空への扉

秋初夏生(あきは なつき)

空への扉(短編)

薄明かりの下で、あの絵を見つけた。

倉庫の隅で、埃(ほこり)にまみれていた。

校舎をモチーフにした、ありふれた風景画だった。

でも。私は思った。


――空はこんなに青かった?

その絵を見るまで気づかなかった。


――学校がこんな風に見えるの?

嘘つきだと思った。

名前も知らない、その絵の作者を。


――だって、私にはそんなふうには見えない……。


「二年B組、櫻井美希。二年B組、櫻井美希。今すぐ、職員室まで来なさい」

校内放送でフルネームを連呼されるのは、かなり恥ずかしい。

廊下ですれ違う人が、みんな私の方を見ている気がして、小走りで職員室へと向かう。

乱れた長い髪を気にしながら、私は思わず聞き返した。

「え? 進路の希望調査……ですか?」

まだ若い担任の青木先生は、私の言葉に大きくうなずく。

「櫻井は、美術部だからな。美術系の学校か、それとも普通科の高校か、くらいは今から考えておかないと」

昨日渡された進路調査プリントは、提出期限がまだ先だから、と机の引き出しにしまったままだった。

「えーと……いちおー考えてはいますよ」

かなり怪しい態度なのに、先生はあっさりと、「そうかそうか」と目を細めた。

「ならいいんだ」

人のいい先生に、私は少し良心が痛んだ。

――本当はまだ何も考えてないのに……。

後ろめたくて、まともに先生の顔が見れない。

「じゃあ、来週にでもプリント出してくれ。な?」

――え? 来週?

「せ、せんせっ」

慌てて顔を上げたときには、先生の姿はなかった。

――うそ、学期末に締め切りって聞いてたのに……。

優しげな顔をして、実は信用してないのかもしれない。

廊下で途方に暮れる私の横を、春の初めの柔らかい風が、吹き抜けた。




昼休み、教室は明るいざわめきに包まれる。

悩みとは無縁そうなクラスの中では、とてもじゃないが、物思いにふけることなんて不可能だ。

私は屋上のフェンスにもたれて、小さくため息をついた。

屋上は、私がこの学校で唯一、息をつける場所だった。

暗い廊下、灰色の壁、狭い教室。

それに比べて、ここは……。

「すっげー気持ちいいよな」

「――え?」

周りに誰もいないと思っていた私は、いきなり聞こえた声に驚いた。

屋上より一段高い時計台に、一人の少年が座っていた。

太陽の光を受けた髪が、キラキラと金色に光っている。

すとん、と時計台から降りて来た少年は、校内では見たことのない男子生徒だった。近くで見る少年の髪は、少し赤みがかった茶色だった。

「あんた、よくここに来るよな」

初対面にも関わらず、少年は人好きのする笑顔を浮かべてそう言った。

「そ、そう……ですけど」

三年生の学年カラーである緑のバッジに気づいて、語尾が自然と丁寧になる。

――この人も、よくここに来てたんだ。

今まで気づかなかった。

少年は、リンゴを放り投げては受けている。

――あれが昼食かな?

