積み木の幸福論

そうざ

Theory of Happiness Based on Building Blocks

             1


 仕事から帰ると、妻のハルカが『お帰りなさい』を吐いた。

「もう少しさぁ――」

「はいはい、心の底からお帰りなさい」

 今日は返答ランキング第一位の回答だ。第二位は『言って貰えるだけあり難いと思いなさい』、第三位は『迷わず帰れて偉かったでちゅねぇ』、他に『お早いお帰りで、早いだけが取り柄だもんね、ベッドの上でも』等がある。

 毎日疲れ切っている僕は、もう言い返そうとは思わない。喧嘩など非生産的行為の最たるものだ。

 生気を取り戻す方法は唯一つ、僕は汗塗れの作業着を脱ぎ捨てながら子供部屋へ直行した。

「たっだいま~っ」

 思った通り息子のトワは積木遊びをしていた。

 父親が帰ってもして関心がないようで、手元に無我夢中だ。朝、僕が出勤してからずっと積木で遊んでいたのだろう。よく飽きないものだと思うが、高給取りでもないの僕としては積木さえ与えておけば良いので助かっている。

「愉しいか?」

「うんっ」

 率直に問い掛ける僕に、トワは何の翳りもない声で答える。

 全く子供というのは呆れる程に単純な生き物だ。が、そんな光景をずっと眺めていられる僕も単純なのかも知れない。

 立方体の積木を並べて台座とし、円柱の積木を等間隔に立てて行く。その上に直方体を載せ、また円柱を立てる。階数が増えるに連れ、使用する積木の数は減り、上部は徐々に窄まって行く。思いの外、高く積み上がって行く。城よりも塔と言った方が正しいようだ。

 手伝ってはいけない。我が子には地道に何かを為し遂げる根気と集中力とを鍛え上げ、それを達成する喜びを培って貰いたい。

 塔はいつの間にかトワの座高を越えていた。積木が寸分違わない正確さで建造物のシルエットを描き出す。そして、トワは子供に不似合いな慎重さで三角錐の積木を天辺に置いた。

 完成だ。

 トワには建設作業の才能があるらしい。蛙の子は蛙という事か。

 ところが、トワの顔に満悦の色はない。自分が手掛けた作品を無表情で見詰めるだけだ。

 僕は、賞賛の声を掛けるタイミングを逸してしまった。気まずさにも似た場の空気に、思わずトワの背後の窓に目を移した。

 ついさっきまで額に汗して働いていた職場――〔CB=コンプレックス・バベル〕が夕焼け空の下に朱く染まっている。それは、団栗の背比べでひしめき合う民家の海原から勢い良く浮上した鯨のようでもあった。

 一服の絵と見紛みまがう景観に、造形美という言葉が浮かんだ。一日の疲労が緩やかに溶けて行く感覚だった。僕は毎日あんなに素晴らしい職場で働かせて貰っているのか、と改めて感慨を覚えた。

 その時、その感慨に水を差す乾いた音がした。

 トワが一撃必殺の蹴りで積み木の塔を倒壊させたのだった。その顔には満悦の色が表れていた。

 唖然とする僕を余所に、トワは直ぐに積木を掻き集める。積み上げては壊し、積み上げては壊し、日がな一日それを繰り返していた事は想像に難くなかった。

 男の子はこのくらい元気があった方が良い。自分を納得させた僕は、もう一度〔CB〕に目を移した。


 ここに国の試算がある。合法移民数が増加の一途を辿る現状を鑑みれば、遠くない将来に住宅戸数が飽和する事は必至と見られている。

 この深刻な事態を解決すべく、今から十年前、国家的建設事業〔CBP=コンプレックス・バベル計画〕が満を持して発表された。

 数万規模の住居エリアを初め、ショッピングエリアやアミューズメントエリア、教育、医療、行政の各施設、地産地消型産業プラント等々を内包した超弩級複合建築物を全国各地に建設し、それぞれを自治区とする、分権型国家構想である。

 実現の暁には、国内に於ける人や企業、各種機能の一極集中や、都市部と地方とのあらゆる格差が解消、国民生活に於ける真の公正、公平、平等が達成される事になるだろう。


 各地で建設が始まって五年になるが、全ての〔CB〕が完成するまでには数十年の歳月が掛かると目されている。

 今や国民生活は〔CBP〕を中心に成り立っていると言って良い。実際、全国民の半数が〔CB〕の建設現場で働いており、関連事業を含めるとほぼ全員が何らかのかたちで計画に従事している計算になる。

 各現場の周辺には、作業員やその家族が仮り暮らしをする公舎や生活に必要な商店や施設が軒を並べ、城下町宜しく地域社会コミュニティーが形成されている。我が家もそんな猥雑な一角に住まう作業員一家なのだ。


              ◇


「またか……」

 風呂上がりの夕飯は、好い加減うんざりする内容だった。決まり切った料理が決まり切った食器に盛られ、食卓の決まり切った位置に鎮座している。

 今日のメニューは、丁度一週間前に食べたものと寸分違わない。昨日は昨日でその一週間前と同じだった。一週間単位のメニューを只管ひたすら繰り返しているのだから既視感は否めない。

