常闇の桃
@aobarasyouen
第1話
ある朝、目が覚めたら片方の耳が聞こえなくなっていた。
ストレス社会だ。そんな事もあるもんだ。だけどそんな話がしたいのではないんだよ。だからそれはどうでも良い。いや、どうでも良いと言いながらちょっとだけ語ると、ただ耳が聞こえないと言うのは静かだと言うのではない。常にずっと何とも言えない音がし続けるのだ。耳鳴りと言うやつだ。こいつは凄く煩い。起きている間はずっと聞こえている。本当は寝ている間だって聞こえているんだろうが、眠る事によって意識することから解放されるのだろう。しかも片方の耳が聞こえなくなると、もう一方の耳に凄まじい事が起きる。いきなり、街中の音を拾っているのかと思うくらいに感度が上がる。ずっと遠くから走ってくるバイクの音も真後ろから聞こえるし、町工場の機械音など町中に鳴り響く鐘のように聞こえてくる。
俺が思うに、音と言うやつは音の波長と波長がぶつかり合って程よく相殺し合っているんだな。相殺し合う波を聞くことが出来ないと、とんでもない事が起きると言うわけだ。
普通はその絶え間のない音に苦しむのだと思う。ところがどうだ、この俺様の順応性は。耳はいつか治ると信じていた。だからそれまでの間だけ今ある状況を受け入れようと、俺は思っていたのだ。
それにこんな経験は誰もが出来るわけではない。しかも、今の俺の片方の耳は超人の耳と言えるのではないだろうか。
そしてそうであるならば、もしかしたら絶え間なく聞こえてくる片方の耳の耳鳴りの音の中にも意味のある何かが隠されているのかもしれない。異界からのメッセージとか扉を開ける呪文とか・・・・・。
まあ、それはここだけの話にして、他の人には語るまい。変な人だと思われてしまう。
聞こえなくて煩いと言う毎日を過ごしていたある日、俺は用があっていつもは乗らない電車に乗った。
別に眠いわけではなかったが、椅子に座れたのでしばしの間眠る事にした。
今の超人的耳を持っていると、街中の人の多い所に出るのはかなり疲れる事なのだ。
目をつむった途端、キーンと言う音がした。
驚いて目を開けると電車の中は異常に暗く、ほかの乗客たちは影のように薄くなっていた。
なるほど、これは夢なんだなと俺は思った。
立ち上がってドアの方にフラフラと立ち上がり振り向くと、影のように薄くなった乗客たちがまったく動かない事にその時気がついたのだった。
右側の席に13人、左側の席に13人、手は胸の高さにあり少しうつむくと言う26人がまったく同じポーズをしていた。胸の所の手のひらにはデザインこそ違うが、皆同じ画面が光るものを持っていた。
俺はその時、いつもは見慣れているその風景に異常な違和感を感じて気持ちが悪いと思ってしまった。
電車はちょうど駅に着いた。
それで思わず俺はその駅に降り立ってしまったのだった。
プラットフォームには誰もいない。
そこは「とこやみ」と駅名が書かれていた無人駅だった。
フォームから降りると、すでに駅と道との境はなかった。道は真っ直ぐに伸びていて行きつく先は決まっているかのようだった。
その道なりには桜にしてはさらに色の薄い花がハラハラと絶えず雪のように舞っていた。点在して置かれている外套の灯がぼんやりと光っていて、その花たちをきらめかしていた。
その花に導かれるように先に進んでいくと、そこには館と言う言葉が相応しい和風の家が建っていた。
道と庭との境もやはりなく、さながら竹林が塀の役目をなしているような感じだった。
俺は自然にその庭に入り込んでいたのだった。
ーこの夢の中では季節は夏なのか。
なぜなら目の前の館には、雨戸もガラス戸もみな外されて全くなく、ふすまも障子もすべて開け放されていた。ふすまの向こうはまた部屋で、そのまた向こうもまた部屋で、いったいどれだけの奥があるのか見当もつかなかった。灯は庭に面した部屋にだけ灯されていたからだ。
奥の気配を窺っていた俺のすぐ脇で声がした。
「お待ちしていました。」
その声に俺は飛び上がりそうになったが、見れば少女がいつの間にかすぐ傍に立っていたのだった。
いや、少女と言うのは間違いか。切りそろえた前髪がそのような錯覚をさせたのだ。背中まで伸ばした漆黒の黒髪はこの世界の闇から溶け出したようだ。
少女のようなその女は、薄紫の絽の着物を着ていた。やはり季節は夏なのか。
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