2-4

 荒寥の地に吹き荒ぶ風に運ばれて飛来した砂礫に横面を叩かれ、ソラは目を眇める。晴れと曇り以外の天候が滅多に訪れない奈落の土壌は水分も栄養も全く足りず、だから屋外に身をさらすともれなく砂嵐に見舞われる羽目になる。

 ばさばさと揺れる外套の両端を左手でまとめて掴み、体の中心に引き寄せる。前身頃を止めるボタンやファスナーはなく、臀部を覆うほど丈の長いそれは生地が薄いあまり防塵や防寒には役立たない。翻った後身頃が体に当たるたびに硬い感触が伝わってくる。


 奈落で生き抜くうえで武器の携行は必須だ。万が一の状況を考慮し、扱いに長けていなくとも数種類を揃えておくのが最善である。

 とはいえ、日頃ピスポケットに拳銃ハンドガン一挺のみを収めた身軽な恰好をしているせいで、外套を羽織っている時の肩を掴まれて後方に引かれているような重みにはさほど慣れていないのが現実だった。何度も針先で指を刺しながらも自力で縫って作った収納部には、大小様々のナイフが仕込まれている。

 体躯にのしかかる重量は自らの命を確実に守るための重さで、同時に誰かの命を確実に奪うための重さなのだろうと、ソラは常々思う。

 右脇に抱えた麻袋を持ち直して、ふと先刻のヨリとの会話を思い返す。


「……屍肉漁りスカベンジャー


 口のなかで転がすように呟いたその名称は耳に馴染みがなく、まるで異国の言葉のように聞こえた。

 人生の半分以上を奈落で暮らし、いくつもの身元も知らぬ亡骸を埋葬してきたソラでさえも、その存在を知ったのは今日が初めてだった。互いの命運を賭けた戦いゆえに、凄惨な姿と化した死体はもちろん何度も目にしているけれど、決していたずらに壊残されてはいない。

 自己防衛本能からくる過剰防衛。生き延びるための必死の抵抗と反撃ならば、それを咎める者はいない。

 けれど、そうではないのなら。

 たとえば、女子供のような弱者を嬲ることに快楽をいだすために。たとえば、体の一部が欠損している死体に興奮する性的倒錯を満たすために。

 己の生存とは異なる欲を潤すための凶行に走る者が、この広大な奈落のどこかにひそんでいる。


 ——もしその狂気が、あいつに届いたら。


 ざあっと土砂降りに似た音を立てて、頭頂から足元へと全身の血液が流れ落ちるかのような悪寒がソラを襲った。一瞬だけ体が硬直し、緩んだ腕からずり落ちそうになった麻袋をすんでのところで抱き止める。

 体の芯を揺るがすほどに激しい拍動を始めた心臓を、効果はないと知りつつ衣服の上から強く押さえつける。努めて深い呼吸を数度繰り返してようやく、全身を蝕む痛苦が和らいでいくのを感じた。

 反射的に止めた足は少しでも気を緩めればたちまちくずおれてしまいそうで、膝頭に手を置いて前屈みになることでどうにか耐え忍ぶ。ぎり、と噛み締めた奥歯が鈍く鳴る。


「……くそっ」


 苦々しく吐き捨てて、何度か咳き込む。数分前までは偉そうに兄貴面をしていたくせに、このザマだ。

 最悪の状況を想像しては、唯一の肉親である兄を喪う結末を真っ先に考えるのがソラの悪い癖だった。助けてやれない、伸ばした手のひらが届かない、眼前で息絶えるなどの自分の無力を容赦なく突きつけてくるような結末ばかりを導き出してしまうのは、果たして己への自信のなさの表れなのか。

 食い縛った歯が口の内側を巻き込んで噛み千切り、み出た鉄の味が広がる。


 ——ショウ


 心中で呼びかけても、返る声はない。


「……早く帰んねぇと」


 ゆるゆると顔を上げて、丸めた背を真直ぐに伸ばす。右肩を通って胸の前に垂れ下がっていた黒髪が、首筋をくすぐって背に落ちる。

 屍肉漁りスカベンジャーの存在を認知した途端に過剰に意識し始めるのは愚かだと、自分でも思う。認知した者のもとに現れる妖怪でもあるまい。それに、遭遇の確率が高いのは圧倒的に外出頻度の多いソラであり、そもそも死体を標的ターゲットとしているならばショウに危害が及ぶ可能性はほぼゼロに近い。どうせ杞憂で終わるとわかっている。

 それでも、足裏から根が伸びて地中深くに根付いてしまったかのように自由の効かない足を、強引に持ち上げて一歩踏み出す。ぶちぶちと張り巡らされた根が切れる幻聴が鼓膜に触れたような気がした。

 無用の心配でも杞憂でも、一刻も早く帰宅するに越したことはない。ようやっと平静を取り戻したソラは、再び自宅への帰路を辿り始める。


 隆起を繰り返して凹凸おうとつの激しいコンクリート道をひた歩き、大通りに出る。高層建築の残骸が立ち並ぶその道はかつて市街地の中心とされていたのか、他の土地よりも建物の密度が高く、色褪せた看板を下げたままの店舗がいくつも見受けられる。

