『私』が夫に殺された理由【修正版】

佳岡花音

1

気が付けば、私は宙に浮いていた。

浮いていたんじゃない。

これは真っ逆さまに落ちているのだと自覚した。

私の夫、鹿山賢治かやまけんじは私を階段から突き落とし、殺そうとしたのだ。

私にはこの時はまだその理由がわかっていなかった。


夫、賢治と私、加奈かなの夫婦関係は随分前から冷め切っていた。

まともに機能していたのは、娘のまどかが幼稚園の頃までだ。

和が小学校になるころには会話も殆どなく、完全にセックスレスになっていた。

私はそれでも構わなかった。

今更、夫と愛し合いたいなんて思わないし、別に女として見られなくてもいい。

私は毎日の家事と育児で手いっぱいで正直、夫の事なんて考えられなかった。


夫は昔からだらしがない男だ。

帰宅すると『ただいま』の一言もなくリビングに入ってきて、鞄をその辺に置くと、脱いだスーツをソファーの上に投げる。

靴下は床の上に脱いだ状態で転がっている。

夕食はTシャツと短パン姿で、『いただきます』もなく、テレビを見ながら、無言で夕食を食べ始める。

当然、そこには『美味しいね』とか『今日はハンバーグだ』などの言葉もなく、ただ腹を満たすために食べているかのようだった。

食べ終わるとキッチンから爪楊枝を出して、冷蔵庫から缶ビールを取って、カウンターに置いてあるつまみのスルメを持って、ソファーに座りながら、再びテレビ鑑賞を始める。

その時、自分のスーツが下敷きになっていてもお構いなしだ。

それでスーツに皴がついたらどうするのだと思いながら私が睨みつけても気が付きもせず、テレビに向かって一人笑っていた。

テーブルには中途半端に食べ残されている皿が置かれていて、片付けることもしない。

私はそれを冷ややかな目で見ながら、片付ける。

勿体ない。

私の心で何度も唱えた呪文のようなものだった。

夫は未だに食べ物の好き嫌いが激しく、嫌いなものを残す傾向がある。

それがわかっているから、基本夫の嫌いなものは出さないようにしていたが、それでも気分次第で食べ残すことも多い。

これは親の教育が悪いのだと姑の顔を頭に浮かべた。

何かとあの姑は息子に甘い。

一人息子だからと言って甘やかすのも大概にしてほしかった。

私は夫の残したそれを三角コーナーに捨てて、皿を洗い始める。

以前、皿を洗うのも大変だから食洗器が欲しいと言ったのに勿体ないと言って買うのを反対した。

あんたが毎日食べ物を残す方がよっぽど勿体ないだろうと何度も心の中で叫んだ。

食器を洗い終えると、タオルで手を拭き、ハンドクリームを塗った。

最近はこれがないと手が乾燥して、ひどい時は皸を起こすのだ。

そんな事すら夫は知らない。

そして、テレビを見ながらソファーに寝転がっている夫の下から脱いだスーツやシャツを引っ張り上げ、ジャケットとパンツ、ネクタイをハンガーに掛け、後は洗濯物へ回した。

それを見ても夫は全く動こうとしないし、目線すらよこさない。

たまには『ありがとう』の一言があってもいいと思う。

私は洗濯物を洗濯籠に投げつけるように入れた。

もうどこで鬱憤をはらせばいいのかわからなかったからだ。

風呂場からは娘が湯船に浸かっている音がした。

私が洗面台の前にいるとわかると声をかけてきた。


「お母さん、バスタオル置いておいて。後、今度から絶対、私のバスタオルをお父さんに使わせないでよね!」


和はもう高校2年生になる。

今ではすっかり父親の服と一緒に洗濯するのを嫌がった。

バスタオルも自分専用のものを使い、父親が入った後の湯船には絶対に浸からない。

私も経験があるからわかるのだが、娘は成長すると極度に父親を嫌う。

理由はよくわからないが、なんだか気持ち悪いと感じてしまうのだ。

私は怖くて直接父親に言うことは出来なかったが、和はハッキリと夫に言っているようだ。

夫も聞いているのかいないのかあいまいな返事をしていたが、それなりにショックなのだろう。

娘の言うことは渋々従っているようだった。

だから洗濯籠も夫用に別の物を用意してある。

私も最近では夫と同じものを使うのに抵抗が出始めていた。

昔は全く気にしなかったというのに。


私はバスタオルをとっていつもの場所に置く。

そして、脱衣場から出て扉を閉める。

リビングで相変わらず缶ビールを飲みながら、スルメを食べている夫の後ろ姿が見えた。

私はそれを横目で見て、ため息をついた。


「和がお風呂上がったら、あなたも入っちゃってよ。ガス代もばかにならないんだから」


