第6話 VS〝希望〟の大賢者 (序)
来た道をひたすらに走り戻る。
「逃げてくれるのかい、リリー!?」
「一目見てヤバいやつだと理解した。ありゃ交渉は通じなさそうだねえ」
角を曲がり、隣の棟に移ってから階段を駆け下りようとしたが——。
「炎の海、だと!?」
足元すぐ傍が一面溶岩の海と化していた。活発な火口のように湧き出し吹きあがり、しきりに波打っている。地上階に降りられないならば出口が無い。
「なんだ、なんだってんだコイツは!! 俺は頭がおかしくなっちまったのか!?」
——もう術中か……!
溶岩の一滴が男の腕に飛び散った。男はどろりと溶けた腕の皮を睨みながら、悶絶する余り手すりに寄りかかってしまう。
「あ、ああっ——ああ!!? この手すり、溶ける、溶けるっ!! うわあああ!!」
男は絶叫しつつ自ら手すりに足をかけて溶岩へと飛び降りようとした。何が起こっているかを理解する暇もなく、もう一人の男が慌てて彼を引き戻す。
男は頭を抱えながらしきりに目を動かして震え始めた。
「あ……あれ? その手すり、さっきは溶けて曲がって……なんだあ? 俺、頭が……」
リリーが名前を呼んで肩を強く揺らしているが、彼が正気を取り戻す様子はない。
新たな熱源に振り返れば、来た道の方から炎が泳ぎ来ている——くまなく通路を埋め尽くして。額に溢れ出る汗は心理的なものではなく、肌を火傷させんばかりに熱された空気によるものだ。
きっと、太陽の表面はこんな景色なのだろう。
——こ……これはもう……。
「王子、杖をお借りしても?」
落ち着きのある声に振り返れば、囚人だった男が床に魔法陣を描いていた。隠し持っていたのか黄色いチョークを使って。とはいえチョークはもう指先ほどしか残っていない。
「——!! あ、ああ! これを!」
「では——三位の精霊よ。暗波に兆す灯台よ、切っ先よ、黄昏を語る琥珀よ。金糸で縫われた秋の葉は雪下で脈を打ち続ける」
床から浮かび上がった魔法陣を杖に絡めつつ壁へと向ける。
「この魔法の名前は——〝
鼓膜を震わす轟音。爆発は見事に横穴を開けた。びゅうと風が吹き込む。
「飛び降りましょう」
「飛びっ……!」
「小僧、迷ってる暇はないぞ! 姉さんも! そいつはもう駄目だ!」
五メートル先にあるはずの地面は夜闇と同化してまったく見えない。
「っ……うわあああっ……!!!」
人を焼き殺す熱を背中に受けながら、絶望だか勇気だかもう訳の分からないごちゃまぜの心理状況で、ともかく僕は飛び出した。脳裏に死がよぎるくらいの浮遊感。文字通りに宙に放り出され不安が心を埋め尽くす、だなんて暇はなくすぐに足の裏から激痛がビリビリと響いた。もう緊張だとかなんだとかそういう次元ではない。
「っ……」
僕の傍にいる人間は三人だけ。出てきた穴を振り返ったら、まるで何かで挟んで押し出したかのように、横穴から熔岩がドッと溢れ出してきた。同時に真っ黒の人型もぼとりと一つ落ちてくる。
「足を止めている暇はありませんよゼネリオ様。ほら、お前たちも」
リリーは沈痛な面持ちで、溢れ続ける溶岩に飲まれた人型の辺りを睨んでいた。
「ああ、分かってる」
細身の男は遥かそびえたつ外壁に直接魔法陣を描き、先ほどと同様の手順で爆破して穴を空けた。しかしこれでチョークは尽きてしまったようだ。
「ゼネリオ様、何か魔法陣を描けるものをお持ちでしたらお借りしたく。あいにく私は黄色の魔法しか使えないのですが」
「す、すまない。僕は媒介無しで魔法陣を描けるから、何も持ち歩いてなくて……」
「それは……なんと」
通りに出て四人それぞれの無事を確認し、リリーが何か指示を出そうとしたとき、僕らの周りの地面がガラガラと音を立てて奈落へと崩れ落ちていった。
——まだ……なのか。
もう非現実に頭が慣れきってしまっていた。底の見えない暗闇。空気の吸い込まれていく虚空。穴の外縁は跳ねて届く距離にない。
「私って夜型と呼ばれるけれど、そもそも魔法使いに、昼も夜も無いと思うのよ」
白熱の明かりが浮かび上がる。
「だって私たちは太陽だって生み出すことができるんだから」
通りの向こうに立つ、寝間着姿にカーディガンを羽織った女性。僕は彼女を知っている。
燃えるように赤みがかった黒髪。起きてるんだか寝てるんだか分からない垂れた糸目。翡翠が埋め込まれた銀の首飾り。両手を揃えて頬に当てる彼女こそが。
「自己紹介してもいいかしら? 私、この自己紹介が好きでね? だってだって、せっかく憧れの大賢者になったばかりなんだからね? 浮かれているのよ。許してくださいね?」
