3-3

 他者の命をまなければ金貨を得られない奈落では、昼夜問わずどこかで誰かが殺意を向け合っている。ひとりぶんの死体を埋葬すれば、またどこかで新たな亡骸が供花きょうか代わりの血潮に包まれて地面に横たわる。

 だから、アマネの友人を埋葬したからといって、ソラの『散歩』が終了するということにはならない。帰るべき場所、眠りにつく場所を失ったままの孤独な誰かを探してひた歩く。

 栄養が尽き果てて干涸ひからびた土壌は踏み締めるたびに靴底と砂利のこすれる音が鳴る。常時命を狙われる危険がある奈落を散策する時において、些細な物音でも自らの所在をしらせる情報となり得てしまう。

 その点、ソラは長きに渡って『散歩』を続けてきた経験から、本人も気づかぬうちに気配や物音を断つすべを身に付けていた。足音を立てない歩きかたや衣擦れの鳴らない動作、気配のひそめかたまで独学で会得した現在のソラは、まるで弱肉強食の世界を生き抜かんとする野生の獣のようだ。

 細やかな砂塵を攫いながら頬を掠める風の声だけがソラの鼓膜を震わせる唯一の音。けれど、今は違う。


「……なあ、」


 喉に力を入れて押さえつけ、敢えて低い声を作る。


「あんた、俺の前か隣歩いてくれないか?」


 顔は進行方向を向けたまま、けれど問いかけた相手はソラの背後にいる。え、と薄ら驚きを滲ませた小さな声が聞こえた。


「……それは、どうして?」

「後ろに誰かにいられると落ち着かない」


 正確には、腕を伸ばせば触れられる距離に他人がいることが、だけれど。細かく指摘するとまた皮肉が飛んできそうだったから、敢えて控えめにした。

 後ろをついてくる跫音きょうおんが奏でる律動が早くなり、彼女が歩速を上げて距離を詰めたのだと察する。


「もしかして、私に殺されることを警戒してるの?」

「まあ、それもなくはねぇけど……妙に足音が気になるっつうか、気ぃ抜いたら敵と勘違いしちまいそうっつうか……」

「普段はひとりでいるから違和感がある、ということ?」

「そう、だな。そんな感じ」


 ふうん、と含みのある声韻の相槌が返る。彼女の歩く速度がさらに早まり、ソラの視界の端に白茶色の髪先がしなやかに翻ったのが映った。


「わかったわ。でも、あなたの前は嫌。私だって殺されたくないもの」

「誰が——」


 殺すかよ、と言いさして、口をつぐんだ。どれだけ潔白を表する言葉を並べ立てても、所詮は真実性に欠けた空虚な音の羅列。誰であろうと紡がれた言葉の全てが真実ならば、この世に嘘という単語は存在していないはずだ。

 不自然な区切りかたをして黙してしまったソラを、彼女が問いただすことはなかった。上腕一本ぶん空いている距離を静寂で満たしながら、ふたりは道なりに歩き続ける。

 ソラの言う『散歩』もとい死者の埋葬は、自宅を出て数時間後に帰宅するまで、ひたすら同じ行動を繰り返すしかない。死体を発見すれば直ちに埋葬して、終了次第新たな死体を探して当てなく歩き、再び発見したら埋葬して、また方々ほうぼう彷徨さまよって。そのふたつの行動を日が暮れるまで反復する。

 日によっては死体がひとつも見つからないことがあったり、一度に複数人を発見することもある。一処ひとところに死体が集合している場合は大抵が一家全滅だ。幼い我が子を胸に抱え込む恰好で沈黙している有様は、幾人もの死姿しにすがたを見届けてきたソラですら胸が張り裂けそうになる。


 次なる死体を探すふたりが歩いているのは、初めて彼女と対面した民家から一直線に伸びる遊歩道である。大通りから道路三本ぶん離れた区画に立ち並ぶのは大半が一軒家で、どれも当時の面影を失って瓦礫ばかりがうずたかく積み上がっている。遊歩道とその外とを分かつ段差に沿って等間隔に樹木が植えられていた痕跡が見られるあたり、もともとは近隣住民の散歩に愛用されていたのだろうと悟る。

 隣に並ぶアマネ流眄ながしめで見下ろす。身長差のせいで彼女の表情までは窺えないけれど、鼻先を右斜め前へ向けて遠くの風景を眺めている姿には果敢はかない哀愁が感じられた。


「……そういえば、言い忘れていたわ」


 ふと思い出したように、彼女が口を開いた。こっそり様子を窺っていたことを咎められると思い、ぎくりと肩を強張らせる。

 しかし次の時、彼女の桜唇から紡がれた言葉にソラはいっとき、呆然と目を見開いた。


「あの子を埋葬してくれて、ありがとう」


 真直ぐに見上げてくる、白茶の瞳。心の奥底まで暴かれてしまいそうなほどに、清麗に透きとおった色彩の。

 思考が滞って、耳朶を震わせた音だけが脳内を巡る。まるで彼女に停止を命じられたかのようにぴたりと足を止め、その場に立ち尽くす。唐突に立ち止まったソラと、歩速を緩めなかった彼女との間に二歩ぶんの距離が生まれた。


 ——なんで、俺が礼を言われてんだ?