それっきり何も言わない少年に、居心地悪くなった私は、再び口を開いた。

「あ、あの……」

「何?」

真顔で聞き返されて、私は頭の中が真っ白になる。もともと知らない人と会話するのは得意ではなかった。

「あ、あの。そんなに投げるとマズくなっちゃいますよ」

言ってから、自分の言葉の間抜けさに、思わず赤面する。

「ぶっ」

我慢しきれなかったのか、そもそもする気もなかったのか、少年は大声で笑い始めた。




しばらくして、ようやく笑い止んだ少年は、手にしたリンゴを器用に割った。「やるよ」と半分を私に差し出しながら少年はふと真面目な顔をする。

「で、何を悩んでんだ?」

いきなり聞かれて、私は思わずリンゴを取り落としそうになった。悩みがあるなんて、言った覚えはなかった。

「何で知ってるの、……ですか?」

不自然な敬語に、少年は「気を遣うなよ」と言った。

「見てたらだいたい分かる。ここから飛び降りる気じゃないだろうな、って最初は思ったくらいだ」

教室と違って、人の視線が気にならないから余計に、顔に出てたのかも知れない。

「うーん。何か最近、いろいろと考えちゃうのよね」

「そりゃ、誰でも何かしら考えはするだろ、人間そんなもんだし」

少年はやけに悟ったように言う。

それを聞いて、なぜか少し心が軽くなった。


もらったリンゴをかじってみる。

サクッと音がして、甘酸っぱい香りが風に溶けていく。

「――進路とか将来のこととか、急に言われてもぴんとこないの。何だか不透明な感じ」

まだ熟しきっていない、酸っぱさが口の中にふわっと広がるのを感じながら、私は悩みを打ち明けた。

「だいたい、何のために学校に来てるんだろね」

「……何か一気に話が飛躍したな」

それまで黙っていた少年は、そこで少し苦笑した。

でも、すぐに真面目な顔つきになる。

「学校、嫌いなのか?」

私はちょっと考え込んだ。

「――ううん、でも好きじゃない。この灰色のコンクリートの壁とかね。なんだか息が詰まりそうになる」

灰色の壁を見ていると、この灰色の建物に閉じ込められているような錯覚すら覚えた。

「確かに、壁の色は嫌だよな。でもさ、中身は違うからさ」

少年は、向かいの校舎にある教室を指した。少し遠いけれど、相変わらず、にぎやかな声が聞こえた。

「心にまで灰色になっちゃ、おしまいだよ」

私は、自分のことを言われた気がした。

――心が、灰色……かあ。

思わずそっと見上げた少年の横顔は、屈託のない笑顔だった。


それから少し、二人とも黙って屋上から景色を眺めていた。

こんな時間も悪くないな、と思ってたとき。

「俺さ、すっげー空が好きなんだ」

「空?」

突拍子な言葉に、ちょっとびっくりする。

「そう、空。変わってるって、親は呆れるわ友達は笑うわでさ」 

その口調がやんちゃな子供みたいで、私は思わず吹き出す。

「あっ、こら。お前まで笑うなよ」

「ごめん、そんなつもりじゃ……」

「ま、いいけどさ。でもホント好きなんだ。将来はぜったい、飛行機の操縦士になるつもり」

そう話す少年の顔は、すごく輝いて見える。

最近は、将来の夢や希望を持っている子供が少ない、と聞いたことがある。

一つ年下の弟も、

「サラリーマンってリストラとか色々大変じゃん。オレ、フリーターでいいや。適当に稼げそうな仕事見つける」

なんて生意気なこと言ってたっけ……。

でも、この少年は違う。

鳴り始めた予鈴に気づき、私は戻りかける少年を呼び止めた。

「あの、明日もここに来ていい?」

「おう、って別に俺の縄張りじゃないんだけど」

何だか、この少年といると自分の希望も見つかる気がした。



その日の放課後。

「で? 結局、誰なのよ。その三年は」

行儀悪く美術室の机の上に腰かけながら、由衣ちゃんが聞いた。

「知らない。名前聞いてないし。名札も見てない」

「聞くでしょ、普通。ほんと変わってるなー、美希は」

「その先輩も、私の名前聞かなかったよ?」

「変なの」

由衣ちゃんは私と同じ美術部員で、数少ない私の友達だった。何かというと「変なの」で片付けてしまうことも多いけれど、人の話は一応ちゃんと聞いてくれる子だ。