 初めて訪れた者にとっては迷路のように感じられるであろう入り組んだ細道を迷いなく進み、しばらくするとまた別の通りに出る。時折立ち塞がる網目状のフェンスを軽々と飛び越え、ひたすら同じ方角へ進んでいくと、周囲の景色は次第に寂れて建物同士の間隔も疎らになっていった。


 奈落の変遷に興味がないソラには朧げな知識しかないけれど、ショウが言うには、大通りがかろうじて現存しているのは楽園の人間が降りてきた際の中継地点として使用されているからなのだそう。大通りから遠ざかるにつれて建築物の荒廃が顕著となり、だからソラ達が店舗を構える住宅街には全壊した住宅の残骸ばかりがうずたかく残されている。

 木っ端微塵に砕け散った家々が並ぶ惨憺たる光景を流眄ながしめに見ながら歩を進めるソラの視界の端に、突如、こちらへ向かって駆けてくる小さな影がふたつ映り込んだ。その大きさから子供だろうと推察する。


「あっ! かんきんやのおにいちゃん!」


 ソラが人影の正体を突き止めるよりも早く、向こうから叫声にも似た声色で呼びかけられた。声変わりを迎えていない幼子特有の、きんと鼓膜を刺す甲高い高音。

 忙しない足音を引き連れて疾走する子供の顔貌には見覚えがあった。名は知らないが、換金屋近隣の住宅に身をひそめている父子の、長男である八歳の少年だ。時折父親の目を盗んでは三歳下の妹とこっそり換金屋へ遊びに訪れる、良く言えば度胸のある、悪く言えば愚鈍で無邪気そのもの。

 生来の質か、緩く波打つ短髪を鳥の羽搏はばたきのように上下に揺らしながら走り迫る少年は、全力で駆けたままソラに突進してきた。とはいえ、所詮は子供の体躯。異変を察知して早くに立ち止まっていたソラは空いた左手を横に広げて待ち構え、微塵も蹌踉よろけることなく抱き止めた。


「ねえおにいちゃん、たすけて! あっちのいえのおにわにね、しんじゃってる人がいてね、それで、その人のちかくに知らない人がいて……」

「おい待て、一回落ち着いてから話せ。全然わかんねぇよ」

「う、うん。えっと、えっとねぇ……」


 興奮によって僅かに開かれた少年の瞳孔が、ゆっくりと元の大きさに戻っていく。


「……あそこのおにわにね、人がしんでたの。それで、ぼくはおうちのまどから見てたんだけど、ずっと見てたら知らない人がやってきて、しんでる人であそびはじめたの」

「死体で遊び始めた……? ……お前はそれを見たのか?」

「えっと、えっとね、すごいちかくで見たんじゃなくて、おうちから見てただけなんだけど、その人がずっとしんでる人のとなりにしゃがんでたから、なにしてるんだろうっておもって……」

「馬鹿かお前は、気になったからって外に出てんじゃねぇよ。もしそいつに見つかったらどうすんだ」

「うぅ……ご、ごめんなさい……で、でも、まだ見つかってないよ!」

「言いわけすんな」


 左の人差し指で少年の額を弾く。いたぁい、と今にも泣き出しそうに潤んだ少年の微かな悲鳴が上がった。

 子供特有の好奇心旺盛もここまでくれば看過できない。死体のそばで不審な行為を働いていることを察しているならばなおさらに。

 薄らと涙の膜を広げた双眸で恨めしげに睨み上げてくる視線を感じつつ、ソラは少年が指し示した方角に目を向ける。ソラの腰あたりまでの高さの木柵に囲まれた、ごく一般的な民家だ。少年が口にした死体と不審者の姿は、おそらく並列する一軒家の陰に隠されて窺えない。


 ——屍肉漁りスカベンジャー、なのか?


 彼の話が真実であれば、その可能性は高い。死んでる人で遊び始めた、の部分の詳細を問い詰める気は更々さらさらないが、果たして彼はその惨状を目撃したのだろうか。生者が死者の亡骸を弄ぶ、その非道を。

 まだ屍肉漁りスカベンジャーおぼしき人物が留まっているのなら、真偽を確認するべきだ。動機がなんであれ、同情せざるを得ない事情があったとしても。

 他人の死をけがす輩を、許してはならない。


 ——ショウに手を出される前に、俺が殺してやる。


 鋭く研がれた刃のように頭の奥が冴え渡っていく。絶えず鼓膜を揺らす耳障りな風音が遠ざかり、余計な情報のいっさいが遮断される。

 ソラは左手を少年の頭に乗せ、わしゃわしゃと乱雑に掻き乱す。不意を突かれて驚いたような抗議の声には無視をして、ソラは彼の横を通り抜けた。視線の先は、ひたりとくだんの民家へと据えられている。


「お前は大人しく家に帰ってろ。こっそり家出してんのが親父にバレたら、また怒られんぞ」


 ついでに死にたくなけりゃあな、と。そう言い添えなかったのは、せめてもの優しさだ。

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