あけすけな先輩女子に誘われる

第1話

 金曜夜の飲み屋は騒がしい。


 広くない店内に明るい音が充満していた。

 日本酒の揃えにこだわりがあるこの和食居酒屋は、料理もお酒も美味しいとあって週末は予約なしでは入れない人気店だった。

 ほぼ満席の店内で俺が座るカウンター席の正面には、本日おすすめの日本酒が記された短冊がずらりとぶら下がっている。カウンター内では店主と従業員が忙しそうに働いているが、注文のために呼ぶといつでも笑顔で応対してくれるのが心地よかった。


 連れてきてもらった店だが、あの人が選ぶお店はいつもはずれない。


「今なに考えてるの健次郎」


 耳元でした女性の声にびくりとする。


 顔を向けるとすぐそばに明坂さんの顔があった。


 俺の背後からのぞき込むようしてこちらを見ている。酔いで頬を桜色に染めているその表情は、してやったりといったように笑っていた。俺が驚くとわかっていたのだろう。電話で席を立ってから、なかなか戻ってこないなと思っていたら油断した。


「待たせてごめんねー」


 隣に座る明坂さん。ほのかに優しい香りがふわりと流れてくる。明坂さんからはいつもいい匂いがする。


「課長ですか?」

「ううん。山本」


 げ、と声に出してしまった。明坂さんが笑う。


「健次郎、露骨」

「だって」

「知ってるだろうけど、あたしの同期だからね。あんなのでも一応おまえの先輩」

「わかってますけど」


 入社当時から明坂さんに露骨なアプローチを続けていることで有名な山本さん。そんな男からの電話だと聞いたら、どうしたってこういう反応になる。


「一応聞きますけど、どうかしたんですか」

「これから飲みに行こうってめっちゃ誘われた」

 淡々と言って明坂さんはおちょこに残った日本酒をあおった。

「友達と飲んでるからつって断ってもしつこくてさー。『そんなのいいから』とかなんとか言ってさ。よくないっつの。それ決めるのおまえじゃねーし。んでしまいには『明坂の家行くから飲み終わったら連絡しろ』とか言い出したから『それはないわ』って言って切っちゃった。あはは」


 明坂さんは笑っているが、聞いているだけでも気色の悪い話だった。


 山本さんのねちっこい視線とにやけ顔がよぎる。

 断られ続けているはずなのに、それでもなおオレ様スタイルで迫ることができるのはよほど自分に自信があるのだろうか、それとも単なる考えなしなのか。

 いずれにせよ、山本さんは俺の理解が及ばない領域にいる。


 明坂さんが店員を呼び止めて、追加の日本酒を注文する。


「言ってほしかった?」

「え?」


 明坂さんが小首をかしげ、いたずらっぽい表情で訊ねてくる。その仕草が艶っぽかった。


「ほんとのこと。『健次郎と飲んでる』って」


 意味ありげな笑みと、質問。

 からかってるのか、それとも本気なのか。

 毎度のことだけど、俺には明坂さんの考えていることがわからない。


 わからないので正直にいう。


「いえ、まったく」


 そう答えると明坂さんはおかしそうに笑った。

「なんで?」

「絶対面倒なことになるんで」

「あはは。山本のことよくわかってるじゃん」


 山本さんは明坂さんがらみとなると嫉妬深いことでも有名だった。

 自分の誘いを断った明坂さんが実は俺とふたりで飲んでるなんて知られたら、どんな嫌がらせをされるかしれない。


 ふと疑問が湧き、思ったままに聞いてみた。


「山本さんとふたりで飲んだことあるんですか」

「何回かね」

「……へえ」


 あるんだ。もやりとしたなにかが唐突に胸の内に湧いてくる。聞かなきゃよかった。


 そんな俺の内心に気がついたのか、明坂さんがニマニマした表情でこちらを見てくる。

「……なんすか」

「べつに~。ちょっとおもし……うれしかっただけだし」

「おもしろかったって言おうとしましたよね今」

「だって健次郎がジェラってくれることなんてないんだもん」

「ジェラってないです」

「えー? 正直に言ってみ? ジェラったでしょ?」

「ジェラってない。全く。断じて」


 注文した日本酒と新しいおちょこが卓に置かれる。俺と明坂さんのふたり分、日本酒をおちょこに注ぐ。

 口をつけると「うまっ」という言葉が思わず口から漏れた。口にふくんだ瞬間、華やかな風味が広がる。けれど飲み口はすっきりしていて飲みやすい。間違いなく美味い酒だった。


