1-12 バカな奴だな



「■■■■っ……!」


 妖精の奇声が耳をつんざいた。冷たく熱の無い飛沫が頬を濡らす。それが自身からの血飛沫だと彼女は思った。だが痛みはいつまで経っても到来せず、頬に張り付いた飛沫の感触がまるで幻であったかのように消えていく。いったい、何が。彼女は無意識に閉じてしまったまぶたを開けた。

 目の前で、妖精が貫かれていた。右のこめかみから左へ細長く白い閃光が貫通し、遅れてニーナの眼前から弾き飛ばされ地面に叩きつけられる。

血を撒き散らして倒れ、体を小刻みに震わせながらそれでも妖精は起き上がろうとしている。だが、その首元を小さなブーツが強かに踏みつけた。


「あ……」


 ニーナが見上げた先。そこには、昼間に世話になった少女――アーシェがいた。

 彼女はニーナを一瞥すると、やや怪訝な表情を浮かべた。だがすぐに視線を外して踏みつけた妖精の首をつかみ軽々と持ち上げる。

 そして――その首元に喰らいついた。


「っ……!?」

「ああ、良い――素晴らしく美味だ」


 肉を喰いちぎったアーシェの顔が恍惚に歪み、歓喜が言葉となってこぼれた。

 妖精の首からは血が飛沫を上げ、ボタボタと垂れ落ちていく。消え失せるよりも早く流れ出した血が足元に溜まりを作っていく。妖精はもがき悲鳴を上げ、だが圧倒的強者であるアーシェにつかまれた体は逃れる事ができないまま、程なく動くことを止めた。

 アーシェは高揚した瞳を浮かべて妖精を頬張っていく。夜の静かな街に咀嚼音が鳴る。骨が折れ、肉が引き裂かれる音が反響する。生きたまま生物を喰らうというおぞましいはずの光景。なのにニーナは、取り憑かれたようにそれを眺めていた。目を逸らせずにいた。

 自身よりも大きな生物の殆どを、アーシェはわずか数分で平らげてしまった。そして最後に残った手のひらサイズの妖精の心臓――核をつまみ上げると口に放り込み、いかにも美味そうに咀嚼する。飲み込んだ彼女の喉が震えてほぅ、と吐息が漏れた。

 風が吹く。雲が流れる。アーシェの背後の夜空に大きな、不思議な魅力を伴った月が姿を現した。満月に近い月の光が彼女を照らし、宵闇の中にその幼い体をくっきりと浮かび上がらせる。だというのに、ニーナにはアーシェがひどく儚げに見えた。確かにそこにいる。けれど現実感がなく、そのまま月に吸い込まれていきそうだった。顔にこびりついた妖精の血肉がほのかな光と化していく。その様子がいっそう彼女を幻想的に仕立て上げた。

 儚げなその横顔が挑発的に歪む。金色に輝いていた大きな瞳がやがて本来の翡翠色へと戻っていき、見た目にそぐわない鋭い視線がニーナに向けられた。


「……」


 ニーナは彼女の存在に魅入られていた。可愛らしい容姿に、それとまるきり異なる経験を重ねた表情に。そして、瞳に宿る深い暗さに胸が苦しくなった。


(どうしたら――)


 そんなにも、悲しく、暗く、苦しい瞳になるのか。昼間の邂逅ではうかがい知れなかったアーシェ・シェヴェロウスカヤという存在の美しさに見惚れ、内包するその昏さに囚われ、そして消えてしまいそうな彼女をなんとかせねばという理解できない使命感に駆られてニーナは彼女へと手を伸ばそうとした。


