第3話 アジサイは雨に咲く

 今日も今日とて王族に産まれた数多ある不幸のうち最も大きいものの一つであるところ、高貴なる者に課される英才教育——帝王学というやつから抜け出そうとしていたのだが、面倒なのに捕まってしまった。


「こらゼネリオ兄様! 逃しませんよ!」


 僕の前で通せんぼしているのは弟のガーレイドである。桃色の髪に水色の瞳という、女児の落書きみたいなパステルカラーを持つ男だ。対する僕はムラの無い黒髪。言うまでもなく母親が違う。弟と言っても産まれは二か月しか違わないので、基本的には同い年だ。


「やあ、僕の可愛いガーレイド」

「きゃっ、かかかかか、可愛い!?」


 ガーレイドは頬を真っ赤にしてくねくねと揺れ始めた。さながら昆布。


「じゃあ失礼するよ」


 しれっとガーレイドの脇を抜けようとしたが、しかし裾を掴まれ離脱は叶わなかった。かなり強く引っ張られているのが服越しでも分かる。

 こちらが額に汗を浮かばせているというのに、ガーレイドの方は飄々とにこやかだ。


「お兄様? ガーレはお父様からゼネリオ兄様のことを頼まれてるんです。最近のサボりようは酷いのだと聞いています。たまには真面目に講義を受けましょうね」


 胸元から杖を取り出したが、唱える前にガーレイドに取られてしまった。

 こうなってはなすすべがない。





**





 翌日は雨が降っていた。どんよりとした雲が敷き詰める灰色の空。


「雨か……」


 ガーレイドを撒いて抜け出すことには成功した。しかし僕は今、柱廊の縁で右手を伸ばして雨水を受けていた。


「ちょっと汚れたくらいの方が馴染むかな」

「こちらが必要ですか?」


 僕に声をかけた人物は右手に傘を持っている。

 すとんと落ちた控え目なドレスを纏った、幸薄な雰囲気の女性。桃色の髪に水色の瞳。


「これはこれは、クレース義母さん。雨に咲き誇るアジサイかと勘違いしました。お久しぶりです」


 丁寧に礼をする。


「相変わらず紳士的ね、ゼネリオくん」

「ガーレイドの教室はあちらですよ。顔を見ていくならば——」

「この傘は要らないのですか?」


「たまには濡れて抒情的な気分に浸るのも良いかなと思いまして。それに、僕にその傘を貸してしまっては、クレース義母さんが帰りに差す傘が無くなるでしょう」


 クレースさんは質素な色の傘を胸の前に持ち上げた。


「いいえ、私だってあなたのお母さんなんだから、たまにはそれらしいことをさせてください。こんな機会滅多にないんです。傘なんていくらでも借りられます」


 押し付けるように渡される。受け取らざるを得なかった。


「しょうがないですね、分かりました。傘はちゃんとガーレイドの従者から借りてくださいよ」


 クレースさんは腕をまくるような仕草を見せた。フフンと鼻を鳴らす。


「私だって王妃なんだから、心配いりませんよ! たとえ傘に穴が開いていたって、その場で皮をあてがって直してしまいましょう!」

「いやそれこそ王妃らしからぬ……いえ、失礼、そうですね」

「お言葉ですけれど、私、強かな女ですから」

「はい、見くびっていました」


 最後に優しく頭を撫でられた。


「ありがとうございます。どうか私の分もガーレイドのことをお願いしますね」





**





 ベルが唇の上に鉛筆を乗せて揺らしている。雨の気配はしとしとと。


「どうして傘を借りちゃダメなの? 王妃様なんだから誰からだって借りられるんじゃ?」


 組んだ膝に本を乗せたまま答える。


「クレース義母さんは元はメイドでね。本来王妃になんてなれる人じゃあないんだ」

「メイドさんが王妃様になってもいいってこの小説には書いてありますけど」


「それ自体はダメじゃないよ。長く仕えている由緒正しき家系の人間であるならば。クレースさんに関して言えば、彼女は平民出身なんだ。もし使用人として雇われたって本来は王宮中枢で働くことはできないはずだったんだけど……僕の叔母さんが傍付きに取り立てたことでお父様にも見える立場になったという経緯から……ともかくイレギュラーな存在でね」


「うわ、なんかなんとなく想像ついたわ」


「そう、イジめられているんだよね、第一王妃の派閥に。これは王宮の人間ほとんど全員を指しているよ。もし彼らに傘を借りようなんてものなら、きっと穴だらけのボロ傘か、あるいは糞尿塗れのものを渡されることになるだろう」


 ベルは眉をひそめた。声色にも不快を乗せて。


「王様の責任じゃん守ってあげりゃあいいのに」


「ただでさえ分不相応な従者に手を出した負い目があるからね。しかも僕とガーレイドの産まれは二か月しか変わらない……お母様は相当根に持っている。お父様はクレース義母さんに郊外の豪邸と不自由のない生活を用意した。ここまでが精いっぱいだったんだ。これ以上厚く扱っては方々(ほうぼう)に示しが立たない」


「でもクレースさんの息子さんは王宮にいるんだよね? 離れ離れじゃん可哀想に。……これ可哀想なことだよね?」


「うん、可哀想なことだ。とはいえもちろんクレース義母さんは、用事があったり自分からガーレイドに会いに来たりで王宮に訪れることが頻繁にある。でも、きっとそのたびに冷ややかな目を向けられるし、もしかしたら心苦しい目に遭っているのかもしれないね」