「全部、只なんだから、贅沢言ったら罰が当たるわよ」

 確かに〔CBP〕に参加している家庭の基礎的生活は保障されている。特に現場作業に従事している者とその家族への保障は手厚く、前世紀に絶滅した専業主婦(または主夫)の身分を手に入れる事も可能だ。

 とは言え、朝から晩まで馬車馬のように働き、餌と言った方がしっくり来るものを腹に詰めて後は眠る。そんな毎日に味気なさを感じてしまうのは、果たして罰当たりなのだろうか。

 傍らではトワが当然の仕草で勝手に食事を始めている。

 本当に素直な奴だと思う。僕がガキの時分は、これが欲しい、あれが欲しいと散々駄々を捏ねたものだが、我が子は一切の文句を言わず好き嫌いもなく用意されたものを黙々と口へ運ぶ。

 唯でさえ味気ない料理が冷めるのは尚の事、味気ない。僕は話題を変えた。

「そうそう、商店街の向こうで建ててる簡易小学校な、予定通り今年中に竣工するってさ」

「へぇ、丁度良かった。トワの就学に間に合うわね。来年はいよいよ一年生だよ~」

 ハルカがトワに笑い掛ける。が、当の本人は何も解かっていない様子なので、僕に向き直り、一転して真面目な口調になった。

「そうなると、小学校を造ってた人達は用済みよね……大丈夫?」

「何が?」

「職にあぶれた人達が貴方の現場に押し掛けたりしない? 仕事を横取りされちゃったりしない?」

「あっはっ、大丈夫だよ。〔CBP〕は途轍もなく巨大なプロジェクトなんだから、百人や二百人の作業員なんか楽に受け入れられるよ。寧ろ頭数が増えた方が現場は大助かりってもんだ」

 そう笑いながら、脳裏に一抹の不安が過ぎった。

 何とか気分を整えようと、窓の外に視線を移す。仏塔のようなシルエットが深い闇にそびえている。その頂上付近で点滅する航空障害灯が、僕の目をそっと和ませた。


              ◇


 あれはいつだったろう。

 体調を崩して仕事を休んだ日があった。木賞と共に身体が僅かに浮遊しているような錯覚を覚えた。動けない程ではなかったが、もし作業中に症状が悪化したら周囲に迷惑を掛ける。大事を取った方が良い、とハルカも顔を曇らせたので、迷った挙げ句に病欠の連絡を入れた。

 統括班長はすんなり聞き入れてくれたが、普段なら仕事をしている時間にベッドでぼうっとしている事に違和感を覚え、無性に落ち着かなくなった。

 ガキの時分、何度か学校を病欠した事がある。当時は、公然とサボれるなんて病気も悪くない、と喜んでいた。

 だが、大人になった今は全く逆の心境だ。

 窓から〔CB〕が見える。トンカントンカン、ギュルンギュルンと作業音が風に乗って窓辺に届く。しっかりと施錠していてもそれは侵入して来る。此処ここら一帯に暮らす人々は日々この無機的な響きと共に生きているのだ、と新鮮な発見をする一方で、頭をもたげる全く別の思いがあった。

 ――僕がいなくても作業は何の支障もなく進んでいる。

 病とは違う種類の眩暈が僕を襲った。堪らず重い身体を起こしてカーテンを引いたものの、それでもやっぱり活気に溢れた音が聞こえてしまう。

 僕は蒲団を被って耳を塞いだ。そして、もう二度と仕事を休むまいと堅く決心したのだった。


              2


「今日もお仕事、頑張って下さいね」

 昨日、一悶着あったからか、今朝のハルカはいつになく丁寧な口調だった。

「パパ、行ってらっしゃい」

 トワもハルカにしがみ付いたまま元気良く声を掛けてくれた。

「行って来ますっ」

 僕は作業着姿で溌剌と歩を進めた。前方には蒼天の下、燦々と朝日を浴びる〔CB〕が在る。夜景も良いが、やっぱり白日の実像は断然良い。

 円錐形の裾野に細長い塔を突き立てたような全景から『さか漏斗じょうご』という愛称が付けられているが、未だ無数の鉄骨が剥き出した様子から、僕は不謹慎ながら腐乱して行く巨大生物の骸を連想してしまう。疲れが溜まっているのかも知れない。


 自然と同じ作業服を来た連中と合流する。皆、周辺に住んでいるから作業着で自宅を出るのだ。誰もが手ぶらで、精々が僕のように愛妻弁当を携えているだけの身軽な通勤だ。

 程なく〔CB〕の裾野に到着すると趣が変わる。毎朝やっているように両頬をぱんぱんと張り、気合を入れる。辺りには同じく自分を叱咤する者が大勢居る。

 本当の通勤はここからなのだ。


 僕の仕事場は地上三千メートル地点にある。

 要所要所に作業用エレベーターが設置されているとは言え、ここで働いている作業員の総数は千人を超える。毎朝、エレベーター前には長蛇の列が形成され、自分の作業階へ辿り着くだけでも容易ではない。

 それでも殺気立つ者は居ない。誰もが諦めと言うか達観と言うか、いつもの変わらない風景として受け入れている。急ぐ必要もない。もう職場には到着しているだから、後は携帯端末に目を落とすなり、談笑するなり、思い思いに待ち時間を過ごす。これはこれでちょっとした余暇みたいなものなのだ。


