第6話 カレンのsos
「ダビデ……救けて」
当直からの勤務明けで帰ろうとしていたジェイミーは、自分宛てだという電話に出た。
「君、カレン? どうした? 今、どこにいる?」
「ごめんなさい。――署の前です……」
「すぐ行く」
署を出たところで、長い髪で顔を隠すようにうつむいて立っている女性がカレンだと、ジェイミーにはすぐにわかった。
「カレン?」
声を掛けると、カレンは顔を上げた。だいぶ泣いたらしい。
「何があった? とりあえず、中で話そう」
「ううん。違うの。事件じゃないから、署には入りたくない――私が、私がおかしいの。私がどうかしてるのよ」
「カレン……」崩れそうになるカレンを支えながら、ジェイミーは「今、車、回してくるから、送ろうか? あ、いや、車に乗るの嫌だったら、近くのファミレスでも行って話を聞こうか?」ジェイミーの言葉にカレンは首を振りながら、
「ダビデなら大丈夫。ごめんなさい、迷惑かけて。車でも、ファミレスでも、ダビデの都合のいい方でいいから、ごめんなさい。話がしたいわ……」
ジェイミーは守衛のいる正面玄関を振り返りながら、
「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」と言って、署に戻った。
「今日、不動産屋さんに予約を取ってて――退院してから、あの部屋に戻ったけど、とてもいられなくて、必要な物だけ運び出すのが精一杯で――今は、ビジネスホテルに泊まってるの」
公園の前に停めた、ジェイミーの車の中で、話をしていた。
声を詰まらせたカレンにジェイミーは自動販売機で買った飲み物を差し出した。
ここ数日はわりと涼しかった。そうは言っても、寒いほどではなかったが、何だかカレンが凍えているように思えた。
「あったかいココアと、あったかいオレンジジュース、どっちがいい?」
「え?」カレンが聞き返していた。
「ココアを買おうと思って、押したら、オレンジジュースが出てきたんだよ。俺が間違ったのかと思って取ったら、熱かったんだよ。もう一度ココアを買ったら、今度はココアが出てきたんだよ。正しいことに、熱かったんだよ。ココアを買おうとしたら、あったかいオレンジジュースが出てくる確率って、どのくらい?」
カレンは、少し戸惑ったような顔をしていたが、暖かいオレンジジュースを受け取ると、腫れた目で、少し笑って見せた。
「計算はできないですね。私、経済大学の学生なんですけど」
「ちゃんと、行ってる?」ジェイミーはあまり授業に出ていなかった自分の学生時代を思い出して、聞いていた。
「いえ――退院してから……まだ、一度も――。」
そう話すカレンを見て、ジェイミーは本当にこれで良かったのかと考えていた。
カレンを助けることができなかった。せめて、救いたいと思っていた。
カレンが事件のことは忘れて、もとの生活に戻りたいと言うのならば、それを尊重しようと思った。検察も本人の告訴がないのであれば、戦えないと立件しなかった。
「顔の痣がわからなくなったから、新しいアパートを探そうと思って、今日、不動産屋に行ったんですけど、物件を案内してくれるっていう担当の男の人が、かわいいね、とか、どこの大学? とか聞いてきて、不安になって……その人と二人で車に乗ることが出来なくて、逃げ出してきたんです。きっと、その人に悪気なんてなかったのに……私、きっとおかしいんです」カレンはまた泣き出した。
ジェイミーはカレンの頭をポンポンと軽く撫でた。
レイプ被害者の彼女に、どう接していいのか分からないと思っていた。
普通の女の子だと思おう。カレンがそう望んだのだから。
「いや、君はおかしくないさ。なんか嫌だって思ったら、その直感に従うって、大事。俺の先輩が言うには、それは大体合ってるって。不動産業者は替えて、今度は、女性の担当を頼めばいい。そんなに悩まないで。新しい、アパートを決めて、新しい気持ちで、大学に通えたら、きっと、また楽しい毎日が待ってるよ――経済学が楽しいとは、俺には思えないけど」
ジェイミーの言葉に、カレンは軽く笑いながら、うつむいた。ジェイミーの手の温度が、髪に伝わるのが感じられた。カレンは耳まで赤くなっているのを隠すために、顔を覆った。
ジェイミーにはわかっている。好意を持たれることには慣れている。でも、手を触れるのに、こんなに躊躇する女性は初めてだった。
同時に、「今、俺、カノジョいるから」と壁を作ることもできなかった。
傷ついた女性ー守ってやれなかった女性――
「明日――」ジェイミーは思わず口にしていた。
「俺、非番なんだ。明日でよければ、不動産めぐり付き合えるけど?」
「ただいま」
「あら、ジェミー、惜しい! 今、シンシア帰ったところなのよ。夕飯作って行ってくれたわよ。夕方仕事が入ってるんですって」
「おお、いい匂い」
「ホント、いい子。今日も、ミッチェルをセンターに連れて行ってくれたの」
「ママが腰痛めてからの方が、ミシェ、リハビリ、行けてんじゃね?」
「ママだって、頑張ってた! だけど、ミッチェルが、なんだかんだで、行かないってゴネるから」
「わかってるよ。あまんり手伝えなくてごめん……」
それでも、二人とも嬉しそうに顔を見合わせて笑った。
「ミシェとシンシア、随分、仲良くなったみたいだね」
「ホント。ミッチェルが家族以外に、こんなに心を開くの、珍しいわ」
「うん――」ミッチェルの車椅子を押すシンシアを思い出して、ジェイミーはうっとりしていた。
「彼女は、ホントに、それが自然にできる人なんだ――」
「――早いけど、食べる? シンシアが作って行ってくれたバッファローウィング」
「うん。ビールも飲む。そして寝る」
――疲れた……
ジェイミーはそう思っていた。
疲れたことなんて、今までの人生であっただろうか……
ヘトヘトにはなっても、疲れたことはなかったと思えた。
こんなに自分に自信がないことなんて、なかったんだ。
カレンとは不動産屋の近くで待ち合わせた。
紫色のワンピースに薄いカーディガンを羽織っている。首元から胸、袖はふんわりしたシルエットで、胸の下からシャーリングが寄って、キュット締まったデザインは、ウェストの細さが目立って、スタイルの良さを意識せずにいられない。
陽の光に溶けるような金の髪が、陽に当たったことのないような白い肌をくすぐるように柔らかなウェーブをつくり、細くアイラインを入れた大きな目が、ジェイミーを見つけるとビー玉が宝石に変化するように輝いた。。
ジェイミーは初めて、泣いていないカレンを見た気がした。
(凄く、綺麗な子なんだ)
今更ながら、驚いた。
カレンは同じ時、駐車場に車を止めて、自分の方に歩いてくるジェイミーを心臓が止まるような気持ちで見ていた。
(ダビデ……)
履き古した色のジーンズに、白いTシャツ、無造作に羽織ったコットンのジャケットの肩が窮屈そうに筋肉の逞しさを現わしていた。
別にお洒落をしているわけではないのに、どうしようもなく素敵だった。
「担当させていただきます、ジェリー・マリオラです。お電話でお伺いしたご希望に沿って、何点か物件をピックアップしておきました。今、車の準備をしてきますので、どうぞご覧になっててください。気になった物件にご案内します。」
カレンは、今日は、男性の担当に頼めば良かったとすら思った。
ジェリーは、終始、「ダビデ」をチラチラ見ていた。
あまり興味なさそうに、広げられた数点の間取り図を眺めているジェイミーを見ながら、カレンはそんなことを考えていた。
間取り図を見ずに、自分の顔ばかり見ているカレンに気が付いてジェイミーは、
「君も、書類見るの苦手なの?」と聞いた。
「え? ああ、いえ。ごめんなさい」カレンは慌てて間取り図を見始めた。
ジェリーが戻ってくると
「なるべくセキュリティのしっかりしたところをお願いします」とジェイミーが言った。
「はい。ございます。――あのー、お一人住まいの物件とお伺いしてたんですが、お二人になる予定がありますか? であれば、広めのところをピックアップしなおしますが……」ジェリーが探るようにジェイミーの顔を見た。