私はそう言って再びキッチンに戻った。

夫は生返事だけして振り向きもせず、テレビを見続けている。

この姿を見るたび、なんで私はこの人と結婚したんだろうと疑問に思った。

付き合っている当初はこんなことも気にならなかったし、世話をやいていることがむしろ嬉しかった。

母性本能というやつだろうか。

甘えが愛情だと錯覚していたのだ。

私たちはとんとん拍子で婚約まで進み、姑には多少小言は言われたけど問題なく結婚をした。

確かプロポーズはなんだっけ?

実際プロポーズらしいことは何も言われていないような気がする。


離婚だって考えなかったわけじゃない。

でも、娘の事を考えるとそう簡単に離婚なんて出来るわけがないと思った。

夫がいくら薄給だからと言って、私はパート勤めだし、娘と二人でやりくりするほどのお金を自分一人で稼げるとは思えなかった。

だから、娘が成人するまでは、せめて就職先が決まるまでは我慢しようと思っていた。

けど、最近はそう思えない事情が出てきたのだ。


夫は浮気しているかもしれない。

そういう疑念が湧いたのは丁度今から三か月ほど前。

夫のスーツから知らない香水の香りがした。

胸ポケットには誰かの電話番号の書いた名刺のような紙が入っている。

怪しいと思うことは他にもいくつもあったのだ。

残業が前より増えたことや、外食して帰ってくること、お小遣いを上げて欲しいと強請って来たこともある。

けど一番怪しいと思った理由は、先週気が付いたことだった。

スーツが一着足りない。

しかも一式だ。

これはもう、間違えないと言っていいだろう。

恐らくそのスーツは浮気している女の部屋にある。

私はそう確信していた。


私が睨むように夫を見ていると、和がお風呂から上がって来た。

ノースリーブのシャツに短パン。

髪を濡らした状態で肩にはバスタオルをかけている。

そのまま、冷蔵庫へ直行して扉を開けた。

そして、情けない声を上げる。


「お母さん、炭酸水は? お風呂上りには飲むから、切らさないでって言ったじゃん」

「え? もうない?」


私はそう言って、娘と一緒に冷蔵庫の中を覗く。

確かに炭酸水のペットボトルがなくなっていた。

買い物をした時にはそんな事、全く気づかなかった。


「ごめん、ごめん。明日には買っておくから」


私はそう言って冷蔵庫の扉を閉める。

和はもうと不満そうな声を上げていた。


「なら、今からコンビニまで買いに行けばいいじゃないか?」


突然そう言いだしたのは夫だった。

夫が自ら娘に話しかけることは珍しいことだ。


「はぁ? もうお風呂入っちゃったし。今更、もういいよ」

「なら、お父さんが買ってくるよ」


和の言葉に反応して夫がソファーから立ち上がり動き出した。

いつもなら絶対にありえないことだ。

私は驚いて、言葉を失ってしまった。

夫はタンスから自分のズボンと上着を取り出して、私の方へ振り向いた。


「お母さんも一緒に行こう。たまにはいいだろう?」


あまりに珍しい事なので、私もつい断ることが出来ずに頷いた。

そして私は財布を持って玄関に向かう。

娘の為とは言え、夫がわざわざこんな夜中に自ら買い出しに行くとはどう心境の変化だろうか。

私は腑に落ちないまま、夫の後に続いて家を出た。


コンビニまで向かう道中、夫はずっと黙っていた。

わざわざ一緒に行こうと言ったのだから、何か私に話したいことでもあるのかと思っていた。

その時、私の脳裏に夫の浮気の事がよぎった。

もしかして、夫の方から離婚を切り出されるのでは?

もしそうだとしても、ここでしてやる気はない。

そんなの向こうの女が喜ぶだけだ。

そう思いながら歩いているといつの間にか、夫は私の前にはいなかった。

私は振り返って、後ろから歩いてくる夫を見つめる。

夫は私の目の前に立ち止まり、その状態で私の肩を思い切り突き飛ばした。

私はそのまま倒れ込むようにして、後ろに倒れた。

後ろには長く急な階段がある。

こんな場所で落ちたら確実に死んでしまうと思ったが何もかも遅かった。

夫は私を殺そうとしているのだ。

その理由はわからない。

けれど、突き飛ばした夫の表情は読み取れず、夫が何を考えているのかわからなかった。

私は、地面に着く直前に理解した。

夫はここで私を最初から殺すつもりだったのだと。

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