたが、そこで止まっていた。実質死んだように生活していたものだ」

 過去を振り返り、自嘲するアルセニー。

「タチアナさんにこの先の道を探してみないかと提案したのだが、それはある意味自分への提案でもあるかもしれない」

 アルセニーはフッと笑う。

 以前は諦めたように輝きがなかったマラカイトの目だが、今はすっかり前を見据えている。

「左様でございますか。きっかけが何であれ、アルセニー様が以前のように明るくなられて嬉しく存じます」

 パーヴェルは穏やかな笑みでアルセニーの朝の支度を手伝い始めた。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






「おはようございます、アルセニー様」

 ダイニングにて、先に来ていたタチアナはアルセニーの姿を見るなり微笑んで挨拶をする。


 生きる選択をした日以降、きちんと食事を摂るようになったタチアナ。まだ痩せ過ぎの部類ではあるが、以前よりは健康的である。栗毛色の髪も傷みは減っており、肌の荒れも治ってきていた。そして顔色も以前より明るくなっている。


「おはよう、タチアナさん。今日はどうするつもりだい?」

 アルセニーは優しく微笑み、タチアナの予定を聞く。

「本日も、この家にある本を読むつもりでございます。イグナチェフ先生がお書きになった有機化学の本がとても分かりやすくて面白いので、かなり読み進めることが出来ておりますわ」

 ふふっと笑うタチアナ。ヘーゼルの目は楽しそうである。以前のように死のうとしていた頃とは大違いだ。

「イグナチェフ先生……もしかして、トロフィム・ダニーロヴィチ・イグナチェフのことか……?」

 怪訝そうに首を傾げるアルセニー。

「ええ、左様でございます」

 きょとんとした様子のタチアナ。

「そうか……」

 アルセニーは少し考え込む。

「アルセニー様? どうかなさったのですか?」

 不思議そうに首を傾げているタチアナ。

「いや、何でもない」

 アルセニーはフッと笑った。

「さあ、お二方、朝食が出来ましたよ」

 そこへパーヴェルが朝食を持って入って来た。


 この日の朝食は野菜がたっぷり入ったボルシチ。それから、オラディという小ぶりで厚みのあるパンケーキだ。


 アルセニーとタチアナは共に食事をするようになっていた。






−−−−−−−−−−−−−−






「アルセニー様、そろそろ出掛けられますか?」

 朝食後しばらくすると、パーヴェルが聞いてきた。

「ああ、そうだな。パーヴェル、帝都中心部まで出るついでに何か必要なものはあるか? 消耗品とかそういった類だったり、君の欲しいものだったり。タチアナさんからは、有機化学関連の本が欲しいと言われているが」

 アルセニーはいつも自分の為に動いてくれているパーヴェルを気遣うようである。


 ちなみに、パーヴェルはタチアナを一人残すとユスポフ子爵邸に何かあった時に彼女が大変な思いをするということで屋敷に残っている。


「いえ、消耗品はまだ使えるものばかりでございますので。現在使用している万年筆も、少し傷がありますがまだまだインクが出ますよ」

 パーヴェルは得意気に胸ポケットから万年筆を取り出してメモ帳に文字を書く。

 パーヴェルの万年筆を見てアルセニーは少し考え込む。

「アルセニー様、どうかなさいましたか?」

 パーヴェルはきょとんと不思議そうに首を傾げている。

「いや、公爵家で過ごしていた頃は、物に少し傷が付いただけで捨てていたと思ってな。他の貴族の家でも似たようなものだった」

 懐かしむような表情になり、アルセニーは再び考え込む。

「あの、アルセニー様?」

「いや、もしかすると事業にすることは出来ないかと思ってな。帝都中心部を見ていたら、そこそこの数の裕福な平民もいた」

 ここ数日で見た帝都の様子を思い出すアルセニー。そして言葉を続ける。

「その平民達中には、見栄を張りたい者達もいたんだ。……もしまだ使えるのだが貴族達が捨てようとしている物品を仕入れて彼らにそれなりの値段で売ることが出来たら、利益もそこそこ出るだろうと思ってな。人間の見栄というのは、中々の金になる」

 最後悪戯っぽく笑うアルセニーだ。

「なるほど……」

 感心したように目を丸くするパーヴェルである。

 このままでは資産が減り続ける状況だが、アルセニーの考えを進めることが出来たら資産状況はかなり良くなる。

「ただ……」

 しかしアルセニーは表情を曇らせた。

「問題はどうやって貴族達からまだ使える不用品を集めるかだ。私は二年前に皇帝陛下に怪我を負わせてしまった。実質罪人みたいなもので、社交界からも追放されている。私が直接出向いても、相手にしてもらえるか分からない。それどころか、物乞いだと嘲笑されて更に悪評が広がるだろうな」

 アルセニーは自虐気味に苦笑した。

「アルセニー様……」

 パーヴェルは何も言えなくなってしまう。

「だが……ここで立ち止まっていたら今までの死んだような生活と何も変わらないな」

 アルセニーはフッと笑った。

「嘲笑や後ろ指を指されること、傷付くことを恐れていたら何も始まらない。私はきっと今まで傷付くことを恐れていたのであろうな。……どのみち私は皇帝陛下に怪我を負わせて評判が悪い。今更行動して何か言われたとしても大したことではないさ」

 アルセニーは明るい表情である。

「本当に前向きになられましたね」

 パーヴェルは心底嬉しそうだった。


 こうしてアルセニーの事業計画が始まった。

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