第141話 ただいま
「ちょっと、柊! どうなってんの?」
上田は怒っているのではなく、戸惑っていた。
「なんだ?」
「キリプロとの契約よ。あまりにもおかしいわ」
上田は霧島プロダクションに赴き、橘と契約内容を詰めていた。
交渉がまとまったため、上田は翔太のいるワンルームマンションの一室に戻っていた。
「どれどれ?」
翔太が契約書をざっと確認したところ、アクシススタッフに在籍していたときの内容と合致しているように見えた。
「――何かおかしいところはあるか?」
「時間単価よ」
翔太は契約書の文面だけを確認しており、数値まではチェックしていなかった。
(役員失格だな……)
「――げっ!」
「あんた、何か悪さしているんじゃないでしょうね?」
「人聞きが悪いな……」
契約書の時間単価はアクシススタッフのときの金額から1.5倍に設定されていた。
当時の翔太は自分の単価を知らされていなかったが、上田によるとアストラルテレコムと同じ金額にされており、元から高めの単価であったようだ。
「これは橘さんが?」
「そうよ、『霧島の許可は得ています。この金額でお願いします』だってさ。
当然のように、すました顔で言っていたわ」
「うわっ、目に浮かぶわ……」
翔太は自分が契約交渉の場にいると、お互いにやりにくいと思っていたため、契約に関しては上田に任せていた。
「労働時間の制約も書いてないな」
以前はひと月当たりの最低限の労働時間が定められていた。
翔太や翔動にとってはかなり都合が良くなっていた。
「それだけじゃないわ、ここに『乙が自発的に行った業務も報酬の対象とする』って……よほど信頼していない限りは入れないよ、こんなの!」
上田は優秀な営業だ。自社にとって不利な条項があれば見逃さないと同時に、有利な条項も相手が妥協できるギリギリのラインで盛り込むようにしている。
そんな彼女にとっても、この条項は想定外であったようだ。
「橘さんが気を利かせてくれたんだろうけど、これはこれでプレッシャーだな」
翔太は苦笑しながら言った。
「あんたもう、帰ってこなくていいわよ」
「おぃおぃ」
上田は翔太が霧島プロダクションに居続けることで、会社の売上になると考えているようだ。
「それで、NDAは?」
「こっちは締結済み。霧島社長の押印も済んでいるわ」
NDAは秘密保持契約を指し、業務に関する秘密を第三者に開示しないための契約だ。
翔太は一度、NDAを交わしているが、これはアクシススタッフとの間で締結されたものだ。
したがって、改めて霧島プロダクションと翔動との間でNDAが交わされた。
翔太が目を通した書類は、石動は署名と捺印を無条件で行っている。
これは同じ人格を持つ人間だからこそできる行為だ。
(これで、キリプロに戻れるな……)
アクシススタッフを退職してから、翔太は霧島プロダクションとの出入りができない状態だった。
「はい、預かって来たわよ」
上田から渡されたものは、一度は返却したIDカードだった。
***
「なんか、久しぶりな気がするな」
グレイスビルに着いた翔太は独りごちた。
これまでも、アストラルテレコムの業務で多忙なときは来られないこともあった。
しかし、IDカードを返却したときの寂寥感を思い出すと、そう思わざるを得なかった。
その時の神代の寂しそうな顔を思い出し、胸が締め付けられることもあった。
休憩室にはそわそわとしていた神代がいたが、翔太を見た途端、見頃の薔薇が咲き誇ったような笑顔を見せた。
「えっと……ただいま」
翔太は、はにかんで言った。
これが正解だと直感した。
「おかえり」
神代は満点の答案を返す教師のような表情で返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます