二人の生活
アルセニーとタチアナが結婚した翌日。
「アルセニー様、おはようございます」
いつも通り、パーヴェルがアルセニーを起こしに来た。
「ああ、おはよう、パーヴェル。……タチアナ・ミローノヴナ嬢はどうしている?」
アルセニーは起きて早々、タチアナのことを心配している。
「先程お声掛けいたしました。タチアナ・ミローノヴナ様も起床なさったご様子です」
「そうか……」
パーヴェルからの答えに、アルセニーは少しだけ安心する。
(この家には使用人的存在がパーヴェルしかいない。タチアナ・ミローノヴナ嬢にとっては男のパーヴェルよりも女性の使用人がいた方が助かる面もあるだろう)
アルセニーはタチアナの為にそう考えた。
しかし、懸念点もある。
(ただ……私にはそういったコネはない……。ユスポフ公爵家を追い出された時に持たされた資産にも限りがある。給金を出せるかどうか……)
アルセニーは現状に軽くため息をつき、朝の支度をするのであった。
朝食時、タチアナはいなかった。
アルセニーはパーヴェルが用意した食事を黙々と食べている。
「パーヴェル、毎日の食事の準備、感謝している」
「もったいお言葉、恐縮でございます、アルセニー様」
「タチアナ・ミローノヴナ嬢は……食事は自分で準備すると言っていたが……大丈夫なのだろうか?」
アルセニーのマラカイトの目は心配そうに客室の方を向いていた。
「どうなのでしょう? ただ……タチアナ・ミローノヴナ様のお体は、十八歳女性の平均的なものと比較すると、痩せ過ぎの部類だと存じます。もしかしたら、あまりお食事を取られていないのかもしれません」
パーヴェルはタチアナの姿を思い出し、そう考えた。
「……パーヴェル、君も彼女のことを見ておいてくれ」
「承知いたしました」
アルセニーが食事を終えてしばらくすると、タチアナが客室から出て来た。
「おはよう、タチアナ・ミローノヴナ嬢。よく眠れたかい?」
アルセニーはタチアナになるべく優しく声を掛ける。
するとタチアナはビクリと肩を震わせ、恐る恐るアルセニーに目を向ける。
そのヘーゼルの目には、怯えと諦めに染まっているように見えた。
「……おはようございます。アルセニー・クジーミチ様……」
伏し目がちに挨拶をするタチアナ。
「朝食は取ったのかい?」
少し心配そうに覗き込むアルセニー。
「はい……」
俯いたままのタチアナ。
「この屋敷の厨房は少し狭いみたいだから、使い勝手はあまり良くなかっただろう」
するとタチアナは黙り込む。
「……タチアナ・ミローノヴナ嬢? えっと……その……大丈夫かい?」
アルセニーは黙り込むタチアナに少しだけ焦る。
「食事は……荷物の中に入っていたものを食べました。ですので、このお屋敷の厨房を汚すことは決していたしません」
弱々しくか細い声のタチアナ。
「荷物……そうか……」
アルセニーは若干怪訝そうな表情である。
(昨日見た彼女の荷物は……小さな鞄一つだけだった。あの中に食料が……? それに、持参金もない様子だし……)
アルセニーはそれを思い出し、少し考え込んでいた。
するとタチアナはおずおずと控え目に口を開く。
「あの……少し一人で散歩に行きたいのですが……」
「散歩か。別に構わない。昨日も言った通り、君の好きなようにしてくれて構わないさ」
アルセニーは優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。それで……この辺りで治安の悪い地域を教えていただきたいのです」
生命力を感じられないヘーゼルの目。しかし、その目はどこか真っ直ぐであった。
「ああ、ならばこの辺りの地図を持って来る」
アルセニーは自室まで戻り、ユスポフ子爵邸周辺の地図をタチアナに渡す。
「地図のこの辺りは昼間でも犯罪発生件数が多い。散歩の際はここは避けた方が良いだろう」
アルセニーはタチアナに丁寧に教えた。
「……ありがとうございます。それでは……行って参ります」
弱々しくか細い声のタチアナ。
アルセニーは散歩へ出掛けるタチアナを見送った。
小さ過ぎる肩幅、細過ぎて体を支えられるか見ていて不安になる脚。
アルセニーはタチアナの後ろ姿を見て若干の不安を覚えた。
その時、パーヴェルがやって来る。
「おや? アルセニー様、こんな所でどうかなさいましたか?」
パーヴェルは玄関で突っ立っているアルセニーの姿に首を傾げていた。
「ああ、それが……タチアナ・ミローノヴナ嬢が散歩に出掛けたのだが……」
アルセニーはそこで口を噤む。
「心配なのでございますね」
パーヴェルは困ったように微笑む。
長年アルセニーの側にいたパーヴェルは、彼が考えていることを読めるようになっていた。
「その通りだ」
アルセニーは玄関を見つめながら頷く。
「でしたらこの私、パーヴェルがタチアナ・ミローノヴナ様のご様子も見て参ります。丁度食材を買いに帝都中心部まで行く予定でしたので」
「ありがとう、パーヴェル。いつもすまないな」
アルセニーはパーヴェルに労いの言葉を掛ける。
「いいえ、私が好きでやっていることてすから」
パーヴェルはほんのり嬉しそうな表情であった。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
数時間後。
パーヴェルがタチアナを連れて帰って来た。
その際、タチアナは腕に怪我を負っていた。
「二人共、一体何があったのだ!?」
アルセニーは腕から血を流すタチアナを見て驚愕している。
「アルセニー様、申し訳ございません。タチアナ・ミローノヴナ様を助けることが遅れてしまい。すぐに彼女の治療をいたしますので」
「そうだな、まずは治療だな」
アルセニーとパーヴェルは急いで治療の準備をした。
「……申し訳ございません」
傷を負った腕にパーヴェルから包帯を巻かれる中、タチアナは蚊の鳴くような声で俯きながら謝罪した。
その表情は、絶望を帯びている。
アルセニーはそんなタチアナから目が離せなかった。
「謝ることはない。君が無事で良かったと思っている」
アルセニーは優しくタチアナに声を掛ける。
「それで、何があったんだ?」
アルセニーはタチアナに視線を合わせる。マラカイトの目は、タチアナを案ずるように優しかった。
タチアナは思わずアルセニーから目を背け黙り込む。
アルセニーはパーヴェルに目を向ける。
「パーヴェル、何があったか知っているか?」
「それが……タチアナ・ミローノヴナ様は」
「全て
パーヴェルの言葉を遮るタチアナ。か細いが、どこか真の強さを感じられる声だ。
「全て……
まるで詳細を聞くなと言うかのようである。
アルセニーとパーヴェルは困ったように顔を見合わせた。
結局、何が起こったのかはタチアナからは聞けず、その場でパーヴェルも言うことが出来なかった。
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