彼女が僕を殺した理由

 冷たい真冬の海。

 空も海面も真っ暗に淀む中、僕は静かに浮かんでいた。


 自ら好んで入ったわけではない。

 恋人が僕を突き落としたのだ。


 話は半年前に遡る


 僕には付き合ってもう数年になる恋人がいた。

 彼女の名前は、ユキ。

 同じ会社で働いている。

 美人だし、家庭的で、同棲してもう3年は経つ。


 いい年齢なので、そろそろ結婚を、なんて迫られていたが、考えの甘い僕は決断できないでいた。


 そんなある日、僕はちょっとした気の迷いで、別の女の子と一夜を共にした。

 もちろん、相手は僕に同棲している恋人がいることも知ってたし、その夜だけと割り切った上で、だ。


 実はユキにはすこし、束縛が強いというか、ちょっとメンタルが不安定なところがあって、僕が決断できないのはそれが原因の一つだったりもする。

 たぶん、魔が差したのも、それに対するストレスの発散みたいなものだ。


 翌日。

 当然ながら、その夜のことはユキにバレた。

 どうして? なんで?

 彼女の責める言葉に、そういうところだよ! と怒りがこみ上げる。

 嫌気がさしてきて、口論になって……。

 突き飛ばした拍子に、ユキがテーブルの角に頭を打つけて気を失った。

 名前を呼んで揺すっても、目を見開いたまま、ピクリともしない。


 殺してしまった。


 そうとしか思えなかった。

 どうするべきかを考えに考えて、捨てることにした。

 海外旅行用の大きなキャリーケースに、ユキの身体を折り曲げて詰めこんで、車に運ぶ。

 夜のうちに行って戻れるくらいに離れた県外の、粗大ゴミ処理場にこっそり置いてきた。


 その後のことは、よく覚えていない。


 朝になって目が覚めると、ユキがおはようと声をかけてきて、朝ごはんができていた。

 いつも通りの朝。

 ああ、あれは夢だったのか。

 なんて嫌な夢だったんだろう。

 そう思うけれど、こちらを向いた彼女は、昨日と同じ服装のまま頭から血を流していた。


 ハッと目が覚める。

 慌てて起き上がるが、誰もいない。

 気のせいだと思いたいけれど、食卓には朝ごはんが用意されていた。


 これは、なんなんだ?


