月詠み人

楠幸子

第1話 二日月

 月のない夜、新月、、、ミュージカルスクールの駐車場

 レッスンを終えた朱鷺は、仕事帰りの母が運転する車に乗り込む

 高校の制服の似合う美しい娘と、日々の暮らしに疲れ切った顔の母は帰宅を急ぐ

 車の後部座席には、2012年4月『ロミオとジュリエット』のパンフレットと    

 美しい音楽に満ちたCDの入ったカバンが置いてあった

 車内のラジオから、安室奈美恵の「ラブストーリー」が流れている


 「ママ、今日の金環日食、見た?」


 「今日は仕事が立て込んでいたのよ、、、忙しくてね、、、気がついたら、もう普通の太陽だったの、、、残念ながら、、、見てないのよ、、、」


 「働きすぎのママ、、、私、、、今日、月曜日の1限目だったから、教室の窓からきれいに見えたよ、、、金環日食、、、クラスの皆で見たわ、ちょっと雲がかかっていて心配したけど、、、月が頑張って、太陽を隠してね、、、5月の青空に、金環日食をきれいに見せてくれたよ」


 「あら残念、見たかった、、、次の金環日食は、12年後の2024年の10月3日だって、、、ハワイ近辺で見えるって、ニュースで言ってた、、、次は、絶対、朱鷺と一緒に見たいわ、、、決めた! ママ、仕事頑張って、ハワイまでの旅費も貯める!」


 「ママ、、、私、ミュージカルスクールのレッスン受けていることだけで幸せよ、、、先月、帝国劇場で観たミュージカル女優のアリサさんが目標なの、、、早く社会人になって、お金の心配かけないようにするからね、、、お願いだから、ママ、これ以上の無理はしないで!」


 「ダメよ、シングルマザーも普通に頑張れば、娘を大学生にできるって、、、あっ、なんで、、、男が、、、トラックが、、、」


 前方から、トラックの運転手のならす激しいクラクションの音がし、、、

 飛び出してきた男の姿を確認したトラックと二人の乗った車は、、、

 あっという間にぶつかり、大破してしまう


 雷の音がし、しばらくして雨が降り出した頃、救急車が到着する


 怪我もなく、、、高校生の朱鷺は、、、激しい雷雨の中、、、朱鷺だけが救われた


 



 十六夜の眩い月光をさえぎり、漆黒の雲がたち込め、遠雷が光る


 間遠だった雷光と恐ろしげな雷鳴が、漆黒の雲と共に、激しく、近づいて来る



 雷雲を突き抜け、雷光に輝くエメラルドグリーンの竜が現れ、月を目指し昇る


 夜空の竜は、鋭い爪が当たらないように柔らかく、眠る娘を抱きしめている


 月裏に潜む、天翔ける磐船(いわふね)を探して、美しく輝く体をくねりながら昇る


 、、、やがて、目覚める娘、、、


 雷雲の下から、ぼんやり照らされた雅な空の御殿が近づいてくるのを見ている娘

 

 しばらくすると、金木犀の香りに包まれ、竜の腕の中で、


 今生の思いが、断ち切れない娘は首を振り、静かに涙を流す



 その娘の涙を、竜が鋭い爪の指先を丸めて優しくぬぐうと、


 、、、一息もつかぬ間に、、、


 竜は月の光を受け、キラキラと煌めくエメラルドグリーンのガラス片を放ちつつ、


 竜は娘を抱き、美しく、清らかな輝きを増しながら、


 、、、舞うように、落ちていく、、、


 

 夜空、激しい雨とともに、鋭い雷が鳴り響く


 やがて、雷雨雷鳴ともに止み、漆黒の雲は過ぎ去っていく


 ぼんやり照らされた雅な空の御殿、ゆっくり遠ざかっていく


 後には、金木犀のかぐわしい香りだけが、残っている


 、、、ふたたび、美しい十六夜の月が、姿を現し、輝き始める、、、





 12年後、、、


 午後5時、市役所、市民経済部生活衛生課の受付へ、中年女性が走りこんで来て、


「私、犬を、大型犬を飼い始めたのですが、登録の手続きはこちらですか?」


 机の上を片付けていた鴨川朱鷺

 美人だが、鍛え抜かれた筋肉だけが目立つ、瘦せ細った体が痛々しい

 暗く、ひどく疲れた顔で、壁の時計を見ながら振り返り、


「はい、こちらですけど、、、こちらの書類に必要事項を記入して、手数料3000円を添えて、お申込みください」

 

 朱鷺、中年女性に登録の書類を渡し、小さくあくびをする

 中年女性、書類を受け取って記入していくが、

 時計を見ながらあくびを連発する朱鷺のやる気ない態度に腹を立てて、

 次第に、、、顔に怒りがあふれ、厳しい顔つきになっていく


 面倒くさそうな態度の朱鷺が、手続きを終えて犬の鑑札と書類を出すと、

 中年女性は、するどい声で怒り出すが、、、

 朱鷺はあくびを嚙み殺し、苦情を聞き流し、時計を見る


 「あなた、市役所職員でしょ!  いったいどういう教育受けてきたの? 受付終了間際の仕事がそんなに嫌なの! 市民に寄り添う気持ちがないのね! ここ、本当に感じが悪いわ!」