 順番が回って来たのは、活動写真を観賞し終わるくらい待った頃だった。いつも大体これくらいだから、僕は何とも思わず黙ってエレベーターに乗り込む。鮨詰めの空間で更に活動写真を一本、観賞。何度か欠伸を噛み殺した跡、僕は無事に吹きっ晒しの作業階に到着した。

 先に来ていた同僚達が班長を囲んで何やら話し込んでいる。挨拶もそこそこに輪の中に割り込むと、班長が苦笑いを浮かべたまま説明を繰り返していた。

「外壁デザインに変更が出ました」

「またNGですか?」

 一気に目が覚めた。

 班長は苦笑いに溜め息を混ぜる。

「詳しい事は朝礼で発表されるので、よく聞いておくように」

 一体全体、何度目の遣り直しだろう。

 基礎部を造っている時点でも確か三回程NGが出た筈だ。その後も、図面に記載漏れがあったとか、建材の耐食性に懸念が示されたとか、そもそも工法に無理があったとか、予定工期の半ばを過ぎても次々と細かな問題が頻発している。その度にコンクリートを砕き、配管、配線を取り除き、ボルトを緩め、鉄骨をばらし、そしてまた一から同じ作業にいそしんで来た。

 それにしても、九割方が完成しているこの期に及んでまだ駄目出しがあるとは誰も予想だにしていなかったようで、流石に作業員の間に明らかな動揺が広がっていた。


『――という訳で、本日から部分的な解体作業に取り掛かって頂きます。以上』


 スピーカーを通して総監督からの伝達事項が各作業現場に伝えられると、作業員の集団から改めて大きな吐息が湧き上がった。

 全ての設計は〔CBP実行委員会〕が担っている。建築学とやらを学んだしかるべき人達の考えだから信頼出来る筈なのだが、設計というものはそんなにころころと変更を余儀なくされるものなのだろうか。図面上でどれだけイメージを膨らませても、実際にある程度まで出来上がってみないと良し悪しの判断は付かないという事なのだろうか。

 解体費用は建設費用と同じくらい掛かるかも知れない。公共事業とは言えよく資金が持つものだ。たとえ工期が延びてもその分の給料は間違いなく支払われるので生活の心配はないが、造っては壊し、造っては壊しという過程は、確実に現場の士気を下げてしまう。汗水を垂らして造り直したところで、また一から遣り直す事になるかも知れないという危惧が頭を過ぎる。最近の疲労感はそれが原因なのかも知れない。

 それでも、誰も大っぴらに文句を言わない。黙々と解体作業に取り掛かる。気乗りがしなかろうが、面倒だろうが、遣らなければならない。作業員に出来るのは、上司うえの指示に従う事だけだ。

 各々が持ち場に散って行く瞬間、誰かの鼻歌混じりの呟きが聞こえた。

「いつになったら完成するのやら~」


              ◇


 昼休みを知らせるサイレンが天空に吸い込まれて行く。作業員の多くが周辺の大衆食堂を目指して下界へと降りて行く。朝の混雑には及ばないものの、エレベーターはやっぱり鮨詰めになる。

 僕は、建材が散らばる埃っぽい作業場で一人、弁当を広げるのが日課になっている。勿論、中身は代わり映えがしない。配給食の残りで構成されたものだ。同僚達は『弁当派』というだけで羨ましいらしいが、僕に言わせれば圧倒的に選択肢の多い『外食派』の方がよっぽど羨ましい。

 配給食はいつも充分に届けられるのだから、前時代的な『節約』など必要ない。にも拘わらず、ハルカは専業主婦への憧れからそれをやってしまう。何処で覚えたのか、SDGsなる略語を持ち出してその気になっている。


 腹に詰めるだけの昼食だが、職場からの眺めが全てを忘れさせてくれる。ここから下界を見下ろしていると、自分が〔CBP〕の中枢に参加している人間だと再確認出来、一般庶民のしるべとして時代をリードしている事に自負を感じられるのだ。

 目を遠くへ移せば、別の『逆さ漏斗』が地平の大気に幾つも揺らいで見える。進捗状況の違いからそのシルエットに統一感はないが、他の現場も日夜頑張っている事を思えば、気力が再充填される思いだ。


 僕がここで働き始めてどれくらいになるだろう。来る日も来る日も同じ職場で、同じ顔触れで、同じような作業をしている所為か、暦の感覚が麻痺し勝ちだ。

 官営高次学校の在学中に〔CBP〕への参加資格を取得し、卒業後は直ぐに現場に派遣されたのだから、もう三年になる訳だ。

 ハルカと知り合ったのはこの土地に来た直後だった。場所は現場近くの定食屋、ハルカはそこでアルバイトをしていた。彼女も建設現場のお膝元ならば食うに困らないだろうと地方から出て来た口だった。共に新天地を目指して来たという共通点から、親しくなるのに時間は掛からなかった。

 結婚話が出たのはそれから間もなく、式はプレハブ造りの町内会館で執り行われた。細やかなものだったが、両親、親戚、ご近所さん、そして職場の連中が祝福してくれた。僕達は誰よりも幸せ者だと感じたものだ。


 結婚を機に現在の公舎へ移り、翌年には三人家族になった。

 トワの誕生は、僕達の未来を更に光溢れるものにしてくれた。僕は以前にも増して仕事に張り合いを感じるようになったし、ハルカもあれでいてずっと僕を支えてくれている。

 そして何よりも、平々凡々の暮らしながらも大きな不満も不幸もなく日々を送れているのは、〔CBP〕に参加させて貰っているからに他ならない。我が家の存在は〔CBP〕と共にある。この先も共に発展して行く事だろう。


              ◇


「やぁ、隣に座っても良いかな?」

 不意に背後から声を掛けられた。誰かと思えば班長だった。片手に風呂敷包みを持っている。

「どうぞ」

 僕は腰掛けていた鉄骨の端へと腰を移した。

 普段、班長は『外食派』の筈だが、腰掛けるや否や風呂敷包みから弁当箱を取り出した。黒塗りの中々立派なものだった。僕は思わずアルマイト製の我が弁当箱と見比べてしまった。

「偶には下界を眺めながら食べるのも良いと思ってねぇ」

 そう言いながら班長が黒塗りの蓋を開けた瞬間、僕は感嘆の吐息を引き出された。色取り取りの鮮やかな食材がひしめいていたのだ。腕に選りを掛けた、という表現が自然と思い浮かんだ。

「豪華ですね」

「うちの奴は専業主婦の鑑になりたいらしくてね」

 班長が笑みを浮かべる。長い事、同じ職場で働いているが、こんな表情を見たのは初めてだ。

「愛妻弁当って奴ですか?」

「まぁね、お互いにね」

 班長が僕の弁当をちらっと見たので、この雲泥の差を先んじて自虐的に笑いにしてしまおうかと迷った。しかし、会話はそこまでだった。班長は途切れなく箸と口とを動かしている。気まずさも重苦しさも感じていないようだった。

 毎日、顔を合わせていながら互いのプライベートはまるで知らない。何を話せば良いのか、正直、班長の彼是にまるで興味が湧かない。さっさと食べ終えて適当な口実でこの場を離れようかと思案を巡らせている矢先、班長が閉ざしていた口を開いた。

「あれ……何だろうねぇ」

 視線の先を追う。下界に広がる猥雑な商店街の向こう、竣工間近と聞いている例の簡易小学校が目に留まった。

 その様子がおかしかった。どうおかしいのかと問われても上手く説明が出来ない。建設作業を日常として来た人間の勘とでも言うべきものに違和感をもたらしたのだ。

「何でしょう……ね」

「何だろうねぇ」

 班長も同様の違和を覚えているように見えた。

 次の瞬間、何かが破裂したような音と共に砂煙が舞い上がった、と思ったら、忽ちその中に校舎が沈み込み始めた。

 僕は呆気に取られた。が、間もなく穏やかな既視感に襲われた。あの校舎も何らかの問題が持ち上がり、建て直しになったに違いない。

 砂塵が薄らぐと、校舎があった場所に瓦礫の小山が築かれていた。低層建築ならば順繰りに解体するより一挙に爆破するのが賢明だ。周囲は住宅が密集しているが、全く爆破の被害は出ていない様子だった。余程に手馴れた作業車が携わったのだろう。見事の一言だった。

 形あるものが一瞬にして霧消するその光景に、僕は不思議な清々しさを覚えていた。


              ◇


「お帰りなさい」

 ハルカはまた判で押したような口調だ。

 だが、僕はもう何も言わなかった。すっかり専業主婦の役割が染み付いてしまっている事に、彼女自身は何の自覚もないのだろう。それに、現場がNG宣告を受けたその日に物申すのは億劫そのものだ。

「トワ~、たっだいま~っ」

 から元気で子供部屋に顔を出すと、トワは相変わらず積み木遊びに邁進していた。

 また塔を作っている。窓からあんなに立派な建築物が見えるのだから、影響を受けるのは当然か。父親の成果を毎日しっかり見ている証拠だと思えば喜ぶべきだろう。

「ねぇ、知ってる? 小学校が一から建て直しになったんだってっ。トワの就学に間に合うかしら」

 一週間前と同じ食ぎが並ぶ食卓でハルカがぼやく。

 一瞬、昼休みに目撃した光景が脳裏で明滅した。あの時に感じた妙な心持ちも少し甦った。

「まぁ、仮り校舎でも建てば問題ないだろ」

「それはそうだけど、入学式は簡易じゃないと良いけど」

「贅沢言うなよ、そもそもが小学校卒なんだから」

「だけど、納得が行かないって言うか。本当の本音を言えば、CBが完成して、その中の正式な小学校に入学出来たら最高なのに」

「ははっ、そんな夢みたいな事を」

「解かってるわよ。飽くまでも夢、夢の話よ」

「今はまだ我慢の時だ。未来は直ぐそこにあるよ」

 未来は直ぐそこにある――僕は何かと言うとこの台詞を吐いている気がする。ハルカの不平に終止符を打つ便利な言葉だからだろうか。

 僕は心の中で改めて呟いてみた。

 未来は直ぐそこにある――自分に酔い痴れる僕が居た。


 夕飯が済むと、トワはまた積み木を始めた。一人っ子の宿命なのか、根っから一人遊びが得意らしい。

 近所に地域住民が自主的に作った保育所があり、以前はそこへ通わせていた。しかし、トワは全く場の雰囲気に馴染めなかった。と言うよりも、同世代の子供達に全く関心がなく、頑なに馴染む事を拒否しているようだった。最初は強制的に通わせていたハルカも、今はもう完全に諦めてしまった。

