好きな物がない

堕なの。

好きな物がない

 夜中の学校を好む人間のなんと多いことか。そんなことを考えながら夜八時の学校で、俺は息を潜めていた。学校とは言っても、校舎内には入っていない。この学校で一番大きな木の下に座っているのだ。理由を聞かれても、成り行きで、としか言いようがない。ただ、何となく家に帰りたくなくて、スマホを弄ったり本を読んだりして意識的に時間を浪費していればこんな時間になっていた。

 空を見上げれば満点の星空がある。俺にどの星がどれかなんて分かりはしないけれど、綺麗だということだけは分かった。昔の人だって、この星空を愛でたのだから何ら可笑しくない。むしろ俺からしてみたら、あの星一つ一つに名前をつけて、学生に覚えさせようとする現代人の方が正気ではなかった。明日の地学のテストを差し置いて、ゲームやら読書やら、時間の浪費しかしなかった理由は概ねそんなところだ。社会にとって役に立つはずもない知識を無理矢理に詰め込もうとする学校教育が俺は許せなかった。もちろん、表立って何かをすることはない。俺は普段は真面目で、時々巫山戯るだけの無害な人間だ。先生に目をつけられることだってない。尤も、あの陽キャに気に入られて緩そうな教師が、生徒に対してそこまでの不信感を募らせるかと言えば、そんな想像もつかなかったが。

 その木は、校庭の端のほうにあった。ちょうど職員室から真反対で、故に誰にもバレなかった。たぶん、腰の高さくらいまである生け垣も、俺を隠すために一役買って出てくれたのだと思う。

 少し強い風が葉を揺らした。葉の隙間からは校庭の真ん中が見える。そこには、天体望遠鏡と、その傍で煙草を吸う担任の姿があった。普段の明るい姿からは想像できないほどアンニュイな雰囲気を纏っていた。セットされていない髪は矢張り風に揺れ、目元を隠している。そもそもこの距離からでは先生の目など見えないというのに、意味のある偶然のように思えた。

 先生は望遠鏡のレンズを覗きながら、絵を描き始めた。普段使っている百均の用箋挟が遠目に確認できたけれど、それだけだった。

 どれだけそうしていただろう。数分かもしれないし数十分かもしれない。とっくに時間感覚を失っていた俺の脳は、厳密な時間はわからないけれど少しの間だとした。少しの間、俺はあの先生を見つめ、先生は絵を描いていたのだと。

 先生はペンを胸ポケットにしまった。そして描いた絵を片手に、俺のしゃがむ茂みに向かって歩いてきた。バレてたのか、なんて人ごとのように考える。それならそれでいいかと諦めた脳内は言い訳を放棄した。それに、こんな状態で通じる言い訳があるのだとすれば、それはどんなものなのか知りたかった。

「クソガキは帰る時間だぞ」

 自分も良くないことを見られているため吹っ切れたのか、いつもとは違う口調で話しかけてくる。いつもは物腰柔らかで明るいところが女子生徒や一部の男子生徒にウケている。だが今、そんな部分は鳴りを潜めていた。

「俺の描いた絵をやるからさっさと帰れ。終電なんかまだまだだからな」

 先生はさっきまで描いていいた絵を俺に押し付けてきた。あんなに熱心に描いていたのに、と思いながら見れば、そこに描かれていたのは幼稚園児の落書きのような星空だった。見比べるために空を見てみれば、配置は同じだった。ただ、星の形が本当にマークの星だったり、縦長のキラキラになっていたり。こんなんで高校生男子の心を沈められると思ったら大間違いだ。だが、こんな絵を一生懸命に描いていたのかと思うと、笑えて、笑えて、

「あれ?」

 視界が滲んだ。俺は俯いて、先生の大笑いする声が上から降ってきた。視界の中で、ドアップの膝と湿った土が溶け合っている。目を擦れば、その腕を掴まれた。

「好きなものはあるか?」

 好きなもの。パッと浮かぶようなものはなかった。その事に気づいて、面白みのない人間だなと思った。逆に嫌いなものはなんだろうと考えるも、そっちもこれといったものは出てこない。面白み云々と言うよりも、人として重大な欠陥を抱えているようでならなかった。

「俺は星が好きだ。石が好きだ。でも天気は嫌いだ」

 地学と言えば、大体この三つが思い浮かぶ。余りの笑い声に次第に視界は鮮明さを取り戻して、先生の表情を見る。月の逆光で、またしてもよく見えない。ただ、笑っていることは何となく分かった。

「お前の好きは分からねえし、たぶん家に帰ってねえ理由もくだらねえし、俺だってそんな出来た子供時代は送ってねえよ」

 先生はそこで一息おいてこう言った。

「好きがあると楽しい。でも、好きがなくたって何かに心動かされ、思考を強いられる内は生きてるってことだ」

 先生はいつの間にか俺の手の中にあった絵を四つ折りにしてポケットにねじ込んでいた。絵を描く時に使っていたであろうシャーペンと一緒に。そして俺の背中をぽんと叩いた。

「お前、絵が上手かっただろ。宿題に、その下手くそな絵を添削してこい。お前が提出を忘れた夏休みの課題はそれで手打ちにしてやる」

 先生としてあるまじき行動だろうと思いつつも、そのくらいの軽さにいくらか心が救われた。本来、救わなければいけないような場所なんてないけれど。俺の中の悩みに一つの回答を与えた。それは、救いと言うには軽いもので、それでも何でもない事とするには大きな意味を持つ気がした。

「気が向いたら書きますよ」

 シャーペンをくるくる回して、立ち上がる。そういえばふと思い出したが、なんてことないようなことだが、俺はペン回しが好きだった。だから何だと言う話だが、確かに俺は好きだった。

「馬鹿らし」

 鼻で笑って、もっとまともな趣味見つけないと、と思いながら帰路についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

好きな物がない 堕なの。 @danano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