2-4
荒寥の地に吹き荒ぶ風に運ばれて飛来した砂礫に横面を叩かれ、
ばさばさと揺れる外套の両端を左手でまとめて掴み、体の中心に引き寄せる。前身頃を止めるボタンやファスナーはなく、臀部を覆うほど丈の長いそれは生地が薄いあまり防塵や防寒には役立たない。翻った後身頃が体に当たるたびに硬い感触が伝わってくる。
奈落で生き抜くうえで武器の携行は必須だ。万が一の状況を考慮し、扱いに長けていなくとも数種類を揃えておくのが最善である。
とはいえ、日頃ピスポケットに
体躯にのしかかる重量は自らの命を確実に守るための重さで、同時に誰かの命を確実に奪うための重さなのだろうと、
右脇に抱えた麻袋を持ち直して、ふと先刻の
「……
口のなかで転がすように呟いたその名称は耳に馴染みがなく、まるで異国の言葉のように聞こえた。
人生の半分以上を奈落で暮らし、いくつもの身元も知らぬ亡骸を埋葬してきた
自己防衛本能からくる過剰防衛。生き延びるための必死の抵抗と反撃ならば、それを咎める者はいない。
けれど、そうではないのなら。
たとえば、女子供のような弱者を嬲ることに快楽を
己の生存とは異なる欲を潤すための凶行に走る者が、この広大な奈落のどこかにひそんでいる。
——もしその狂気が、あいつに届いたら。
ざあっと土砂降りに似た音を立てて、頭頂から足元へと全身の血液が流れ落ちるかのような悪寒が
体の芯を揺るがすほどに激しい拍動を始めた心臓を、効果はないと知りつつ衣服の上から強く押さえつける。努めて深い呼吸を数度繰り返してようやく、全身を蝕む痛苦が和らいでいくのを感じた。
反射的に止めた足は少しでも気を緩めればたちまち
「……くそっ」
苦々しく吐き捨てて、何度か咳き込む。数分前までは偉そうに兄貴面をしていたくせに、この
最悪の状況を想像しては、唯一の肉親である兄を喪う結末を真っ先に考えるのが
食い縛った歯が口の内側を巻き込んで噛み千切り、
——
心中で呼びかけても、返る声はない。
「……早く帰んねぇと」
ゆるゆると顔を上げて、丸めた背を真直ぐに伸ばす。右肩を通って胸の前に垂れ下がっていた黒髪が、首筋をくすぐって背に落ちる。
それでも、足裏から根が伸びて地中深くに根付いてしまったかのように自由の効かない足を、強引に持ち上げて一歩踏み出す。ぶちぶちと張り巡らされた根が切れる幻聴が鼓膜に触れたような気がした。
無用の心配でも杞憂でも、一刻も早く帰宅するに越したことはない。ようやっと平静を取り戻した
隆起を繰り返して
初めて訪れた者にとっては迷路のように感じられるであろう入り組んだ細道を迷いなく進み、しばらくするとまた別の通りに出る。時折立ち塞がる網目状のフェンスを軽々と飛び越え、ひたすら同じ方角へ進んでいくと、周囲の景色は次第に寂れて建物同士の間隔も疎らになっていった。
奈落の変遷に興味がない
木っ端微塵に砕け散った家々が並ぶ惨憺たる光景を
「あっ! かんきんやのおにいちゃん!」
忙しない足音を引き連れて疾走する子供の顔貌には見覚えがあった。名は知らないが、換金屋近隣の住宅に身をひそめている父子の、長男である八歳の少年だ。時折父親の目を盗んでは三歳下の妹とこっそり換金屋へ遊びに訪れる、良く言えば度胸のある、悪く言えば愚鈍で無邪気そのもの。
生来の質か、緩く波打つ短髪を鳥の
「ねえおにいちゃん、たすけて! あっちのいえのおにわにね、しんじゃってる人がいてね、それで、その人のちかくに知らない人がいて……」
「おい待て、一回落ち着いてから話せ。全然わかんねぇよ」
「う、うん。えっと、えっとねぇ……」
興奮によって僅かに開かれた少年の瞳孔が、ゆっくりと元の大きさに戻っていく。
「……あそこのおにわにね、人がしんでたの。それで、ぼくはおうちのまどから見てたんだけど、ずっと見てたら知らない人がやってきて、しんでる人であそびはじめたの」
「死体で遊び始めた……? ……お前はそれを見たのか?」
「えっと、えっとね、すごいちかくで見たんじゃなくて、おうちから見てただけなんだけど、その人がずっとしんでる人のとなりにしゃがんでたから、なにしてるんだろうっておもって……」
「馬鹿かお前は、気になったからって外に出てんじゃねぇよ。もしそいつに見つかったらどうすんだ」
「うぅ……ご、ごめんなさい……で、でも、まだ見つかってないよ!」
「言いわけすんな」
左の人差し指で少年の額を弾く。いたぁい、と今にも泣き出しそうに潤んだ少年の微かな悲鳴が上がった。
子供特有の好奇心旺盛もここまでくれば看過できない。死体のそばで不審な行為を働いていることを察しているならばなおさらに。
薄らと涙の膜を広げた双眸で恨めしげに睨み上げてくる視線を感じつつ、
——
彼の話が真実であれば、その可能性は高い。死んでる人で遊び始めた、の部分の詳細を問い詰める気は
まだ
他人の死を
——
鋭く研がれた刃のように頭の奥が冴え渡っていく。絶えず鼓膜を揺らす耳障りな風音が遠ざかり、余計な情報のいっさいが遮断される。
「お前は大人しく家に帰ってろ。こっそり家出してんのが親父にバレたら、また怒られんぞ」
ついでに死にたくなけりゃあな、と。そう言い添えなかったのは、せめてもの優しさだ。
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