 考えてみれば、僕は久しくトワと一緒に遊んでいない。休日はごろ寝で潰してしまい、積極的に相手をしていない。それがトワの性格を偏向させる一因なのかも知れない。

「トワ、パパとお散歩に行かないか?」

「…………」

 トワは僕の顔を不思議そうに見た後、また積み木を弄り出した。

「積み木も良いけど、偶にはお外の空気も吸わないと駄目だよ」

 僕は、愚図るトワの腕を強引に引いて玄関へ向かった。それでもトワは三角錐の積み木を握ったままだ。

「こんな時間から散歩だなんて」

「思い立ったが吉日。そんなに遠くへは行かないから」

 偶には父子だけの時間を持ちたかった。僕はハルカを残し、トワを夜の静寂へといざなった。


              3


 疎らな街灯が辛うじて道の存在を示している。夜色に染まった自宅界隈がまるで見知らぬ町のように思え、子供時代の遠い記憶が目の前の風景に重なった。

 祭りの日だけは、夜遅くまで表を出歩く事が許されていた。友達と連れ立って徘徊する町はほんの近所でも昼間とは様相を変えていて、大いに冒険心を擽られたものだった。

 街灯が作り出す自分の影に得体の知れない生き物を連想し、ざわめく黒い木立に禍々しい惨劇の予感を覚え、建ち並ぶ家影の列を無我夢中で走り抜けると、夜空に冴えた満月が笑っていた――。

 そして現在、眼前にはあの時と同じ月を貫かんばかりに巨大な影が堂々と聳え立っている。

「トワ、あのでっかい影が何だか判る?」

「……バベル」

「そう、コンプレックス・バベル。バベルはどんな所?」

「……パパの」

「パパの?」

「パパの……仕事場」

「そう、よく出来ましたっ」

 我が子を褒め称えながら、僕は父親の存在感を示す絶好の機会だと閃いた。

「トワ、バベルに上ってみたくないか?」

 初めてトワの表情を生気を帯びた。真ん丸の目が月光を浴びて輝きを増す。

 僕達は競走とばかりに偉大なる巨影に向かって走り出した。


              ◇


 当り前だが、建設現場には人っ子一人居なかった。

 毎朝この場所で通勤ラッシュが起きている事が信じられない程、静寂に沈んでいた。毎夜このくらいの時間に作業現場に入っておけば通勤も楽だろう。これからは前夜の内に職場に泊まろうか、と馬鹿げた考えが浮かんで消えた。

 厳密に言えば作業時間外の立ち入りは禁止だが、それは建て前で、何処も彼処かしこも錠など掛かっておらず、配電盤さえその例外ではない。これをだらしないと捉えるべきなのか、大らかと考えるべきなのか、判断が分かれるところだが、

「あれ……?」

 月明りを頼りに配電盤を探ると、エレベーターの電源がオンになったままだった。最後に使った者が切り忘れたのか。

 昇降ボタンを押す。鈍い作動音と共に扉が開く――筈だったが、エレベーターは上階からゆっくりと降り始めた。

 流石にいぶかった。何故、降りて来るのだろう。全ての作業員が帰宅した時点で、エレベーターは地上階に停止していなければおかしい。

 僕の疑問を余所に、トワは今や遅しとエレベーターを待っている。こんなに心を躍らせている息子を見るのは初めてだ。

 エレベーターはこの一機だけではない。各所に十機以上、設置されている。上階で止まったままのものがあっても不思議ではない。トワの気分に水を差したくない僕は、都合良く自分を納得させた。

 やがて到着したエレベーターがぶっきら棒に口を開いた。

「パパの仕事場へご案内~っ」

 低音を響かせながら非常灯を点した空間がゆっくりと駆動し始める。エレベーター自体が初体験のトワは燥いでいる。僕にとっては日常そのものでも、トワにとっては立派なアトラクションだ。

 金網越しに剥き出しのコンクリートが上から下へと流れて行く。単調で無機的な移動が続き、トワの関心が薄れ始める頃、視界が瞬時に夜景へと転じた。夜風が一気に吹き込み、たじろいだトワが僕にしがみ付く。

「大丈夫だから……ほら、見てっ」

 僕の声に、トワは瞑っていた目を恐る恐る開けた。

 まるで中空を飛んでいるようだった。さっきまで目紛めまぐるしく視界を阻んでいたコンクリート壁が終わり、金網の向こうに満天の星空が展開している。毎日エレベーターに乗りつつ、夜の鳥瞰はどんなものだろうかと興味を持っていた僕にとっても、それは想像を上回る眺めだった。

