第三章 白き過去と黒の未来(3)
酒場は静寂に包まれていた。
客は、ほとんど居なかった。丸テーブル席とカウンター席に、離れて三人ほど座っているだけだ。正確には、元より純粋な客など一人として居なかったのだが。今残っているのも、恐らくは連絡係を任された者なのだろうと、ミズノは確信に近いアタリをつける。
いつもの店奥ボックス席、ミズノは、改めて正面を見る。水が入ったグラスを挟んで、カナメは、俯いたまま座っている。メリィが気を遣って用意した清酒も、お互い一口も手を付けないまま、すっかり温くなっていた。
ツマミなど、出せるはずもなかった。
焼いた肉の匂いすら嗅ぎたくないだろうと、そう判断した。
耳に痛いほどの沈黙が、重くのしかかる。他の客の息遣い、グラスを傾け、テーブルに置く物音さえ、有難く響いていた。所在の無い手が、何度も冷へ伸びそうになるのを必死に抑える。一口でも飲んでしまえば止められなくなるだろう。トイレにすら行きたくなかった。片時として、この場を離れたくはなかった。
ほんの少し席を外した間に、カナメが、居なくなってしまいそうだったから。
まばたきする時間さえ惜しいほどに、ただ、カナメを見つめ続けていた。
何一つとして出来ることも、かけられる言葉もなく、縋るように。
「――ああ、もう! やめじゃやめじゃ!」
突然の叫びに、肩を跳ねる。声の主、カナメは自らの頬を張ると、卓上の徳利を引っ掴んでラッパ飲みにした。ぐびぐびと喉を鳴らし、かぁー、と酔いもしない息を吐き、
「ほれミズノ、お主も飲まんか!」
投げて、渡された。きっちり几帳面に、半分を残した中身。困惑して顔を上げれば、不機嫌そうに目を眇めたカナメがいる。再び視線を、己の顔も映さない、暗い水面へ落とし。
くるりと、百八十度回転させて。
きっちり、カナメが口づけた場所で、徳利を呷った。
「ちょ、オイコラ、ミズノ!?」
カナメが声を上げるが耳など貸さない。貸すはずがない。何なら舌まで這わせて唇でこそぎ取り、徳利相手に渾身の間接ディープキスをかます。日頃のイメトレがモノを言う。
ぶは、とキマりきった目にて一滴残らず飲み干し、空の徳利をテーブルに叩きつけ、顔を上げればカナメは両手で顔を覆って俯いていた。耳まで真っ赤にしてハイ可愛い。自分で仕掛けておいて可愛い。防御力ゼロのクセに反動技使ってカウンターで死ぬのザコ可愛い。
「可愛いよカナメさん」
「本当に可愛くない奴じゃなお主は……!」
キッと睨む上目遣いが可愛い。カナメの可愛い姿が見れるならいくらでも可愛くなろう。なおミズノは可愛くない方がカナメの可愛い所をたくさん見れるので絶対に可愛くならない。
可愛いが文字的にも概念的にもゲシュタルト崩壊し始めたところで、カナメは「全く」と特大の溜め息を吐いた。後に、仕方ないというような苦笑を浮かべて、
「少し、外へ出ようか。ミズノ」
立ち上がる。先に出ていると、そのままスタスタ歩いて行ってしまった。扉の閉まる音に、思わず焦り、飛び出そうとしたところで、
「馬鹿共と、それから俺の伝言だ。ミズノ」
声に振り返れば、腕を組んだ仏頂面に、頭は包帯を巻いたボルテクスが、ミズノを睨む。
「緋蓮カナメを、墜とせ」
頷く。ほんの、一瞬の逡巡を帯びて、真っ直ぐに。
駆け出す。その中で、本当に、心の底から、安堵したことがあった。
カナメの、触覚のクセを、教えていなくて良かった。
ずっと、力無く、萎れていたからだ。
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