【伊藤博文】いや、早すぎないですか?

 フランスに条件付きで通商条約の承諾をしてから数日後。フランスから返事が来た。「ぜひ、それでお願いしたい」と。



 そして、驚くことに、返事の手紙を持ってきたのは、人質である貴族の娘だった。てっきり、双方で合意してから人質が来ると思っていた伊藤博文は慌てふためいた。



「しかし、分かりません。なぜ、フランス政府はあなたを送り込んだのでしょうか? 私ならもっと話を詰めて、裏切られないという確信を得てから、人質を送ります」



 伊藤博文はそれだけが疑問だった。自分の考えは間違っていないはずだ。



「そうでしょうか? 大日本帝国はすでに裏切ることはない、と示してくださったじゃないですか」



 もちろん、伊藤博文にはそんな記憶はない。首を傾げた伊藤博文を見たであろう貴族の娘が付け加える。



「ああ、言葉足らずでしたね。私が言っているのは、前回、フランスが同盟を申し込んだ時のことです。あの時、あなた方はイギリスと同盟を結んでいました。フランス側に寝返っても、政策上は問題ないでしょう。生き残るためですから」



 伊藤博文はうっすらとした記憶を辿る。なるほど、言われてみたらそういう対応をした気がする。



「そう、大日本帝国は裏切らないということをすでに行動で示しているのです。これ以上、何を求める必要がありましょうか」



 伊藤博文はそう言われて、少し嬉しくなった。



 そうだ、人質といえども貴族の娘だ。客人をもてなすのは当たり前だ。伊藤博文は側近に蓄音機を持って来させると、流行りの音楽を流す。「あなた方の音楽、素敵ですわ」と言われて、伊藤博文は気恥ずかしくなった。



「そうでした! 私はなんてうっかり者なんでしょう! 政府から預かってきた通商条約の叩き台をお見せするのを忘れていました」



 伊藤博文は思った。フランスからは絶大な信頼をおかれている。それを裏切るようなことはあってはならない。それは自身の義理として当たり前だった。たとえ、イギリスと全面戦争になろうとも、必ずフランスとの約束は守ることを心の中で誓った。

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