「トリベール」


 誘蛾灯の様に誘い込まれていたニーナだったが、アーシェの剣呑な声に我に返った。


「貴様、何をした?」

「何って言われましても……」


 いったい何のことを指しているのか。ニーナは首を傾げ、それを見たアーシェの視線が一段と険しいものに変わる。


「とぼけるな。襲いかかる直前、妖精の動きがおかしくなった」

「え? アレもシェヴェロウスカヤ中尉がやったんじゃ……?」


 そう答えると、アーシェの片眉が上がった。が、知らないものは知らないのだ。ニーナ自身、あの瞬間は死を覚悟したし、魔装具だって何も使っていない。

 アーシェはしばしニーナを探るように見つめていたが、やがて大きなため息をついた。


「そうか……ならいい。つまらんことを聞いた。それより……大丈夫か?」

「へ?」

「腕だ。義手が斬り飛ばされただろう?」


 言われてニーナは自分の腕が弾き飛ばされたことを思い出し、慌てて転がっていたそれを拾い上げると、ちぎれた部分を見て安堵した。


「大丈夫です。折れた金属部品を交換して配線を繋ぎ直せばまた元通り使えそうです」


 なら良かった。浮かべたアーシェの笑みに、ニーナは記憶を不意に刺激された。

 おぼろげな映像。不鮮明なそれが頭の中で巻き戻され、ある地点から再生される。

 それはかつて、ニーナが戦争で焼かれた村から助け出された時の記憶だ。周囲の森が、村が燃え盛り、そんな中で左腕を失ったニーナは誰かに抱えられていた。朦朧とする意識の中で微かに見える誰かの顔。熱に焼かれ、うっすらとした視界の中で彼女を抱えていたその人は、ニーナを安心させるように微笑んでいた。まるで――


「――リベール、おい、ニーナ・トリベール。聞いてるか?」


 アーシェから何度も呼びかけられ、ニーナはようやく記憶の海から戻ってきた。ハッと目を瞬(しばたた)かせると慌てて背筋を伸ばした。


「は、はい! 聞いてます!」

「なら良い。費用は全額ウチで持つから修理の見積もりを私に回せ。いいな?」

「……良いんですか?」

「良いも何も巻き込んだ私のミスだからな。最低限それくらいはさせてもらう。すまなかったな。まったく……情けない限りだ」


 アーシェはため息をつきながらこめかみを押さえて頭を振った。それから未だどこか心ここにあらずな彼女を見上げ、「それから」とにらむような視線を向けた。


「今夜のことは全て忘れろ」


 無理だ。ニーナは即座にそう思った。忘れられようはずがない。妖精たちに襲われたことも、それから――妖精を喰らうアーシェの姿も。今振り返れば、すべてが衝撃的すぎた。


「その、中尉たちは……何者なんですか? あの妖精も。まして、た、食べるなんて――」


 そこまで口にして、彼女は口をつぐんだ。下からアーシェの大きな瞳ににらまれ、小さな体に似合わないその眼力にニーナはたじろいだ。


「貴様が知る必要はない」

「でもっ……!」

「今日は何も起こらなかった。そうすれば変わらない日常に戻れる。いいな?」


 そう言い残し、アーシェは背を向けた。ニーナは何も言えずにうつむき、しかし小さくなっていく彼女の背中を見ると、彼女は右の拳を握りしめて力いっぱい叫んだ。


「忘れません! 私、忘れませんからっ!」

「……そうか。なら口を封じないといけないな」


 アーシェは非情に宣告した。それでもニーナは臆せず叫んだ。


「でも……絶対口外しませんっ! 他の人にも言いませんっ! だから……絶対に忘れませんからねっ!」


 妖精たちもそうだが、何よりアーシェの姿を忘れられるはずが無かった。美しく、そして儚い。気がつけば最初からいなかったかのように、ある日唐突に消えてしまいそうに思えた。それこそ今日のことを忘れてしまえば、今回の臨時の仕事が終わると共に二度と彼女と会うことはないんじゃないだろうか。

 そんなのは、嫌だ。心からそう考えてしまう程に、今のニーナは間違いなくアーシェ・シェヴェロウスカヤという存在に惹きつけられていた。

 息を切らしたニーナの白い息が暗い世界を微かに彩る。アーシェはニーナの懸命な顔をキョトンとして見上げていたが、やがて愉快そうに喉を鳴らし始めた。


「バカな奴だな。だが、まあいい。口外しないなら勝手にしろ」

「あ、ありがとうございますっ!!」

「いつか後悔すると思うがな」


 そう言い残して遠ざかっていくアーシェに向かって、ニーナは見えなくなるまで手を振った。やがて夜の中に彼女らの姿は溶け込み、全てが夢幻だったように静寂が戻ってきた。

 ニーナは心地よい満足感に浸りながら帰路に着いた。足取りは軽く、全身に打ち身や擦り傷の軽い痛みはあるがそれさえ今夜の出来事の証左に思えて心地よい。つい鼻歌を口ずさみながらアパートに帰り着いて、しかし彼女は今更気づいた。


「……明日の仕事、どうしよう」


 右手に持った左腕を見下ろす。精工に人間の形を模した金属のそれが、手の中でデロン、とうなだれていた。見下ろしたニーナの頭もうなだれ部屋へと入っていく。

 だから彼女は気づかなかった。彼女だけではない。アーシェもまた気づかなかった。

宵闇に溶け込み、一連の騒ぎを遠くからじっと観察している白い影があったことに。


Moving away――





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