「一人用で大丈夫です。彼女はまだ学生ですから」何故かジェイミーが答えていた。
「あの、差し出がましいようですが、彼氏さん? はガッシリしてらっしゃるので、例えば大きなベッドを置くようであれば、ちょっと狭くなる物件は省きますけど……」
「――いや、心配いりません」ジェイミーは面倒なことになったなと思いながら、
「泊まるなら俺の部屋なんで」とこの話を終わらせた。
「あら、では、ご希望の大学近くの物件からご案内しますね。お車へどうぞ」
「あ、自分の車で来てるので、後ろからついていきます」
「と言うわけで、今日、恋人設定になってしまった。ごめん」ジェイミーが車に乗り込んでからカレンに断った。性的な方向の話は避けたかったのに、大丈夫かなと心配だった。
「ダビデが、恋人ですか……」カレンは、うつむいたまま呟いた。頬が熱かった。
「大丈夫?」
「はい。あの、迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑ではないけど、ただ――」
言いづらそうなジェイミーの様子に、カレンは顔を上げた。顔が赤かった。
「人前で、ダビデはやめてよ」
「え?」
「流石に、恥ずかしい」
「んん?」カレンはちょっと意外で笑いかけた。
「ダビデって、言われる度に、裸にされたような気分になるよ」
「そんな! 私の同級生にもいますよ、ダビデ」
「俺は嫌だ。俺の名前、ジェイミーっていうんだけど」
「――ジェイミーは、あの日の刑事さんの名前です。私には、あなたは、ダビデなんです」
そういう言い方をされると、もう押せない。ジェイミーは少し考えて
「じゃあ、『ダー』で」
「ダー?」
「ほら、恋人同士って、変な愛称で呼び合うじゃない。俺はカレンって呼ぶから、君はダーで返すこと」
「えー! なんか、恥ずかしい」
「こっちこそだよ」
「練習しないと無理そう」
「じゃあ、今しよう」
「えー……」
「ほら早く、着いちゃうから」
「ダ……ダー?」
お互い見合って、噴き出した。
「ちょっと、今のは――」赤くなって笑っているカレンに、『可愛い』と言いかけて、
「卑怯だな……」とジェイミーは言い換えた。
「こちらの物件は、立地の割に、お家賃抑え目で、おすすめですよ。間取りも2DKですし、お一人なら広すぎるくらい。ご希望通り、キッチンが広めで、オーブン付きの物件です」
「希望なの?」ジェイミーが聞くと「私、お料理、好きなんです」とカレンはキッチンの中を嬉しそうに見て回った。
ジュリーは(この二人、どういう関係なのかしら。恋人にしては、お互いのことを知らないみたいだし、カノジョさんは学生だって言ってたけど、彼氏はフェロモン出過ぎなセクシー男だし)
ベニシア大の学生だという、アラン・マクラーレン(絶対、偽名だろ)の技術者の倫理についてのレポートを《全作成》して、送信し終わったところで、マグカップの【ココア】をほんの少し含んだ。
僕が小さい頃から、これを我が家では【ココア】と呼んでいる。無理やりチョコレート風味を付けた、咽の粘膜を保護する薬だ。咀嚼することのない僕は、唾液が少ない。これで、喉の粘膜を保護しなければ、すぐに風邪をひく。
でも、実は、この【ココア】を飲む行為は、結構気に入っている。
机の端にコーヒーを置いて仕事をする人に憧れて、小さい頃から【ココア】はマグカップに入れてもらっていた。ほんの少しなのに。マグカップから物を飲む仕草だけで、大人になった気がしていた。大人のマネをして喜んでいる子供だった。今でも同じかもしれない。
大人になれば、何でもできると思っていた。
今は、子供だから、できないのだと……
僕は、ずっと、大人になれずにいる。
それにしても、ジェイミーが出掛けたきり帰ってこない。てっきりシンシアのところに行ったと思っていたのに、シンシアはさっき来て、洗濯を始めた。
ジェイミー、非番じゃなかったっけ?
