ボクらの花

秋初夏生(あきは なつき)

読み切り短編

―ゴトッ。ガシャン。

あっという間のできごとだった。


割れたガラスの破片が床に散らばり、キラキラと光っている。足元に転がったボールを見下ろすと、ドキドキと胸が高鳴った。


真っ先に頭に浮かんだのは、母さんの怒った顔。それから、悲しそうにうつむく顔。

ボクは思わずぎゅっと服のすそを握りしめた。


母さんが、おばあちゃんちに行ってから一週間が経つ。

いつ帰ってくるか分からないけど、帰って来るときは笑顔でいてほしいのに。


足元に転がったボールを震える手で広い上げる。そのとき、割れた花瓶の残りと水たまり、投げ出された花が嫌でも目についた。

 

「どうしよう……」

奈々はボクの後ろで、おろおろと立ち尽くしている。今にも泣きそうな様子に、ボクはあわてて花瓶のかけらを集めだした。

母さんがいない間、家の中がどこか寂しく感じた。いつも強気な奈々が泣き出しそうなのも、きっとそのせいだ。

「大丈夫、大丈夫。兄ちゃんが何とかするから」

こういうときこそお兄ちゃんらしさを見せようと胸を張ると、奈々はわっと泣き出した。

「お兄ちゃんがお部屋でボール遊びしよって言ったからだよ。ナナは悪くないもん。ナナはだめって言ったもん」

確かに狭いマンションの部屋で、ボール遊びなんか始めたのはよくない。

でも奈々が、「だめ」なんて言った覚えはないぞ。面白がって「やろう、やろう」って言ったじゃないか。

「めちゃくちゃなボールを投げたのは奈々だろ」

「ナナはまだ一年生だもん。お兄ちゃんが受けるの、ヘタクソなだけでしょ」

せめて一つくらいと反論すると、すぐに言い返された。いつだって口で勝つのは奈々だ。

顔は全然似てないくせに、こういうところはだんだん母さんに似てくる。

「あーもう、わかった。兄ちゃんが悪かったって」

だんだん面倒くさくなって適当に答えると、奈々はにやっと笑った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。