 実際のところ、僕は僕の誕生日パーティーでほとんどの人間に無視されているクレース義母さんを見た。出席しなくては不義理だとか礼節がなっていないだとか囁かれるというのに、いざ来たら腫物扱いである。大人にとってはそういうものなのかもしれないが、経緯を知らない子供の僕にとってはいささか理解しがたい光景だった。

 けれどクレース義母さんは僕と話すときはいつも気丈に振る舞っていた。本人も言っていたが、強かな人なのだ。


「そう……か。いつか、弟さんと幸せになれるといいね、その人」


「そうだね。ガーレイドは勤勉だから、きっと大臣だとか国王の補佐だとか、下手したら国王だとか。いずれにせよ権力のある役職に就ける。そうなってようやく、あの親子は真の幸せを享受できるんだろうと思うよ」





**





 クレースさんが自殺したのは、「売女」の風評が広まりきったころのことだった。


 葬式は王宮で執り行われたが、しかしそれは一貴族のそれよりもささやかなもので、更に僕のお母様は弔報しか寄こさなかった。お母様が出席できない理由は分かる。クレースさんはなんだかんだ人柄がよかったから、少しずつ味方を増やしていっていた。それでも全体の一割に満たないが——彼らは現在、第一王妃のせいで第二王妃が死んだのだと強い態度で訴えているのだ。直接足を運ぼうものならば非難囂々だっただろう。


 王宮は明確に、二派閥に分かれていた。





 献花の列に並ぶ。今の最前列はお父様。

 棺にカーネーションを添えたお父様は、振り返ったそこに立っているガーレイドを前にして——。


 ——凄い表情をするね、お父様。


 慄いた。


 間違いなく、彼は慄いた。僕にはそのときのガーレイドの表情は見えなかったが、しかし最初から、お父様に恐怖を与えるに相応の雰囲気を——今にも空をひっくり返さんばかりの、ベタつくタールのような暗雲を——ガーレイドは纏っていた。


 お父様は、ガーレイドと目線を合わせて「後で話そう」とだけ言い残し、足早に会場から出て行った。





 花を添え、俯いたガーレイドに声をかける。


「ガーレイド。僕はこれまでもこれからも、いつまでだって君の味方だ」


 振り絞った労いの言葉だった。これ以上にかける言葉を僕は知らなかった。

 ガーレイドはゆっくりと顔を上げた。憔悴の気配があった。自嘲の笑いをこぼしながら。


「ガーレは……ガーレは、母さんの味方をできませんでした。ひたすら頑張っていれば報われると、勘違いしていました。違うんですね。そんなのは幻想でした」


 次第に嗚咽が混じってくる。


「ガーレが弱いから。ガーレが弱いから何もできなかったんです。ガーレにもっと力があれば、もっと味方が多ければ、母さんを守れたかもしれないのに。この、この出来損ないが。あんな何もできない男に媚びて、何が得られたって言うんですか? ガーレはもっと早くにここを出ていくべきだったんです。母さんの側にさえいられれば——」


 過呼吸に胸を抑え始めた。慌ててガーレイドの背中をさする。


「ガーレイド、落ち着け、落ち着くんだ。君は何も間違っていない。君が優等生だったから、お父様に一目置かれていたから、きっと少しでもクレース義母さんは救われていた」


 ガーレイドは僕の腕を払って突然に叫んだ。


「お前がボクの母さんを『かあさん』と呼ぶな!!」


 面食らった。一瞬、自分が何を言われたのか分からなかった。ガーレイドも自分の口から飛び出た言葉に一瞬驚いた様子だったが、しかしそれでも次の言葉を無理矢理に叫んだのだった。


「兄様なんかが、知った風な口を効かないで!!」


 生まれて初めて真っ直ぐにぶつけられた怨嗟を、宙に舞うガーレイドの涙を、僕は一生忘れられないだろう。


 ガーレイドは近くの花瓶を掴み、振り上げて——。





 咄嗟に前にかざした両腕を恐る恐る下ろせば、花瓶はガーレイドの左腕に降り下ろされていた。ガーレイドはそれに飽き足らず、ガラスの破片で自分の左腕をザクザクと刺し続けている。


 辺りの者たちが従者に指示してガーレイドの自傷行為を止めにかかった。しかしガーレイドは真っ赤なガラスのナイフで牽制して彼らを寄せ付けない。


「はあ、はあ。これでもまだ……ガーレの心の痛みには足りません」


 肉の露出した左腕から、一束の血の雨を王宮の石床に降らしながら。真っ赤なスポットライトの中心で、彼は宣告した。


「ガーレはお前たち全員に復讐します。ガーレを、ガーレのこの傷を見るたびに、思い出させます。お前たちの幸福は束の間のものだと。ガーレがお前たちに悪夢を見せるまでの儚いひとときに過ぎないのだと。結婚すればいい。子どもを作ればいい。そいつらも同罪です。ガーレは必ず全員を地獄に叩き落とします」


 呆然とする参加者たちに目もくれず、ガーレイドは会場から出て行った。放り捨てられたガラスのカラカラと回る音がやけに響いていた。


 その場に残された者たちは——僕も含めてみな——ガーレイドのかけた呪いに、ただただ心をざわつかせていた。





     ~〜革命まであと44日〜~

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