四十歳にして大賢者となった——世界最高峰の八人が一角。実体のある幻覚を思いのままに操り、首都の防衛を確固たるものにする、王宮最強戦力。
この都市を落とそうと思うならば、彼女を倒さなければならないのだ。
「八冠の大賢者が一縷、〝希望〟のパゼス・イェナ・フォン・サーカミー。もっぱらミドルネームのイェナを名乗っているわ。覚えておいてね?」
両手を揃えて礼をしたイェナにリリーはすかさず発砲した。一発の弾丸が頭部を貫通する——いや——すり抜ける。
「なっ——銃が効かない!?」
「先生本人は王宮にいる! アレは幻覚なんだ!」
「は!? ここは街外れだけど!? 王宮からどんだけ離れてると——」
「あらら? 見知った声が聞こえたわね?」
僕は突然にリリーの左腕に捕まえられた。前に抱かれる形で首を絞められる。いざそうなったら演技するつもりではいたのだが、しかし咄嗟のことで、僕は本気でリリーの腕から逃れようとしてしまった。けれど逃れられない。息もままならず、頭に銃を突きつけられる。
「アンタ、この少年の叔母なんだってね。コイツは人質だ。殺されたくなければ見逃してもらおうか」
リリーの声色は一切の迷いも見せない強硬なものだった。しかし頭に突きつけられた銃口はごくごく僅かに震えている気がした。
「そこにいるのはゼネリオちゃんじゃあない。どうしてこんなところに?」
流石に驚いたのだろう、普段見えないイェナ先生の瞳が覗いている。僕は遂に演技をしなければならないことを思い出して、わざとらしく弱弱しい声を上げた。
「たっ、助けっ、先生……!」
「ハハハ、ほらどうよ、殺されてはたまらないっしょ。大事な肉親なんだもんなあ!」
「えっどうかしら。ドレシアちゃんにとっては——ウルフちゃんの方が大事だものね? 国にとっては——ガーレちゃんがいるものね? 魔法使いとしてはどうかしら——ああ! 有望ね。そうね、有望だものね? 私が指導した人間たちの中で最も有望かもしれないわね? 言われてみればそうじゃあない」
イェナ先生がニコリと笑ったかと思うと、僕は途端にリリーの腕から解放された。
「え?」
間の抜けた声に振り返れば、リリーはきょとんとした顔で、自分の頭に銃口を向けている。指は引き金に。
「な……なんで、あんた……」
声を震わせる。僕が何も間に合わないままに。
「ゼン、た、頼むよ、ベルガーリャのこっ——」
銃声。発砲の慣性に従いリリーの右腕は大きく弾かれ、身体に遅れてあらぬ方向へと倒れていった。
地面に横たわる彼女の、側頭部の銃痕から血が流れ出ている様を僕は見下ろした。恐る恐る傷痕に手を伸ばす。
「あっ。せっかくなら生け捕りにすればよかったのに。私ったらまったくせっかちね」
背後からイェナ先生が歩み寄ってくる。背中からゆっくりふんわり抱き着かれた。
「安心してゼネリオちゃん。これでもう大丈夫」
右手に付いた液体はぺちゃりとぬるく、そして、どうしようもなく赤かった。
血はとくとくとあふれ続けていた。開きっぱなしの目はどこにも向いていない。
「あれ? 他にも何人かいなかったかしら。ぼーっとしてたわね……逃げられてしまったみたい。私ったらまったくまったく、抜けているんだから」
僕らを孤立させていた穴はいつの間にか塞がっていた。きっとイェナ先生が僕に近寄る際に、幻覚魔法を解除してしまったのだ。いや、そもそも、今僕に抱き着いている、温もりを持った柔らかい彼女すらも、元より幻覚ではあるのだが。
「まさかこんな時間に王宮を抜け出したの? まったく、これがバレちゃあきっと二度と抜け出せない程に警備が厳重になるでしょうね。黙っておいてあげる。でもでも、でもでも! 貸し一つ、ね? 覚えておいてね? あなたがもっと偉くなった暁に、返してもらうからね。うふふ、ドレシアちゃんの子どもに貸しを作れるなんて、あの子ったら。ふふ、いつもいつも私のことを馬鹿にして、あの子だってこんなに子供のことを見てないじゃあない。そうよね? ね? あの子が失脚する日も近いわよね。あっそれだとあなたが偉くなれないかもね?」
ウキウキと楽し気なイェナ先生に、僕は何も返すことが出来なかった。
人間が肉片に変わりゆくさまに、僕の膝に沁みこんでいく赤い血に、ただただ意識が飲み込まれていた。
~~革命まであと38日〜~
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