「じゃあ、心の中で『少年』扱いしてるんでしょ」

「ど、どうして分かるの?」

「ふっふっふ。私も変な者どうし、あんたの考えてることぐらいお見通しさ」 

この人と同類……。

でも、由衣ちゃんと一緒にいるときは、私の心は灰色じゃないと思う。

それに、放課後に美術室で過ごすこの時間は、とてもゆったりしていて気持ちがいい。

そんな当たり前で、――だからこそ見過ごしやすい大切なことに気づく。




次の日も、そのまた次の日も。

私は毎日屋上へと通った。

少年と話したり、何となく黙ったまま空を眺めたり……。

「最近ね、あんまり気にならないんだ。灰色の壁」

そういうと、少年は面白そうに私を見た。

「学校は?」

「好き、までは行かないけど、……あと一歩かな」

私たちは奇妙な関係にあった。

結局、まだお互いの名前すら知らない。何となく、いつも聞きそびれてしまう。

だいたい。

「三年生なのに、勉強忙しくないの?」

「さーね」

「受験は?」

「さーね」

少年はなぜか、自分の話題になると、妙にはぐらかす。

知っているのは、学年と将来の夢。

――そして、空が好きなこと……。


三年生は、受験シーズン真っ最中のはずだった。

卒業式も間近に控えている。

――卒業……か。

この日常がずっとは続かないことに気づいて、少し心が曇る。



その日の午後の授業は、いつもより長く感じた。

「そうそう! 例の先輩だけどさ、前に似たような話を聞いたことあるんだな」

放課後、部室の片付けをしながら、由衣ちゃんが言った。

「誰に聞いたの? どんな話?」

矢継ぎ早に聞く私に由衣ちゃんは、まあまあと手を振った。

「そう慌てない、慌てない。えーっと、―誰だっけ?」

「忘れちゃったの?」

「い、今思い出すから・・・・・・」

たぶん無理だろう、と私はあきらめた。

――期待しただけ、損した気分。


思わずため息をついていると、いきなり部室の戸が開いた。入って来た姿に、由衣ちゃんがパッと顔を輝かせる。

「あ、先輩だー。お久しぶりー、受験終わったんですか?」

三年の間宮先輩だ。こうして部室に顔を見せるのは、引退後初めてだった。

「受験? 嫌なこと言うわねー。私は終わったことは気にしない主義なのよ」

そう言いつつも、晴れやかな顔をしている先輩に、思い切って尋ねてみた。

「先輩が受けたのって、美術系の学校ですか?」

「美希ちゃんまで、そーゆーこと聞くかぁ? しばらく受験って単語は聞きたくないわ。――あ、自分で言ってら」

何だかんだ言って、けっこう自信があるんじゃないかと思う。その証拠に、ちゃんと質問に答えてくれた。

「美術コースのある、普通の私学を受けたのよ。ほら、実技試験のないとこね。なんたって私は、幽霊部員だったし、デッサンも苦手なのよ」

間宮先輩は自分で言うほど、不真面目な部員ではなかった。デッサンだって、けっこう上手い方だと思う。

「レベルが違うんだわ。夏休みの学校見学で美専の作品見てきたんだけど、もう上には上がいるってヤツね」

「うへー。私、絵画教室でも通おっかなー」

由衣ちゃんが首をすくめながら言う。

「そうしなよ、本気で美術方面行きたいならね」

間宮先輩は、ふと私の方を見た。

「美希ちゃん、あんたはどうすんの?」

「わ、私は・・・・・・」

「せんぱーい、美希ったら、まだ何も考えてないんですよー。のん気だよねー、全く」

余計なことを、と思いながらも仕方なく白状する。

「実は、そうなんです・・・・・・」

間宮先輩は、あら、と意外そうな顔をした。それから、柔らかい笑みを浮かべる。

「まあ、人それぞれよね。大切な将来のことなんだから、焦る必要はないわよ。―でも、もし美術系に行くなら、ホント早いめに対策が必要よ」

温かい言葉が、すごく嬉しい。

「いいなー、ずるいなー。先輩、美希には優しーよね。私らには鬼先輩なのに」

「なにーっ、由衣、もういっぺん言ってみなっ」

「ほら、やっぱり」

ヒイキだ、ヒイキだ、と由衣ちゃんが騒ぎ立てる。