「じゃあ、ナナもおかたづけ手伝ってあげる」

あげるって何だ。花瓶を割ったのは奈々だろ。そう言いたいのを我慢して、一緒に片付ける。

だって、ボクは決めたんだ。母さんが帰ってきたとき、笑顔でおかえりって言うために、奈々とはケンカしないって。


花瓶が置いてあった戸棚の裏側にまで、ガラスの破片が散らばっていた。奥の方は暗くて見えにくい。

「痛っ」

人差し指にガラスの破片が刺さった。傷は浅くて、血はほとんど出てない。

でも、チクリとしたその痛みは、まるでボクの心の深くにまで刺さったみたいに感じた。涙が出そうになるのをがまんしていると、ふいに奈々が顔をのぞきこんできた。

「お兄ちゃん、はい」

奈々はボクに傷テープを差し出した。ピンクのうさぎが描いてある、かわいらしい傷テープだ。

一瞬、受け取るのをためらった。

「……あ、ありがと」

まあいいや。明日には治ってるだろうし。

もらった傷テープを指に貼ると、ちょっとだけ痛みがやわらいだ気がした。

「奈々はケガしてないか?」

「してないよ。お兄ちゃんじゃないんだし」

どういう意味だ、それは。三つも年下のくせに生意気な。そうこうしてるうちに、破片は片付いた。後はぬれた床を拭くだけだ。

「でも、どうしよう……同じやつ、どっかに売ってないかな。困ったなあ」

花瓶が飾られていた戸棚の辺りを眺め、ボクはため息をつく。

新しいのを買えばいいかな。でも花瓶なんて、自分で買ったことなんかない。

それに、ボクのおこづかいは、おやつやゲームに使っちゃってほとんど残ってなかった。母さんがいつ帰って来るか分からないけど、それまでには何とかしなくちゃ。

「なーにーが、『困ったなあ』なんだ?」

急に頭の上から声がしたから、ボクはびっくりして、しりもちをついてしまった。しかも運悪く、水がこぼれた場所だ。

「わー、お兄ちゃん、おもらししたみたい」

くすくすと奈々が笑ってる声が上の方からする。顔を上げると、父さんの腕にぶらさがっている奈々が見えた。

父さんは帰って来たばかりらしく、仕事着のまま着替えていない。

「こら、お前たち。また何かやらかしたな」父さんの顔が急に険しくなった。

「何でも壊れたら買えば済むってもんじゃないぞ?」

「そーよ、そーよ」

奈々まで一緒になって言っている。

「でも……」

ボクだけが悪いんじゃないって言いかけて、ボクはやめた。父さんがますます怖い顔になった気がしたからだ。

そんなこと言ってるんじゃない、と父さんの目が言っていた。

「――――ごめんなさい」

「それは父さんじゃなく、母さんと花瓶に言わなきゃだめだぞ」

そう言った父さんの顔は、いたずらっぽく笑っていた。どういう顔をすればいいか困ってるボクの頭を、ちょっと乱暴になでる。

奈々は、父さんの腕から離れて花瓶のかけらに頭を下げた。

「……ごめんなさい」

奈々はボクのほうを見て、少し笑って見せた。父さんはボクの横で満足そうにうなずいている。

「よし。花瓶は父さんが何とかしてやろう。――――しかし」

途中で父さんは急に声をひそめた。

「困ったことが一つある」

ボクと奈々は顔を見合わせた。

「この花は花屋さんには売ってない」

父さんは腕を組んで言った。さあどうする、という顔でボクを見た。

花のことまでは考えてなかったボクは、返事に詰まった。そういえば母さんは、花瓶より花を大事にしていた。

「う……」

ボクは困って奈々を見る。奈々は小さく首を横にふった。

「もう一回、花瓶に生けてもだめかな」

ボクは何だかぐったりして元気のない花をそっと拾い上げた。奈々も花をのぞき込む。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

奈々が、急に大声をあげた。

「ん?」

「根っこ。根っこ」

「えっ?」

奈々が花を指さす。茎の下の方の部分に、ちょろっと白い根っこが生えていた。

「地面にうめたら、また咲くかも」

奈々は「ねっ?」と得意そうにボクの顔を見た。

「種じゃないんだから、埋めちゃだめだろ。植えるんだよ」

ボクも嬉しくて夢中でそう言った。奈々はぷうっと頬をふくらませる。

「なによー」

珍しく奈々に勝った気がする。ますますボクはうれしくなった。

「母さん、大事にしてたもんな。だから根っこまで生えちゃったんだな」

「早く植えなきゃ」

「そうだな」

うなずいて、ふと父さんを見た。

「父さん」

「よかったなー、お前たち」

父さんはにこにこと言った。

ボクがほっとしたとたん、父さんはいきなり頭をかかえて叫んだ。

「ああーっ!」

「な、何、どうしたの、父さん」

「植える場所がない」

ボクはぽかんと口を開けて父さんを見た。そういえば、うちはマンションだ。しかも二階だから庭はない。

「大丈夫、お母さんのプランターがあるもん。まだ何も植えてないよ」

どうしようと大騒ぎしているボクと父さんの横を、奈々はさっさと通り過ぎる。そのままベランダに出て、プランターの側にしゃがみこんだ。

「やー、しっかりしてるな。奈々のやつ」

父さんは感心したようにうなる。

「けど生意気だよ。ボク、いつも負けてる」

「そりゃあ、仕方ないな。女の子はいつだって強いからな」

「父さんも、いつも母さんに負けてるの?」

思わずボクは聞いた。言ってから、今のはまずかったかな、と父さんの顔をのぞき込む。父さんは少し驚いた顔をした後、ボクににやっと笑ってみせた。

「それは違う。父さんのは、わざと負けてやってるんだよ」

そう言った後、父さんはふと笑うのをやめて、どこか遠くを見る目をした。

「もう! お兄ちゃんもお父さんも早く手伝ってよ!」

「はいはい、今行くよ」

ベランダに向かって答えると、父さんはぽりぽりと頬をかきながらボクの顔を見た。

「うーん。やっぱり今回も父さんの負けだな。もう一度、負けてやるか」

それはもしかして……?

「奈々、その花を植えたらおばあちゃんちに行くぞ」

「ほんとっ?」

父さんの言葉に、奈々はぱっと顔をあげる。

「よかったね、お兄ちゃんっ」

にこっと笑いかける奈々に、ボクもうなずく。

「もう寂しいって泣かないですむよね」

「そ、それは奈々だけだよ」

ボクは真っ赤になって言い返す。もう少しで奈々の言葉に乗せられるところだった。

「ははは。――それにしても、母さん許してくれるかな」

父さんは、ふうっと息をついた。

「がんばれー、お父さん」

奈々が持っていたスコップを振り上げる。ボクも、「がんばれ父さん」と心の中で言う。

「お兄ちゃん、お水やって」

奈々に言われて、ボクはジョウロで水をやった。

「早く元気になれよー」

花瓶の花から根っこが出たなんて、どんな顔するだろう、母さん。

「お兄ちゃん! やりすぎ!」

「あんまりやりすぎると腐っちゃうぞ」

奈々と父さんに注意されて、ボクは慌てて傾けたジョウロを戻す。少し水がはねて、またズボンが濡れた。

「あーあ……」

「早く着替えなよ」

ちょっと恨めしい目つきで、ボクは奈々を見た。別に奈々のせいじゃないけど。

「そうだな。どうせ今から出掛けるんだから、二人とも着替えておいで」

「はーい」

ばたばたと部屋に上がって、奈々が着替えに行く。

「まあ、お前たちが来てくれるから、きっと大丈夫だよな」

父さんがそう言って、ベランダから遠くの街を眺めた。母さんのいる、おばあちゃんの家の方角を見ているのかもしれない。

その足元で水をやったばかりのプランターの花が、夕日を浴びてきらきら輝いていた。



《END》



---

※こちらは同人誌『ぷらむ No.36』掲載作品に、一部加筆修正したものです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボクらの花 秋初夏生(あきは なつき) @natsuki3mr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