 怯えていたトワは金網に張り付き、『空中上昇散歩』を楽しんでいる。

 下界に目を遣る。繁華街の辺りは色取り取りだが、住宅街の灯は疎らで、その周りを囲むように残された未開拓地域に至っては濃厚な漆黒色に沈んでいるが、そう遠くない将来、一面に宝石をばら撒いたようになる筈だ。

 しかしながら、現在のようなトラブル続きの作業日程では竣工時期に遅延が生じる事は否めない。願わくはトワが成人するまでにと思っているが、恐らくは間に合わないだろう。

 それならば、トワの世代にも計画の一翼を担って貰えば良い。皆で力を合わせ、今か今かと具現化の瞬間を待っている図面上の未来を一分の一スケールで展開するのだ。先の世代と共に大事業を成し遂げるというのも悪くない。寧ろ素晴らしい事ではないか。

「パパ、着いたよっ」

 トワが僕の袖口を引っ張っている。気分が高揚している間に、エレベーターは指定の階に到着していた。

 流石に煌々と明かりを点けるのは気が引ける。僕は手近の作業用ライトを手に取った。

「パパから離れないで、暗いから気を付けるんだよ」


 夜の職場は無気味な印象を内包していた。周囲を見渡せば冷たい鉄骨が規則正しく林立し、足元を見渡せば鋼材の切れ端や放置されたままの工具が照明の加減で複雑な影を伸ばしている。

 そんな煩雑さもトワには遊び場に見えたようで、そこら中を走り回ってはボルトやナット、針金の切れ端を拾い上げたり、鉄骨を撫で回した。フロアの縁には落下防止のネットが張られているので心配はない。僕はその場に越し掛け、ちょこちょこと響く足音を微笑ましく聞いていた。


 突然、遠くで金属音がした。からんからんと金属片が鉄骨に当たりながら落ちて行く、そんな響きだった。トワもその音に気付き、動きを止めている。トワの悪戯でない事は確かだった。

 総毛立った。同じ空間に、自分でもトワでもない第三者の存在を連想したからだった。

 一方、トワは好奇心からか音の発信源の方へ近寄って行く。

「そっち行かないでっ、パパんとこに来てっ」

 僕は足早にトワの方へ向かった。

「あっ……」

 トワがか細い声を上げたと思った瞬間、その身体が鉄筋柱の影の中にすうっと引き摺り込まれた。

 僕は、はっとして立ち止まった。影の中にトワのものとは違う息遣いの気配を感じたのだった。

「……誰っ? ここは立ち入り禁止だぞっ」

 そう言う僕も禁を破っている。もし相手に同じ台詞を吐かれたら、僕も答えに窮するだろう。

 しかし、トワの手前、弱々しい姿を見せる訳には行かず、上からものを言う態度を貫く事にした。どうせ相手は飲んだくれか何かだろう。ねぐらを探して侵入し、悪戯心でトワにちょっかいを出しただけだ。僕は楽観する事で恐怖を振り払おうと心掛けた。

「パパァ」

「トワッ、大丈夫か? おい、息子を放してくれないか」

 薄暗がりに慣れて来た僕の目に、トワを羽交い締めにしている人影がうっすらと浮かび始めた。相手が男である事は何となく判った。

「放してやっても良いが……この坊やは好奇心が強過ぎるようだ。もう少し行儀良くさせてくれ……」

 言葉の意味よりも先に、声そのものが僕の意識に引っ掛かって来た。

 が、男は僕に考える隙を与えない。

「……どうする?」

「分かりました、分かりましたからトワをっ」

 すると、影の中からトワが走り出た。僕は一目散に戻って来たトワを抱き上げ、エレベーターの方へ急いだ。

 しかし、僕はどうにも声の主の事が気になって仕方がなかった。酔っ払いや浮浪者の類ではない。こんな時間にこんな場所で、あの男は一体何をしているのだろうか。

 僕はトワをエレベーターに乗せ、扉を閉めた。

「パパはさっきの小父さんとお話があるから、ここで大人しく待ってるんだよ」

 半べそのトワがこくりと頷いた。こんな時に聞き分けが良いのは大いに助かる。

 元の場所へ取って返すと、男は暗がりの中でごそごそと何かを弄っている。僕の気配に気付いても作業の手を止めず、独り言のように呟いた。

「その場その場の取って付けたような不具合じゃ焼け石に水だろう? もっと効果的なやり方が必要だと思ってね」

 何の事やら話が見えないが、男は構わずに続ける。

「作業を遅らせるんだよ……建設作業をさ」

「どうして?」

「竣工を先送りにする為に決まってるだろう」

「だから、どうして先送りにっ」

 図らずも大きくなってしまった自分の声に驚き、僕は息を飲み込んだ。そして、改めて冷静に問うた。

「このまま〔CB〕が完成したら、何か問題でも?」

「あぁ、国家的な大問題だ」

 相変わらず一定の距離を保っている為、暗がりに潜んだ男の面立ちまでははっきりしない。

「ここでお前さんと議論しても仕方がないが……準備は済んだ事だし、知りたけりゃ聞かせてやろう」

 僕は、聞きたいとも聞きたくないとも返答出来なかった。聞いてみたい気もしたが、聞いてしまっても良いのか、そんな複雑な思いが咽喉を詰まらせていた。

「〔CBP〕ってのは言わば国民総幸福化計画だ。大切なのはプロジェクトの成就じゃなくて存続、永遠の進行形であり続ける事にある。再帰可能な開発目標Recursive Development Goals、即ちRDGs」