「……ただ、意外だなと思っただけですよ」

「意外?」

「仲が良いとは思ってなかったので」

「ん? 仲は良くないよ別に。ふたりで飲んだのなんてもう何年も前の話だもの」


 お酒を飲んだ明坂さんは「ほんとだ。これうまいねー」と幸せそうな表情ではにかむ。


「まあ腐っても同期だってことだね。誘われたら飲みに行くくらいはするときもあったってことだよ。今は奢りでもご免だけど」

「なんかあったんですか」

「だってあいつだだ漏れてんだもん」

「なにがです?」

「性欲」


 返ってきた答えに、ふくんだ酒を噴き出しそうになった。


「露骨なんだよ。ボディタッチとかさ。偶然のていで胸触ったりすんの、あいつの常套手段。そういや後輩にもそれやって訴えられそうになってなかったっけ」

「……ありましたねそんなこと」


 気分の悪いことを思い出してしまった。

 後輩へのセクハラは結局、安くはない示談金を相手に渡して事を収めたと風のうわさに聞いた。実家が太く、示談金も両親に出してもらったとか。

 その後輩は事件のあとほどなくして会社を辞めてしまった。


「健次郎すごい顔してる」

 明坂さんに指摘されて、眉間に力が入っていることに気がついた。いかん。ただでさえ悪い目つきがさらに鋭くなってしまう。

「なに考えてたの?」

「いや……」

「言ってみ?」

「……性欲だだ漏れの山本さんを想像したら気持ち悪くて」


 促されて本音を述べたところ、ツボに入ったのか明坂さんは涙を流して大笑いした。


「ぷくく……『性欲だだ漏れの山本』……やばいウケる。二つ名みたいでちょっとかっこいいかも?」

「いや全然かっこよくないでしょ」

「あはは」

 明坂さんが再び腹を抱えて笑い出す。全力で、楽しそうに。そんな彼女を見て、俺もつられて少し笑ってしまった。笑うと嫌な気分が消えていく感じがした。

 この人の笑い声はいつも周囲を明るくする。


「あーおなか痛い」

 明坂さんは涙をぬぐった。笑いすぎて息が上がってる。こんなに力いっぱい笑う人もめずらしい。

「しかし健次郎も言うようになったよねえ」

 明坂さんは微笑ましいものを見るような目で俺を見つめた。

「はじめはこんな子だと思ってなかったなー」

 たしかに、明坂さんと飲むようになってから俺も少しブレーキが壊れてきている気がする。


 調子に乗りすぎているだろうかと自問する。

 浮かれているところはあるかもしれない。

 けれど仕方ないだろう。


 好きな人との食事はどうしたって楽しいものだ。


「もう少し自重したほうがいいですかね」

「まさか。そのままでいいよ」

「平気ですか」

「あたし好きだもん。健次郎のそういう素直なところ」


 さらりと出てきた「好き」という言葉と明坂さんの笑顔に、胸がつまった。


「だけどあたしの前だけにしときなよ? 山本に知られたら後が面倒だよ~?」

「……っすね」


 それ以上明坂さんの顔を直視できず、逃げるように正面のメニューに目を向けた。


 ──好きだよ。


 ──あたしの前だけにしときなよ。


 頭の中で先ほどのフレーズがリフレインする。鼓動が早い。鎮まれ。意識をするな。


 わかってる。明坂さんに他意がないことは。彼女はおおらかな人だから。思ったことを口にしただけなのだ。


「なんか顔赤いよ。飲みすぎた?」

「えっ!? ……あ、あーそう、かもしんないですね~?」

「どした急に。なんか胡散臭くなってるよ」

「なんでもないですって」

「ほんとに~?」


 うつむく俺を、明坂さんが下から覗き込むようにして見てくる。

 明坂さんの白い手が俺の太ももに置かれている。


 近い近い近い。


 心臓の音が聞かれてしまいそうで気が気じゃなかった。


「まあでもたしかに、けっこう飲んだかー」

 ぱっと体を離した明坂さんが、ううーんと大きく伸びをする。

 ほっとして彼女を見ると、ニットのトップスのすそから細いおなかがちらりとのぞいていた。見てはいけない気がして再び目をそらす。


「お会計もらおうか」

「そうですね」

