第三章 白き過去と黒の未来(5)
「十億年。儂が生きて、それだけになる」
笑顔。
余りにも穏やかな表情に、途方も無いと、それしか、思いを持てなかった。
知識としてあるのは、まっさらなこの星から、文明が築かれた年月だということだけ。
すなわち。
カナメは、ミズノの意図を察したように、頷く。
「儂の時代。蜚廉種は、跡形も残さず滅んでおる。
この星と、共に」
右手を、挙げた。
空へ向けて立てた、人差し指の先。
いつも見慣れていた、欠けた月が浮いている。
「アレをな、落としたのよ。他に浮いていた衛星系も、余さず全てな」
「触手を、いや、あのキモいのを、潰すため?」
「外なる者。上位者。古き神。創作にまでなぞらえて、まあ色々と呼ばれておった。正体は分からん。ただ明らかなのは、言葉が通じん。蜚廉の武器では太刀打ちできん。
結論から言うと、質量はパワーであった」
「オブラートに包まず言うね。蜚廉って実は馬鹿でしょ」
「お主に言われると、立つ瀬がないのう」
からからと、カナメは朗らかに笑って。
俯いて。
息を、吐いて。
「その後の不始末を、儂一人に、任せてしまうほどにはな」
上げられた顔に、どうしようもないほどの、悲しみが滲む。
揺れる瞳に、トロイメライが、すっかりと減ってしまった狭い陸地が、映る。
「長かったのう。随分と、長かったわ。
焼き尽くされた、荒れ果てた大地を、たった一人で、さまよい続けた。おもむろに土を耕した。水を汲んで流した。それでも、光が無ければ芽吹かない種を、先代たちから託された蜚廉の退化卵を、ひたすらに蒔いた。守り続けた。
十億年じゃ。いつ終わるとも知れん、報われるとも分からん、この星の再生などという、馬鹿げた理想だけを頼りに。永遠にも等しい地獄の日々を、己の魂を切り売りして、擦り切れるままに枯れ果てて。何も、思うこともなくなって。
ようやく、差した光は、一体、いつのことじゃったか」
カナメは、本当に眩し気に、朝日を見つめる。
枯れた井戸が湧き出すように、涙が溢れたことだけを、覚えていると。
種は芽吹き、生命は育ち、星は色を取り戻していく。
かつてとは違う生物たちが、二足で立ち、知恵を得ていく。
そんな彼らを、まるで親のように導き、見守り、新たな世界が形作られていく中で。
「ようやっと、気付いたよな。儂が、本当に望んでいたもの。旧友たちとの、穏やかな日々はな。もう、どう足掻いても、叶わぬのよ。どれほど美しい、この星の上でも。
だから、目を背けた。満足したと噓を吐いて、小箱の中で、眠りに就いた」
なあ、ミズノ。
「儂は、お主を失いたくない。蜚廉の末裔たちを、死なせたくない。この世界を、終わらせたくはない。けれども、それ以上にな。
もう、あの十億年を、繰り返したくは、ないのよ」
心が、保たないと。
分かり切っている。
ミズノは、己の胸に当てた右手を、握り締める。思い出す。あの殺戮だけが支配する戦場を。殺すか殺されるか。朝は共に騒ぎ合っていた誰かが、夜には居ない。折れてしまった得物を突き立てただけの墓標に、静かに酒をかけて、今宵の勝利に祝杯を挙げる。
たった五年の、地獄だった。
もう一度、繰り返せと言われたら。
あの触手共を、外なる者を、殺し尽くせと、言われたら。
「アレを取りこぼしたのは、儂の手落ちじゃ。死に損ないも、片っ端から殺し尽くしたと思うておったのじゃが。まさか、姿を変えて、地下に潜むとはのう。その上、儂が眠ってから這い出して来るとは。存外にしぶとい、などと、言えた義理でも無いことか」
だから。
だけど。
「行かせないよ、カナメさん」
「ついては来させぬ、ミズノ」
拒絶の言葉は。
響いた鈴の音と共に、間近から。
打撃されたと自覚する間もなく地面に沈んでいた。仰向けの五体は当然の如く砕き抜かれている。再生には数秒かかるからともう一度殴られた。感覚さえない。身体に張り巡らされた紋様は正しく機能し『治るまで動くな』と忌々しく喚き散らかし、その上からもう一度殴られた。随分と、弱々しかった。当社比、である。致命どころか人智を超えた即死三連、重ねられれば治癒には数十秒を要するだろう。
カナメがミズノの前から消え失せるには、十分過ぎる。
「お主では、奴らに勝てぬ。儂に勝てぬのだからな」
そう。十分過ぎるのだ。一撃で良かった。ミズノを打ち伏せ踵を返し立ち去るのなら、それだけで。わざわざあの外なる者と同じ技で殴り殺し、その言葉と無力を刻むための二撃。
ならば。
涙を溢れさせてまで、振り絞るように重ねた、三撃目の理由は。
ミズノの、首元。
鎖が、引き千切られる音と共に、示された。
「さようならじゃ、ミズノ」
大切な、己の何よりも大切な、
別れの言葉と共に、途絶えた。
静寂が、流れる。朝日が照らす、残酷なまでに青い空に、薄雲が静かに流れていく。身体を放り出して、寝そべったまま、見つめていた。呆然と、何を考えることもなく。
空っぽの両手は、力無く広げられたまま。
抜くことさえ出来なかった、背中の重りには、痛々しい亀裂が刻まれている。
僅かな空気を、鼻から吸って、口から吐く。痛みなどない。徹底的に砕かれた身体は、とっくの昔に再生を終えている。白の紋様が、微熱を残して、解けていく。
死力を振り絞り、持ち上げた右腕を、額に乗せた。
「弱えな、俺」
不死身に等しい聖術は、この胸にだけは、灯らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます