悲痛な願い

 タチアナが怪我をして帰って来た日の夜。

「パーヴェル、タチアナ・ミローノヴナ嬢に何があったのか、今なら話せるか?」

 タチアナが寝静まったと思われる頃、アルセニーは自室でパーヴェルに問いただした。

「はい」

 やや硬い表情のパーヴェルだ。

「タチアナ・ミローノヴナ様は……お一人で治安の悪い地域におりました」

「何……!?」

 アルセニーはマラカイトの目を大きく見開く。

「確かに私は彼女に、昼間でも犯罪発生件数が多い治安の悪い地域を教えたが……間違えてそこに行ってしまったのか……!?」

「それは分かりません。ただ……そこで刃物を持った方に対してタチアナ・ミローノヴナ様は無抵抗でした。それどころか、私には彼女が自ら刃物を持った方に近付いて行ったようにも見えました。その時、彼女は腕を刃物で切られたのです」

 困惑したような表情のパーヴェル。

「そうか……」

 アルセニーは呆然としていた。

「何とか助け出すのが間に合い、命に別状はなかったのですが……。このようなことになり、申し訳ございません」

 パーヴェルは心底申し訳なさそうだ。

「いや、パーヴェル、君がいてくれたから彼女は命を落とさずに済んだ。ありがとう、パーヴェル」

 アルセニーは労わるように微笑む。

「そんな、とんでもないことでございます」

 パーヴェルは恐縮し切っていた。

「とりあえず、今後もお互いタチアナ・ミローノヴナ嬢のことは目を離さないでおこう」

「承知いたしました。それでは失礼いたします」

 今後の方針が決まり、パーヴェルはアルセニーの部屋を後にした。

 一人自室に残されたアルセニー。

 彼の脳裏には、タチアナの絶望したような表情がこびりついていた。

(タチアナ・ミローノヴナ嬢……彼女はどうしてあんな表情だったんだ……? やっぱり治安の悪い地域に入って悪党に目を付けられたのがショックだったのか……?)






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






 その翌日。

 この日はタチアナは散歩には向かわず、客室に引きこもっていた。

「パーヴェル、タチアナ・ミローノヴナ嬢の様子はどうだ?」

 アルセニーは心配気味に客室の方に視線を向けていた。

「はい。……本日は部屋から一歩も出ていないご様子です。お食事は不要だと仰っておりましたが……」

 パーヴェルも心配そうな表情で客室の方に目を向けた。

「食事……彼女は持参した荷物の中に食事などが入っていると言っていたが……」

 アルセニーはタチアナに言われたことが本当かどうか気になっていた。

「一応タチアナ・ミローノヴナ様のお食事もお作りいたしましょう」

「ああ、頼む」


 こうして、タチアナの食事をパーヴェルが作ることになった。

 しかし、当のタチアナは部屋に引きこもったままだ。一応部屋の中から微かに物音がするので、彼女が部屋にいるのは分かる。しかし、タチアナは弱々しい声で食欲がないと言い張り、食事を一口も食べない。

 そんな日が五日程続き、アルセニーもパーヴェルも少し困っていた。


 そんなある日のこと。

 タチアナがいる客室から物音が全く聞こえなくなった。

 これは流石におかしいと思い、アルセニーはパーヴェルと共にタチアナがいる客室に入る決意をする。

「タチアナ・ミローノヴナ嬢、いるのかい? 入っても構わないか?」

 アルセニーは遠慮がちに客室の扉をノックする。

 女性がいる部屋なので、勝手に入るのは気が引けた。

 しかし、中からは全く返事がない。

「物音一つ聞こえません。どうしたのでしょうか……?」

 扉に耳を当て、微かな物音も聞き逃さないようにしていたパーヴェル。彼は訝しげな表情だ。

「……仕方がない」

 アルセニーは拳をギュッと握り、覚悟を決めた。

「勝手に入らせてもらうぞ」

 とはいえ勢い良くバンッと扉を開けることはせず、そろりとゆっくり遠慮がちに客室の扉を開けたアルセニー。

「タチアナ・ミローノヴナ嬢……?」

 アルセニーは遠慮がちに部屋を見渡す。


 タチアナはぐったりとした様子で床に倒れていた。


「大丈夫か!?」

 アルセニーは驚愕のあまりマラカイトの目が零れ落ちそうになる程大きく見開いて、タチアナの元へ駆け寄る。

「アルセニー様、強く体を揺すってはいけません」

 戸惑いながらパーヴェルもタチアナの元へ駆け寄る。

 アルセニーはタチアナの手首にそっとふれる。

「……弱いが脈はある」

 最悪な結末にはまだなっておらず、アルセニーは少しだけ安堵した。

「すぐに医師を呼んで参ります」

 パーヴェルは急いで客室を後にした。

 アルセニーはゆっくりとタチアナを横抱きにし、ベッドまで運ぶ。

(軽い……! 軽過ぎる……!)

 タチアナの細過ぎる体はアルセニーの想像以上に重量を感じなかった。

 そしてタチアナはどこか幸せそうな、満ち足りた表情に見えた。

 アルセニーはタチアナをゆっくりとベッドに寝かせた。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






「栄養失調ですね」

 パーヴェルが連れて来た医師は、タチアナの状態を確認するとそう診断した。

「栄養失調……」

 アルセニーは医師の言葉を繰り返した。

「はい。恐らく彼女はここ一週間程食事を取っていないと思われます。発見がもう少し遅ければ、恐らく亡くなっていたでしょう」

 医師から告げられた言葉にアルセニーはやはりかと思ってしまった。

「食事は自分で用意すると言っていたが、やはり彼女は何も食べていなかったのだな……」

 アルセニーは軽くため息をついた。


 タチアナは医師の適切な処置により、一命を取り留めた。

 後はアルセニーとパーヴェルが看病することになった。

「彼女は何故なぜこのようなことを……?」

 眠っているタチアナを見て、パーヴェルは悲痛な表情であった。

 アルセニーは今までのタチアナのことを思い出す。


『ああ、それと彼女……タチアナ嬢は最近自殺未遂をしてちょっと有名になってしまったのですよ』


 タチアナのことをそう紹介したマトフェイの言葉。


わたくしの食事は……必要ありません。……キセリョフ伯爵家でも、自分で用意していたので……。どうか、わたくしの分の食事は作らないでください……』


 そう懇願したタチアナは、弱々しいがヘーゼルの目からは強い決意のようなものを感じた。


『……申し訳ございません』


 治安が悪い地域で刃物を持った者に襲われ怪我をした際のタチアナ。

 その表情は絶望を帯びていた。


(タチアナ・ミローノヴナ嬢……君はもしかして……)

 アルセニーは確信めいたものを持ち、タチアナに目を向けた。

 その時、タチアナがゆっくりと目を覚ます。そのヘーゼルの目は、どこかぼんやりとしていた。

「タチアナ・ミローノヴナ嬢……気分はどうだい?」

 アルセニーは目を覚ましたばかりのタチアナに優しく声を掛ける。

「え……?」

 意識がはっきりとしてきたタチアナは、アルセニーを見て戸惑っていた。

 そして自分の置かれた状況を確信して絶望を帯びた表情になる。

「お目覚めになられましたか。今消化に優しい蕎麦の実のカーシャをお持ちいたします」

 パーヴェルは心底安心し、早速蕎麦の実のカーシャを用意しようとした。


 麦の実のカーシャとは、その名の通り麦の実を使った料理だ。麦の実を水、ブイヨン、牛乳などで柔らかく煮たお粥のようなものである。


「やめてください。……お願いです。何も食べたくないのです」

 タチアナは弱々しいが必死にそれを止めた。

「ですが、食べなければ死んでしまいますよ。今まで貴女様は何も食べていないと医師からお聞きしました。どうか食べてくださいませ」

 パーヴェルも必死である。

「それは……出来ません」

 タチアナは俯きながらそう言う。

「どうして何も食べようとなさらないのです?」

 悲痛そうな表情になるパーヴェル。

「それは……」

 タチアナは口を噤む。

「死ぬことが出来ないから……だろう?」

 アルセニーは困ったように微笑む。

 するとタチアナは驚いたようにアルセニーを見て、すぐに気まずそうに目を逸らす。

 パーヴェルは驚愕した表情だ。

「やはり君は死のうとしていたんだな」

 アルセニーは優しく、悲しげにマラカイトの目を細めた。

「タチアナ・ミローノヴナ様……何故なぜそのようなことを? 自殺は神への冒涜とされる行為ですよ」

 宥めるような口調のパーヴェル。

 するとタチアナのヘーゼルの目からはポロポロと涙が溢れ出す。

 アルセニーはそんな彼女の背中を優しくさする。

「……亡くなったお父様とお母様の所に行きたかったのです。わたくしには……もうこうするしかないのです」

 感情が決壊したように、タチアナは声をあげて泣き出した。

「もう……生きているのが限界なのです……。お父様とお母様の元へ行かせてください。アルセニー・クジーミチ様達には……ご迷惑をおかけしないようにいたしますから。どうか……死なせてください」

 小さな肩を震わせ、弱々しい声で泣きじゃくるタチアナ。

 それは悲痛な願いであった。

(彼女は……どうしてこんなに悲しみと絶望を背負うことになってしまったのだろうか? 彼女に……何があったのだろうか?)

 アルセニーはタチアナのことを放って置けなくなった。

「タチアナ・ミローノヴナ嬢、君はご両親を亡くしていたんだね。……きっと大変だったはずだ」

 アルセニーは少しかがみ、タチアナに目線を合わせる。マラカイトの目は、どこまでも優しかった。

「でも……君が死にたいと願う理由はそれだけではないのだろう? 君に何があったのか、話してもらえるだろうか。……別に嫌なら無理に話さなくても良いが」

 アルセニーのマラカイトの目は、優しく真っ直ぐであった。

 タチアナは涙をこぼしながら、アルセニーに目を向ける。

 涙で濡れ、悲しみと絶望に染まっているヘーゼルの目。

 アルセニーはそんな彼女の目から視線を外せない。

「……分かりました」

 タチアナは涙を流したまま、ゆっくりと話し始めた。



※蕎麦の実のカーシャは東欧の家庭料理です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る