 脳裏に例の簡易小学校が倒壊する光景が瞬き、僕に反論を促した。

「それじゃあ、いつまでも夢は叶わず、真の幸福はやって来ないじゃないですか」

「それで良いんだ。皆で一緒に果てしない夢を膨らませ、揺るぎない幸せを希い、遠くない未来に思いを馳せる……それで何もも丸く納まるんだよ」

 男の口調は、己に陶酔するような響きを帯び始めている。そうなればなる程、男に狂気の色を感じざるを得なかった。単なる妄想の塊であればまだ良い。もし誰かの命令で動いているのだとしたら、本気で馬鹿げた理屈を実行に移そうとしているのだとしたら、企ての一端を知ってしまった僕は唯では済まないのではないか――。

 大袈裟かも知れないが、死という最悪の結末が頭を掠めた。同時に失職という二文字も去来した。そして、〔CB〕で働けなくなる事にこの上のない絶望を感じた。馘首にされたら、先ず公舎を立ち退かなければならない。この町で暮らす資格を失い、見知らぬ土地で上手くやって行けるだろうか。現場一途に生きて来た僕に、他に何が出来るだろうか。〔CBP〕から放り出された男を雇ってくれる人が居るのだろうか。もしかしたら再就職が出来ないように全国の建設現場に通達が出されるかも知れない。

 かと言って、今更、都落ちなどご免だ。故郷には碌な仕事がないし、両親や親戚に顔向けが出来ない。経済的に余裕が出来たら皆を呼んで〔CB〕の下で一緒に暮らす算段になっているのだ。

 狼狽える僕の様子に、男は苦笑いで言った。

「ふははっ……心配するな。あんたが今の話を口外したところで、誰が本気にすると思う? 一笑に付されるのが落ちだ」

 張り詰めていた空気が和らぐ気がした。今までの話は何もも冗談に取れなくもなかった。

「さぁ、夜も更けて来た。坊やもおねむの時間だ。今夜の出来事は全て夢……そういう事でお開きにしようじゃないか」

 男はそう言いながら自らは腰を上げようとせず、一方的に僕を帰らせたいらしい。

 僕は敢えてそれ以上、問いたださなかった。否、問い質す勇気がなかった。世の中にはおかしな妄想を抱く人間が居る、それで済ませば良い。勿論、今夜の事を誰かに話すつもりはなかった。

 本当は確かめたい事が残っていたが、相手が正直に答えるとは思えないし、確かめたところで、――僕は後退りでゆっくりその場を離れるしかなかった。


 トワは熟睡していた。

 エレベーターの床には宝探しのように集められた鋼材の破片が散らばっていた。その真ん中に、家から持って来た三角錐の積み木があった。僕を待っている間も建設破壊遊びビルドアンドスクラップをやっていたらしい。

 僕はトワを抱き上げながら、夢の中でも塔を作っているのだろうか、と思った。


              4


 翌朝〔CB〕は混乱の只中にあった。警察は勿論、マスコミらしき連中も駆け付け、頻りに声を張り上げていた。

『先程からお伝えしておりますように、本日未明、〔CB〕の建設現場で原因不明の爆発事故が起きましたっ』

『死傷者、被害情況等、まだ詳しい事は判っておりません』

『我が国の建設史上、最大規模の事件になる事は間違いないと思われ――』

 大騒ぎを余所に、僕は至って冷静だった。

 夜明け前、僕は夢現ゆめうつつで微かな音と振動を感じていた。が、それは男の語った妄想が偶さか正夢になっただけ――そんな暢気な感想が靄の掛かった脳裏に浮かんだだけで、眠気を追い払う事は出来なかった。

 ベニヤ板で拵えたプラカードが人群ひとむれから幾つも突き出ている。それぞれに〔2―A班〕とか〔4―C班〕とか各作業場の区画番号がペンキで書かれている。班毎に召集を掛けているらしい。

 人波を掻き分け、やっとの事で自分の班の溜まりへ辿り付いたが、同僚達も至って平静を保っていた。爆発があったのは夜明け前だから死傷者は居ないだろうし、例のデザインの変更で解体作業を始めていたから、寧ろ手間が省けて大助かりくらいの和やかなムードだった。

「今日の作業日程はどうなるんだろうね?」

「さぁ、班長に訊かないと」

「その班長がまだ来てないんだよ。珍しいよな、あの真面目人間がこんな時に遅刻だなんて」

『通常、作業現場では火薬等の危険物の使用はない為、何者かが爆発物を仕掛けた疑いが強いという事ですっ』

 背後でレポーターが上擦った声を出している。興奮した自分自身の声に煽られているようだった。

 そんな滑稽な生態をぼんやり眺めていると、眼前にマイクが突き出された。

「どうですかっ⁉」

 漠然と問われてもどう返して良いのか。テレビカメラがレポーターの後ろから僕を狙っている。どぎまぎする僕を同僚達がにやにやと眺めている。

 僕は吹き出す汗もそのままに、しどろもどろに目を泳がせ続けた。

「誰の仕業なんでしょうかねぇ……ははは」


 その後、別班の班長が代理で本社からの伝達事項を発表した。

「警察の現場検分があるので本日の作業は中止、全作業員は解散、明日から通常通りに作業再開の予定。以上です」

 代理の班長も我が班長の欠勤の理由を聞いていないとの事だったが、それでも僕は食い下がった。

「自宅へは確認を入れたんですか?」

「勿論です。しかし全く通じないようです」

「奥さんも出ないですかね」

「奥さん? 結婚してたかなぁ、あの人」

 一瞬、脳裏にあの煌びやかな弁当が浮かんで消えた。


              5


 突然、休日扱いになってしまい、皆で繁華街へ繰り出そうという事になったが、僕は一家団欒の良い機会にしようと断った。

 が、直ぐに思い直し、繁華街へ向かった。但し、皆と合流するつもりはなかった。一人でとっくりと考えたかったのだ。

 久し振りの繁華街は相変わらずの賑わいだった。道行くどの顔も生き生きとしている。まるで活気そのものを売り買いしているかのようだった。もしかしたら爆破事件の余波が人々の心に妙な高ぶりを加味しているのかも知れなかった。

 僕は適当な横丁に入り、一杯飲み屋に腰を据えた。

 日除けのボロ布の穴から差し込む午後の陽射しの下、飯台の横を引っ切りなしに行き交う人影を眺めながら、昨夜の一件に思いを馳せる。

 成就、遂行、結実――それは夢の終着点。

 夢の実現は幾許かの達成感や満足感を与えてくれよう。しかし、その歓喜は決して未来永劫の効用を約束してくれない。否応なしに日常の波頭に砕かれ、藻屑と消えてしまう。一度、夢見の味を占めた人間は、その快楽を得るべく更なる目標を掲げ、進歩、発展、成長という名の気付け薬を自らに投与し、未だ見ぬ未来の青図面を金科玉条の如く奉りながら自己犠牲的な情念の虜に堕し続けるのだ。

 この猥雑な盛り場も〔CB〕が完成する頃には一掃され、広大な駐車スペースになる予定と聞いている。ここで暮らす誰もが、ここへ集う誰もが、その事を知っている筈だ。それが来るべき時代の姿であり、皆の幸せの為だと納得し、〔CBP〕の旗印の下、今日も今日とて矮小な日々を送っている。

 僕は水っぽい酒を飲み干し、飯台に酒代を転がして席を立った。

 辺りはやけに薄暗い。俯き加減の顔を上げると、煤けた看板とトタン屋根の間から覗く空模様がいつの間にか怪しくなっていた。

 否応なしに我が職場が視界に入って来る。だが、それはもう天を突き抜かんばかりに聳えた昨日までの誇らし気な勇姿ではない。

 爆発物は要所要所の階に仕掛けられていたらしく、〔CB〕は爆破された箇所毎に右へ左へと折れ曲がっている。瀕死の怪物が最後の力を振り絞り、身をくねらせながら飛翔して行く醜態にも見え、それはそれで或る種の芸術作品のような趣きを醸し出していた。

 爆薬の量や仕掛ける箇所を少しでも間違えれば、周辺の人家に甚大な被害を及ぼしただろう。僕の家も妻子も瓦礫に潰されていたかも知れない。

 そんな紙一重の暴挙を、あの男は見事にやってのけた。〔CB〕だけに致命傷を負わす事に成功した。手慣れた人物であればこその神業だ。

 彼は何処へ消えてしまったのだろう。

 もう職場には顔を見せないのだろうか。

 まさか、自らの自爆を含めて夢を完成させたのだろうか。


 あんな無様な姿になってしまった以上、〔CB〕が一から造り直しになる事は確実だ。計画は大幅に先送りになる。僕が現役作業員でいる間には完成しないだろうが、続きはトワの世代が引き継いでくれる。

 逆に考えれば、僕の一生は保障された事になるし、後続世代も当分は安泰だ。正にあの男の思惑通り、遠くない将来の夢と幸せと未来が約束されたのだ。

 疎らに落ち始めた雨粒はあっと言う間に辺り一面を包み込み、廃墟CBの輪郭をおぼろにして行く。

 やっぱり真っ直ぐ帰宅するべきだったか――僕は雨垂れに小突かれながら軽く後悔し、直ぐにその後悔を取り消した。どうせハルカの料理はマンネリで、トワは例の積み木遊びに夢中だ。


 今回の事件が平らかな日常にちょっとした楔を打ち込んだ事は確かだ。しかし、直ぐに、そんな事もあったね、くらいの記憶に堕するに決まっている。明日からまた判で押したような毎日が、未来を夢見る幸福な日々が連綿と続くのだ。

 今日一日くらい羽目を外して酔い潰れるのも悪くない。僕は繁華街の何処かで屯している同僚達と合流するべく、雨と人波の中へ紛れ込んだ。

 未来は直ぐそこにある、再帰可能な開発目標Recursive Development Goals=RDGsと共に――男の理屈が無意識に口を衝いて出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

積み木の幸福論 そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画