――私は私で、由衣ちゃんと間宮先輩みたいな関係がうらやましいんだけどな。

それはまあ、お互い様だからいいとして。

進路希望プリントの提出期限まで、あと四日ほどしかないことを思い出して焦ってきた。

日曜日を除くと、学校へ来るのはあと三日。

――ほんとうに、早く決めなきゃ・・・・・・。

「そうだ、先輩。三年の男子で・・・・・・」

急に何か思い出したように、由衣ちゃんが先輩に尋ねていたけれど、私は上の空だった。


翌日は、雨だった。

「今日は来てないよね」

わざわざ雨の日まで、彼がここへ来ることはないだろう。それでも、何となく屋上へと続く階段まで来てしまった。

案の定、少年は来ていない。

――空、見えないもんね。

冷たい階段に座ったまま、ぼんやりと思う。


一体どのくらい、階段にいたのだろう。

「卒業式の準備にあたっている委員の人は……」という放送の声で、ハッと我に返る。

――明後日は卒業式か……。

何げなくそう思って、はっとした。

――あと二日で『少年』とも、もう会えなくなるんだ。


卒業式の前日。

私は今日中に進路を決めようと決意していた。

――少年に、私の将来の夢を言いたい。

廊下で、青木先生に呼び止められた。

「櫻井、進路希望の……」

「わかってます」

いつになく自信たっぷりな私に、青木先生は気圧されたように口を閉ざした。

今すぐには提出できないけれど。

――今からそれを、確かめるのだから。


青木先生を押しのけるように、今度は由衣ちゃんが話しかけてきた。

「美希、間宮先輩に聞いたんだけどさ」

「ごめん、由衣ちゃん。後でね」

悪いとは思いながらも、何かいいたげな由衣ちゃんを振り切って、屋上へ向かった。



卒業式の準備のために、今日は授業が半日で終わった。三年生は、午後から予行練習があるらしい。少年がここに来ることはないはずた。

だから、屋上へ行く。

――白いキャンバスを持って。


真新しいキャンバスがまぶしい。

邪魔にならないように、長い髪を一つにまとめて、私は筆を手にした。

青い絵の具をサーッと塗ってみる。

――違う、もっと明るい色。

油で薄めたり、他の色と混ぜたりして、さまざまな色を作り出す。キャンバスの中に、少しずつ青空が生まれていく。


私が今まで、この屋上で見てきた空。たぶん、あの少年も見てきた空。

イメージがどんどん広がっていく。


時間を忘れて、私は色を塗り続けた。

――空色の、キャンバスを作るために……。


筆を置いた私は、思わず微笑んだ。

屋上のフェンスの向こうに見える、校舎。

――あの絵、そっくり。

日が当たってるせいか、壁も明るくて白色に見える。


私のキャンバスには、たっぷりと絵の具が塗られている。

――青い空。

いつか、倉庫で見た絵を思い出す。あの絵の空とは、色が違う。

――だって、これは私の色。あの少年に出会って……、ううん、あの絵を見て初めて気づいた、私の色。

――嘘つきじゃなかったわ。

あの絵の作者に、そっと謝った。



「いい色だな」

――最初、私は空耳かと思った。

信じられないまま振り向くと、少年が立っていた。

「いつからいたの?」

私の問いかけに、「さっきから」と少年は答えた。

「邪魔しちゃ悪いかと思って、声かけるの迷った」

少年はフェンスのところまで歩いて行くと、ゆっくりともたれかかった。一瞬、ギイッときしむ音がした。

「式の練習は?」

「出てない。明日、出ないから」

「え? どうして?」

「今日のうちに、日本を発つんだ」

私は一瞬、息を詰まらせた。

「ど、どこへ行くの?」

やっとの思いで、言葉を紡ぐ。

「アメリカ」

単調に少年は告げた。急な話に頭がついていかない。けれど少年は淡々と言葉を続けた。

「親の事情ってやつ。半年前からそういう話は聞いてた」

くしゃっと、赤みがかった茶髪をかきあげながら、少年は言う。

「あなたは・・・・・・それでいいの?」

気づいたら、そう聞いていた。

――『親の事情』で割り切れる程度のことなの?