「このあとは……健次郎の家でいい?」

「え?」


 顔を向けると、頬杖をついて不敵に微笑む明坂さんがそこにいた。


「俺んちですか」

「だめ?」

「……うちで何をするんです」

「言わせたいの?」


 ふふ、と笑う明坂さん。妖艶な気配に息を呑む。


 明坂さんが体を寄せて耳打ちしてくる。


「健次郎んちでえっちしようよ」


 俺は明坂さんの顔を見た。明坂さんは静かに微笑んでいる。


 わかってる。明坂さんに他意はない。


 彼女はシたい。だからそう言った。誘い方があけすけでびっくりしたが、根本は変わらない。思ったことを口にしただけで、いつもの言動の範疇だ。


 あとはこちらの問題だ。


 好きな人から誘われた。

 返すべき答えを返せばいい。

 努めて冷静に。

 深く息を吸って──


「──しません」


 きっぱりと断った。


 明坂さんが目を丸くしている。断られると思っていなかったのだろう。


「どうして?」


 その問いはもっともだと思った。

 けれどこればっかりは、だめなものはだめなのだ。


「だって俺たち、付き合ってないですし」


 俺は明坂さんを好きだけど、明坂さんはそうじゃない。

 俺はすでに一度、明坂さんに告白してフラれている。


 しかし問題なのは──


「え? でもあたしたち、もうシちゃってるじゃん」


 ──そうなのだ。

 俺と明坂さんはすでに体を重ねている。


「それも何回も」


 そう。何回も。


「付き合ってないからだめだなんて、いまさらじゃない?」


 おっしゃる通り。いまさらだろう。


 それでも、だ。


 なし崩しに始まった関係がきっかけでも、体を重ねるうちに俺は明坂さんを好きになってしまった。

 だから告白した。

 そしてフラれた。


 今の俺は、この関係をどう扱えばいいのかわからない。


「……そういうことは好き合ってる者同士でするものでしょう」


 言いたくないセリフだった。

 明坂さんから返ってくる言葉はわかっていた。

 それを聞けば、俺がつらくなるということも。


 予想通りのセリフが、彼女の薄紅色の唇からこぼれる。


「あたし、健次郎のこと好きだよ」


 だから誘ってるのに、といった様子で。

 心底わからないというように明坂さんが小首をかしげる。


 悲しい気持ちになる。


 明坂さんは俺のことが好き。

 それはそうなんだろうなとは思う。うぬぼれだろうが、そこのところを疑ってはいない。

 けれど。


 ──俺の「好き」と、あんたの「好き」は形も大きさも違うんですよ。


 それはさすがに言わなかった。自分でそれを認めるのは、あまりにもみじめだった。


 明坂さんはあけすけで、明るくて、だから俺は彼女のことが好きになった。フラれたからってそうすぐに気持ちを切り替えられるものでもない。俺は今でも明坂さんが好きだ。


 だからこそ苦しくなる。


 難しいことは考えず、流れに身を任せればいい。

 そう考えることだって当然あった。

 実際、明坂さんとするセックスは幸せだった。少なくともシている最中は。


 けれどふたりで迎えた朝、隣で眠る明坂さんを見ていると不意に「この人は俺と付き合うつもりがない」という現実が眼前に突きつけられる気分になる。


 体だけが繋がっていて、その先はない。


 それ以上を望む俺が悪いのかと自分を責める気持ちまで芽生えてくる。

 そして相手を責めたくなる気持ちも。

 身勝手な感情だ。わかっている。好きな人に対してどうしてこんなことを考えるのかと、我に返っては自己嫌悪に陥ることをずっと繰り返している。


 そろそろ限界なのかもしれない。


「……明坂さん」

「何?」

「俺のこと、好きなんですか」

「好きだよ」

「……俺も、明坂さんが好きですよ」


 俺がそう口にすると、明坂さんは少し困ったように笑った。


 それが俺たちの関係の答えだった。

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