 少し先で遅れて歩を止めた彼女が振り返り、色素の薄い白茶の髪があえかに降り注ぐ陽光をね返してきらめく。その毛先が宙にえがく光跡を視線で追いかける。今のソラにできる行動は、なんの意味も成さないそれしかなかった。

 ありがとうとは、感謝を告げる言葉だ。親切にしてもらった時、なにかを手伝ってもらった時、喜ばせてもらった時などに、音を乗せて相手に伝えるための。


 ——別に、礼を言われるようなことしてないよな?


 確かに、彼女の友人の亡骸は埋葬した。けれどそれは、あくまでソラの自己満足に過ぎない。かつての住まいである楽園には死者を埋葬し追悼する習わしが伝わっていたけれど、奈落には存在しない。そも、『奈落堕とし』に処されている時点で人ならざる者として扱われているのだから、人間ための葬送を執り行う必要がない。

 だったらなんで、とどれだけ思案を巡らせたところで、答えはいっこうに見つからない。代わりに口をいて出たのは、思考を包み隠さずさらけ出したような直球の問いかけだった。


「あんた、なに企んでる?」

「……は?」


 ぴりっと柳眉を吊り上げ、彼女が双眸に鋭利な光を宿して睨まれる。もともと口数が多いほうではないことは知っていたけれど、そのたったひと言に込められた感情は、これまで浴びせられてきた数々の皮肉を遥かに凌ぐほどの凄みを孕んでいた。

 思わずたじろいで、ソラは言い連ねる。


「だっておかしいだろ、なんであんたが俺に礼を言うんだよ? 感謝されることなんてなんもしてないのに……」

「……あなた、本気で言っているの?」


 呆れたわ、と彼女も取り繕うことなく本音を呟いて、溜め息を落とした。ゆとりのある白い外套に覆われた華奢な肩をこれ見よがしに上下させて、いかにも皮肉げに。


「自分以外にも友人を想ってくれる人がいることを知って、嬉しいと思わないわけがないでしょう?」


 はっとソラは瞠目する。まるで雷にでも打たれたかのような衝撃が鼓膜を伝って全身を駆け巡る。

 心情を丁寧にほどいて適切な形にり合わせたような言葉でようやっと理解できたから、ではなく、自身では考えが及ばなかった第三者の思いに初めて触れて、ただただ驚愕するしかなかったのだ。


 父親の『散歩』に同行していた頃も、現在も、他に居合わせるのは死体ばかりだった。死体は喋らない。ざらしのまま朽ち果てる定めだったはずの自らのしかばねを、粗末でありながらも埋葬されたことへの胸中を明かすことは決してない。

 だから、これが初めてだった。

 埋葬された側の心根に触れたのは。


「その様子だと、本当にわかっていなかったみたいね」


 再び、彼女が嘆息する。


「そこまで驚くことでもないでしょう。それとも、私の言ったことが信じられないとでも?」

「……だ、だって、普通は気持ちわりぃって思うだろ、見ず知らずの人間の死体を埋めてんだから。つか、これまでいろんな奴にそう言われてきたし……あんたもどうせそうなんだろうって……」

「それは私も、初めはなんてことをしているのかしらとは思ったけれど」

「思ってたのかよ」

「でも、それ以上に嬉しかったのよ。大事に弔ってもらえて。……奈落では、あまりにも死が身近にありすぎるから」


 きびすを返してこちらに背を向けた彼女が、顎先を持ち上げて僅かに上向く。重々しく重なり合う灰色の雲の向こう側に広がる碧霄に思い焦がれるように、遠く目を向けて。


「命あるかぎり、死は平等に巡るものよ。人間にも動物にも、植物にも等しく。だけど、常に死が隣り合わせにるのは、決して当たり前じゃない」


 私は、と言葉が繋がれる。彼女の声色はよるなかに降りしきる小雨のようにささやかで、端々に哀憐の色が滲んでいる。


「死が当たり前ではないことを、忘れずにいたい。死に慣れきって無感情な人間にはなりたくない。愛する人の死から生まれた感情を、大切に、丁寧に、心に刻み続けていたいの」


 こいねがうような音吐で告げる姿に、ソラは思う。

 屍肉漁りスカベンジャーの噂を知ってか知らずか、彼女が死体のそばに留まっていた理由。いつ誰に命を狙われるかもわからない屋外に、無防備に身を置いていた意味。その全ての根幹はきっと、これなのだろう。


「だから、遺品を探してたのか?」


 繻子しゅすの髪を柔らかに揺らして、彼女が半身だけ振り返る。光の加減だろうか、横髪を耳にかけて露わになった彼女の瞳に薄い涙の膜が張られているように見えた。


「ええ、そうよ。……どう? 気持ち悪いと思った?」

「……誰がんなこと思うかよ」

「そう。あなたが死体と向き合う姿を見て私が感じているものは、あなたが今いだいている感情と同じよ」


 遠回しに、気持ち悪いだなんて思っていないと彼女が否定する。ソラに自らの思考を理解させるために示した例、というわけではないだろうけれど、彼女の本音を知るには充分だった。

 会話が締めくくられて、しばしの間沈黙が降りる。立ち並ぶ廃屋のあわいを吹き抜ける風がふたりの体を撫ぜるなか、先に動き出したのは彼女のほうだった。


「さあ、先を急ぎましょう。早くしないと陽が沈んでしまうわ」

「あ、おい待て、勝手に行くな!」


 優雅にターンを決めた踊り手ダンサーのドレスが美しく靡くように外套の裾を広げて、アマネが先を行く。どこか軽やかな足取りで遠ざかってゆく頭ひとつぶん小さな背を、声を上擦らせながら慌てて追いかけた。

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