少年は予想に反して、明るい表情のままだった。

「最初は反対してたんだ。一人で日本に残るって。でも、残りたい理由があったわけじゃない。ただ、親の事情に振り回されたくないって感じで」

少年は、時計台の上によじ登った。いつもの場所に座って、私を見下ろす。

「自分が本当はどうしたいか気持ちすら見えずに、毎日空ばかり眺めていた。そんなとき、『少女』に出会ったんだ」

「『少女』って?」

少年はうつむきながら、私を指した。

「何のために学校へ来てるのか、って前に言ってたよな?」

「う、うん」

「俺は学校が好きだ。ずっとこのままでいられたら、って何度も思った。でも、夢を叶えるためには、今のままじゃだめなんだって気づいたんだ」

辛いこととか、挫折とか、夢を叶えるためにはいつか通らなければならない道がある。 私は、間宮先輩の話を思い出した。

「だからアメリカに行くことも、前向きに考えることにした。日本じゃ経験できないことだって、あるだろうし。それに――

アメリカにも空はある」

迷いのない真っすぐな少年の瞳。

――きっといつか、大空を飛び回るパイロットになるのだろう。

私はそう、確信した。


「――私、学校は将来への扉だと思うんだ。その先にすぐ将来があるとは限らないけど、いつか必ずそこにたどり着ける、みたいな……」

それが、私の考えた学校の意味。

「へーえ。人それぞれ違うもんなんだな。そんな考え方もあるのか」

私も最近気がついた。世界中の一人一人が同じ世界で生きながら、違った世界を見ていることに。

「学校は将来への扉か……」

少年はどこか懐かしそうな瞳で空を見上げ、さりげなく続けた。

「それなら屋上は空の扉かな」

「何それ」

「――という見方もあるぞ、と」

少年は時計台から飛び降りた。

私の隣に立って、キャンバスをのぞき込む。

「こんなふうに、見てるんだな」

そう小声で呟くのが聞こえた。

「お前の進路、決まったか?」

私は、大きくうなずいた。

――間宮先輩の言葉、今日中に決めようと決意したこと、時間も忘れて色を塗ったキャンバス……。

いろんなことが一気によみがえる。

――私の好きなもの、私の将来の夢。

「うん。私は絵が好き。自分の見ている世界を他の人にも伝えられるから」

「そうか」

少年は、笑顔でうなずいた。

――そう、すでに一人にはちゃんと伝えることができたのだから。もう迷ったりはしない。

「美術系の高校へ行くつもり。どの高校かは、またゆっくり考える」

「ああ、今はそれでいいだろうさ」

少年は、そのまま背を向けて歩きだす。

「来てよかった」

ドアの所で振り返ると、そう言った。

「あ、あの……」

思わず呼びかけた私に、少年は笑って言う。

「さよなら、とか言うなよ。永遠の別れじゃないんだし」

そんなふうに言われると、言葉が見つからない。

でも、遠ざかる姿に、慌てて私は言った。

「ま、またね」

「おう、またな」

――そう聞こえた気がした。




私はしばらく屋上で空を見上げていた。

「行っちゃった……」

不思議な少年だった。今までの学校生活の思い出の中に、すっかり居座ってしまった屋上の出会い。

彼に出会ってから、あの長かった雨の日も入れて五日間。


私は、キャンバスをそっと持った。

小さな空。――浮かんだ雲は流れない。

時間のない、一つの世界。

私は屋上を後にした。


卒業式の日。

私は珍しく高熱を出して、学校を休んだ。

どちらにしろあの日が、少年に会える最後の日だったということだ。

ほんの偶然だけど、何だかちょっと不思議な気分。


すっかりと体調が落ち着いた、翌週の月曜日。

私は朝一番に職員室に行った。

「先生、お約束のもの」

「――おお、決まったか」

青木先生は、プリントを受け取ると、うんうんとうなずいた。

「櫻井の絵は、先生も好きだぞ」

「うれしいお世辞です」

「おいおい」

「それでは、失礼します」

ぺこっと頭を下げて、私は職員室を出た。

――だから、そのあと職員室で交わされた会話は知らない。

「櫻井、最近変わりましたね」

「ますます変になったでしょう?」

「いえ、そうじゃなくて」

「冗談ですよ。眸(め)が変わったんでしょう?」

「ええ、なかなかいませんよ。あんな、いい眸をした生徒は」



その日の放課後。

私は美術倉庫へ、キャンバスを取りにいった。

何重にも重ねて塗った油絵の具は、まだ乾ききっていない。手に油絵の具がつかないように、慎重に運び出す。

「あれ、美希。――もう大丈夫なんだ。ひどい高熱だって聞いてたけど。なーんだ、心配して損した」

好き勝手に言いながら、由衣ちゃんが駆け寄って来た。

「いちおう、心配してくれたんだ?」

「当たり前だろ、全く」

少し怒ったような顔で由衣ちゃんは言った。

――本当に心配かけたんだな。

「新しい絵、描いたんだ?」

しばらく黙って私のキャンバスを見ていた由衣ちゃんは、急に何か思い出したように、倉庫の中へ入って行く。

「何、どうしたの?」

私も気になって、入って行く。

「間宮先輩に聞いたんだ。あの三年の男子のこと」

驚く私に、由衣ちゃんは話を続ける。

「空が好きな、って言っただけで返事が返ってきたよ。よっぽど変わり者だな、その少年は」

由衣ちゃんの言葉に、私はある予感がした。

「間宮先輩が知ってるってことは、美術部にも関係あるの?」

「んー、あると言えばあるし、無いと言えば無い」

倉庫の奥で、何かを探している。

「体験入部かなんかで、一度だけ絵を描いたんだって。それがけっこういい絵でね、知ってるって市展に入選したらしい」

予感が確信に変わる。

私は、由衣ちゃんの横にしゃがんで一緒に探した。

「絵そのものには興味がないらしくって、入部はしなかったんだけどさ。素質あるのにって間宮先輩が悔しがってた」

――あった。

「由衣ちゃん、これ」

私は『あの絵』を手にして言った。

「ああ、これだこれ。――どうして分かったのさ?」

私は答えずに、そのキャンバスを見た。

『こんなふうに、見てるんだな』と言った少年を思い出す。

今なら、わかる。

あの少年なら、きっとこんな空を見ている。


「あ、題名が書いてあるよ。『空への扉』だって」

――なーんだ、そういうことか……。

『それなら屋上は空への扉かな』という少年の言葉。屋上から見える校舎が、絵と同じように見えたこと。

あの少年なら、きっとこんな空を、学校を見てる。

屋上で大好きなものたちを描く姿が、目に浮かぶようだ。

「名前も書いてあるけど、見る?」

私は笑いながら首を振った。

「ううん、『少年』は『少年』のままでいいよ」

――いまさら、名前なんて知っても、きっとピンとこない。

私が出会ったのは『少年』であって、他の誰でもないのだから……。

「変なのー。あんなに知りたがってたクセに」

由衣ちゃんは口をとがらせた。

「いいの、変でも。それが私なんだから」

そう言い返しながら、私は倉庫の外へ出た。

今日は快晴。青空が広がっている。


――空を見ると思い出す。

少年の笑顔。屋上で過ごした五日間。

空色の学校生活を。


《END》







※こちらは過去の作品に一部加筆修正したものです。

Cobalt短編賞応募作

同人誌『ぷらむ No.38』掲載作品

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