 怒って走り去る中年女性に、朱鷺は事務的にお辞儀する

 二人の様子を見ていた山下課長が、朱鷺に近づいて


 「朱鷺ちゃん、この後用事があって忙しいかもしれないけど、、、もうちょっと、優しい対応をしてくれないと、、、」


 朱鷺、5時15分を指している時計を見ながら


 「課長、次から気を付けます、、、昨夜、変な夢見ちゃって、、、目が覚めちゃって、、、私、体の調子が悪いんで、、、すみませんでした、、、」


 課長に頭を下げて、朱鷺は暗い顔のまま、更衣室へ向かって走り出していく


 「仕事が出来て、綺麗で、歌がうまくて、切れのいいダンスが踊れて、いい娘なんだけどね、、、今日はレッスン日だからかな、、、僕、朱鷺ちゃんの亡くなったママのファン、、、いや、、、親代わりとして、心配だ!」


 課長、深くため息をつき、自分の太った腹を軽くたたきながら、朱鷺を見送る


  



 市役所裏、通用口の時計が午後6時を指している。

 秋のさわやかな風が吹き、美しい夕暮れ、その明るい西の空に、細い二日月、、、

 顔色の悪い朱鷺、通用口を飛び出してくる


 「もうこんな季節なのね、細くて華奢な月が綺麗だわ、確か、二日月」

 

 朱鷺の耳元で、若い男がささやく


 「、、、逢いたかった、、、」


 朱鷺、振り向くが、誰もいない

 不思議に思いながら、急いで駅へ向かって歩き出す

 通り過ぎる車のクラクションに、立ちすくむ朱鷺

 急いでバッグからタオルハンカチを取り出し、手のひらの汗をぬぐう

 何度もぬぐうが、手のひらの汗は止まらない


 「、、、ママ、、、」


 しだいに涙があふれ出すが、

 その涙をふくこともなく、手のひらの汗をぬぐい続ける朱鷺

 やがて、暗く思いつめた顔で、駅へ向かってゆっくり歩きだす





 通用口に、市役所の職員が次々出てくる

 その後方に朱鷺の後輩、スポーティな鈴木笑里と、グラマラスな田中紫子の二人

 がおしゃべりしながら、ゆっくり出てくる。

 すれ違う男たちは、紫子の胸に目が釘付けになり振り向くが、紫子は気づかない

 可愛い笑顔の笑里は、その度に、振り向いてすれ違う男たちを見つめている


 紫子、ふと思い出したように、


 「今日、ハワイで金環日食がきれいに見えたんだって、、、早く帰って、ネットで見てみようっと、、、そういえば、、、朱鷺先輩、、、再来週のミュージカルスクール、秋の発表会、『ロミオとジュリエット』って、言ってたわよね」


 「『ロミジュリ』大好きなんです! 私、とっても楽しみです! 朱鷺先輩、今日もスクールのレッスン頑張っていらっしゃる!と、思いますよ」


 紫子、周りを見回して、声を潜め


 「もう、あの年齢でしょ、、、実はね、、、ジュリエット役のオーディションに落ちて、乳母の役なんだって、、、ジュリエット役のオーディション受けなければよかったのに、、、いくら実力があっても、、、ねえ、、、」


 「朱鷺先輩、あんなにお綺麗で、歌もお上手なのに、」


 「美と才能に恵まれても、、、しょうがないじゃないの、30歳に近いのよ、、、あのお年じゃ、、、ねえ、、、16歳のジュリエット役は無理に決まっているじゃない! いくら舞台化粧を頑張っても、、、ねえ、、、16歳は無理よ、、、現実は現実よ! ミュージカルは厳しい世界!って聞くわ、、、スクールの個人レッスン代も、積み重なったらバカにならないと思うし、、、さ、、、」


 「市役所で一日中働いて、勤務後の時間でグループレッスン受けて、個人レッスン受けて、あんなに、あんなに努力してもダメなんて、アマチュアといっても厳しい世界なんですね、でも大丈夫ですよ! 朱鷺先輩なら努力家だから、きっと大丈夫!私、楽しみにしています、再来週の『ロミオとジュリエット』」


 「レッスンをたくさん受ければ、いいってもんじゃないのよ、、、運を逃したんだわ。朱鷺先輩は目立ちすぎたのよ、、、きっと、そうよ、、、出る杭は打たれる! に決まっているのよ、、、きっと、、、そうよ、、、」