 ふと目に入った鏡に、頭から血を流している彼女が映った。

 僕は叫びながら叩き割り、その鏡を捨てた。


 きっと、彼女は僕を恨んでいるのだ。

 当たり前だ。

 身勝手な理由で殺して棄てた。

 当然だ。


 疲れ切った僕を心配した同僚が、飲みに連れて行ってくれた。

 帰りたくないので、ありがたい気持ちでいっぱいだった。


 しかし、帰宅して電気をつけると、明かりが瞬くその一瞬だけ、彼女の姿が現れて消えた。


 翌朝はまたユキの声で目が覚めた。誰もいないはずなのに。

 テーブルにはきちんと朝ごはんまで用意されていて、これまでユキがいた日常の一部が繰り返される。

 気持ち悪くて、その朝食は毎日棄てた。

 それでも彼女はときどき、何かの一瞬にだけ現れる。


 これが3ヶ月くらい続いた。

 さすがに限界だった。

 発狂しながら消えてくれと叫ぶと、彼女は姿を現さなくなり、朝ごはんが用意されることはなくなった。


 毎朝の煩わしさがなくなって、少し余裕ができた。

 その時になって初めて、気付いたことがある。

 彼女がいないことに、誰も気付いていないことだ。


 彼女とは部署が違うので実際のところはよく分からない。

 だが、休憩のタイミングで彼女のデスクを覗いて見るが、いつ見ても誰もいないのだ。

 そしてそれを、誰も何も言わないのが余計に不気味だった。


 もしかしたらこのまま、僕が彼女を殺したことを、誰にも知られずに逃げのびれるかもしれない。


 僕はそうして、もう何事もなかったかのように生きていくことにした。

 彼女と住んでいたマンションを引き払い、引っ越しをして、気分を改めることにしたのだ。

 ユキの荷物、ユキに関わるものは全部捨てた。

 二人の思い出の品も、なにもかも。


 引っ越しを終えて、数週間くらい経った頃、不思議な電話がかかってくるようになった。

 死んだはずのユキからだ。

 出てみるが何も聞こえない。

 きっといたずらか何かに違いない。


 けれども電話は何度もかかってくる。

 だんだん恐ろしくなって、もう許してくれと無言の相手に何度も懇願した。


 けれど相手は、ユキは、何も言わない。


 しかし、あるタイミングで電話がかかってこなくなった。

 助かった。

 解放された。

 そうとしか思えない。


 解放された僕は、新しい恋人を作ることにした。

 ユキと付き合っていた時にも時々デートしていた女の子だ。


 しかし、僕はまたユキの影に怯えるようになる。

 ユキの姿が一瞬だけ見えたり、また電話がかかってきたりしたのだ。

 さすがに腹が立って、かかってきた電話に、しつこいんだよ! 消えろ! と怒鳴ってやった。


 そんなある夜、新しい彼女を家まで送った帰り、またユキから電話がきた。

 しつこい着信音にイラついて、運転中の車を路肩に寄せたタイミングで電話が切れた。

 その代わりに、ショートメッセージで写真が届いた。

 どこかの埠頭のようだった。

 よくよく見ると、思い出した。ユキといったことのある場所だ。


 写真はかなり暗いし、今しがた撮影されたもののように見える。

 もしかしたら、ユキの携帯を拾ったヤツが悪戯してるのかもしれない。

 これまでの電話ももしかしたら、ソイツのせいなのかも。

 僕は新しい可能性にたどり着き、そして閃いた。

 取り返そう。

 アイツとの縁を完全に切るためにも。

 僕は再びハンドルを握る。


 写真はどんどん届いた。

 暗いし毎回写っているものも違うが、その埠頭のあたりをうろつきながら撮っているように見える。

 まだその埠頭にいるに違いない。


 埠頭にたどり着くと、写真を頼りにそいつのいる場所を探す。

 最新の写真の場所に着いた、と思ったら、そこには人が立っていた。

 すこし小柄で、髪の長い、多分女。


「おい、あんた!」


 そう声をかけると、答えるように振り返ったその女の顔は、ユキだった。


 意味が分からない。

 なんで?

 僕は思わず逃げ出そうとしたが、足がもつれて転けてしまった。

 ユキは無表情で、青白い顔のまま、ゆっくり近づいてくる。

 僕はしりもちをついた格好のまま、後ずさりして逃げた。

 しかし、ユキの歩みは止まらなくて、埠頭の端までついてしまった。

 その先は、海がある。


 逃げられない。


 許してくれ、頼む、と懇願したが、ユキはゆっくり近づいてくる。

 何かを言っているが聞こえない。

 そして、ドス、と重い音がして、腹にナイフが刺さった。

 あ、と声を出した次には、彼女は僕を暗い海へと突き落としていた。


 服が水を吸って重い。

 腹がじんじんと痛い。

 ダウンジャケットのおかげで水面に浮かんでくることができた。

 しかし、僕が落ちた場所にはまだユキが立ってこちらを見ていた。


 無理だ。

 僕はこのまま、死ぬのだ。


 僕の頭には、ゆっくりとこれまでのことが流れてくる。

 これが走馬灯という奴だろうか。


 しかし、ユキを殺してからのことは、なんだか記憶と違うようだ。

 だって、ユキの遺影に手を合わせている記憶があるんだ。

 この記憶は、いったいいつだ?


「……ああ、そうか」


 彼女はもう何年も前に、死んでたのだ。


 僕はユキを見ないふり、聞こえないふりを、していたんだ。

 彼女から逃げるために、思い込んで。


 だって、ユキを殺したのは、3度目なんだ。

 何度殺しても、朝にはユキは生き返ってて、朝ごはんを作ってくれた。

 だから、見ないふりをした。

 それで解放されたはずなのに。


 身体が冷たくなってきた。


 ざぶん、と顔の近くで何かが海の中から出てくる。

 やっぱり、ユキだった。


「これでやっと、一緒になれるね」


 身体が沈む。

 僕はもう、死ぬだけだ。

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