忙しいのかな……ジョシュの事件があるから……
僕は、アプリを起動した。
「こちらの物件は、もともとが学生さん向けなので、間取りは小さいんですが」
どこかの玄関を入りながら、周りを見ている。目の前でスーツを着た女性がドアを開けて案内していた。
「本来は、キッチンは簡易キッチンなんですけど、前に住んでた住人が――五十代の女性なんですけどね――ここの眺望を気に入っていて、一生ここで暮らそうって決めて、キッチンは自費で改造したんです」
「うわぁ、すごい。コンロが四つ口! え? ガスオーブンですか? 凄ーい。パンを焼く人だったのかなぁ」
「さあ、画家さんだったって聞いてます」
そんな女性二人の会話を聞きながら、ジェイミーは窓から外を見ていた。
なんだろう、これ。
潜入捜査?
「あの、どうして、そんなに改造した部屋なのに、今、住んでないんですか?」ジェイミーが部屋の中を振り返って聞いた。
さっきのスーツの女性の隣に、若くて綺麗な女の子が立って、こっちを見ていた。
「事故物件ってことは……」綺麗な女の子が心配そうにスーツの女に聞いていた。
「モーガンさん、実は、その方は――」もったいぶって、スーツの女が女の子に言った。
「恋に落ちたんです」
女の子の顔が、ぱっと明るくなった。すごくかわいかった。
でも、何してんだジェイミー?
ジェイミーはバルコニーへ出て行った。
「あ、ダ……ねぇ、セキュリティの説明なんだって……」
「ああ」ジェイミーは部屋の方へ戻っていった。
女の子に物凄く近づくと
「いま、呼ぶの避けたろ」と彼女の耳元で囁いた。
女の子は噴き出して、「だって……」とだけ答えた。
――なんだ。これ?
そう思った瞬間「ミッチェル?」とドアの外で呼ぶ声がして、僕は慌ててアプリを閉じた。
「シンシア? どうぞ」
「あれ、起きてたんだ」
「うん、ちょっと……仕事」
「えー! ミッチェルってどんな仕事してるの?」
「別に、大したことないよ。福祉プログラムがよこす「何か」の伝票の入力作業とか、「何か」の口述筆記とか」
「それ、儲かるの?」
「――んー、三回もやれば、ランチくらいは食べられるかも。もっとも、僕は食べないけど」
「えー、薄給じゃない?」
「そんなもんだろ。さほど当たり障りのない、さほど個人情報を含まない、さほど正確さを要求されない……でなきゃ、社会に出て働けない人間に、仕事をさせたりできないよ。これで生計を賄えるなんてプログラムの方でも考えていないさ。福祉給付が出てるんだから。ただ、さぁ、生きがいになるでしょ? 的なもんだろ。この仕事は」
「そんな。ミッチェルは飛び級で進級して、三つも大学を卒業してるエリートなのに?」
「ま……僕はね」ちょっと含みを持って答えた。
「ああ……」シンシアがしたり顔で僕の顔を覗き込んだ。
「悪いことしてるでしょ、ミッチェル」
「法には触れてないよ」誰にも言ったことがなかったのに、つい、答えてしまった。
「何? どんな?」
「教えない」
「あ、それ、許されないのよ。女子トークでは」
「女子じゃねーつの」
「秘密は共有しあうの」シンシアが僕の心を覗き込むような目で見ている。
絶対ダメ。僕には君に絶対言えない秘密がある。
「――僕が出た大学の後輩が……(最近では、もう少し手広く広げてるけど)レポートとか、卒論とかで悩んでるから、ちょっと手伝ったり、ちょっとアドバイスしたりして」
「ちょっと、全部替わりに書いたり?」
やっぱり聡明だね。君は。
「まぁ……僕が書くとしたらこんな感じっていうのを提示するだけで、使ってくれても構わないけどってスタンスで」
「どのくらい貰うの?」
「それだけ出しても、これをパスしたいんだという熱意に見合う程度の金額」
「悪い~」と僕の顔を覗き込んでくるシンシアに、思わず、肯定するような目で返してしまった。まずい。女子トークの術中にハマっている……
「みんなに言わないでよ。内緒なんだ。君しか知らないから――口止めに、今度、なんかプレゼントするから」
「ホント? やったぁ。お買い物に行こう! いつにする?」
ジェイミー、一体何してるんだよ。シンシア、君に放っておかれすぎて、僕との買い物ごときで、こんなに喜んでるよ。おかしいだろ?
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