 暗い顔の似合う紫子は、暗い話題に、、、

 可愛い笑顔の笑里は、ひたすら前向きで、、、


 かみ合わない会話をしながらもふたり、駅に向かって歩いて行く


 秋の美しい二日月は、暗闇が広がる西の空に入っていく


 



 ミュージカルスクールの玄関、教室ではレッスンが続いている

 歌声が玄関まで聞こえている

 疲れた様子の朱鷺が汗を拭きながら、ふらふらと出てくる

 おかまのムネオ先生が、朱鷺を追いかけて、教室から飛び出してくる


「朱鷺ちゃん、もう帰っちゃうの? ロミジュリメンバーの皆さん、まだレッスンしているわよ」


 「ムネオ先生、私のパート、、、乳母の歌はもう全部終わりました、、、けど、、、」

 

 「発表会まであと2週間しかないのよ! もっとメンバーの皆さんと一緒にレッスンして、息を合わせなくちゃ! 今夜の朱鷺ちゃんの乳母、あんなんじゃね、あんなんじゃ、、、とても、、、無理よ!」


 「ごめんなさい、、、ムネオ先生、どうしても、乳母の役に気持ちが入らなくて、、、」


 「もう、朱鷺ちゃんったら! このままじゃ、ね、悪いけど、乳母の役、代役の人に代わってもらうしかないわね!」


 「ムネオ先生、ごめんなさい、、、一晩考えさせてください、、、ごめんなさい、、、」


 「いつまでも主役気分ではダメなのよ! 分かっている! 舞台には優れた技術の脇役が必要だわ! 朱鷺ちゃんならできる! と思ったのに、総合芸術なのよ! ミュージカルは! 今回のロミジュリは、朱鷺ちゃんの成長が必要なんだけどね! それに、今度は、あの帝国歌劇団のスカウトが来るのよ」


 怒るムネオの勢いに、朱鷺はひどく泣き出してしまい、ムネオに深く頭を下げて

 逃げるように走り去る

 ムネオ、教室から聞こえる生徒たちの歌声を聞きながら、つぶやく


「朱鷺ちゃん、待っているわよ! 自分を大切にして、、、自分の才能を信じるのよ」





 深夜、朱鷺は疲れ果てて、重い足を引きずりながら、自宅マンションに帰って来る

 自宅玄関前で、バッグの中のルームキーを探すが、

 帰宅途中に立ち寄ったコンビニで買ったおにぎりやビールが邪魔で、

 ルームキーは、なかなか見つからない

 指先で、バッグの底に潜むルームキーをやっと探しあて、顔を上げると目の前に、

 不思議で雅な昔の衣服を着た長身の青年が、長いまつげに縁どられた大きな瞳で

 懐かしそうに朱鷺を見つめて、つぶやく


 「、、、逢いたかった、、、」


 「だれ?」


 朱鷺、バッグの中の携帯を握りしめ


 「どなたですか? こんな時間に誰ですか、警察呼びますよ」


 長身の青年、長いまつげでゆっくり瞬きし、微笑んで


 「、、、やっと、逢えたのです、、、疲れているのですか?」


 朱鷺、携帯を差し出して、震える声で


 「電話しますよ! 警察に! こんな時間にコスプレ衣装着て、おかしな方ね」


 「こちらにお邪魔するのに、きちんと正装できたのですが、、、威儀の者、、、いぎのもの、、、で、、、来たので、、、」


 「、、、いぎのもの、、、って、、、なに、、、?」


 長身のやや愁いを含んだ横顔の青年は長いまつげを伏せて、優雅にお辞儀して


 「宮中での正式な、、、装いですが、、、まぁ、今風に言うと、、、制服です」


 朱鷺、驚きのあまり、携帯を落としてしまう


 「あーん、、、まだ買ったばかりの携帯なのに、、、」


 朱鷺、しゃがんで携帯を拾い上げ、立ち上がるが、そこにはもう、誰もいなかった


 「なによ! なんなのよ! いったい誰なのよ、、、ああん、、、もう私こんなに疲れちゃって、、、私、何を見て、誰と話したの、、、」


 その時、隣の人がドアの隙間から、様子を見ていることに、朱鷺は気が付く

 あわてて、隣の人に頭を下げて、拾い上げた携帯を見せて


 「ごめんなさい、ちょっと友達と話していて、、、失礼します」


 そう言うと、急いで自宅に入って、玄関の鍵を閉める


 そして、家の中からモニターで、ドアの外など、次々と画面を切り替え、

 順々に室外の様子を確認していくが、誰の姿も見えない


 「誰もいないわ、ここの玄関前にも、、、1階の玄関周りにも、、、誰もいないし、、、」


 朱鷺、深いため息をつき、座り込んでしまう


 「絶対、私、あの男を見たし、、、あの男と話したし、、、あの男の、、、あの長いまつ毛、、、覚えているわ、夢の男、、、忘れないし、、、なんだか、、、忘れられない、、、」


 朱鷺、両手で顔を覆って、もう一度ため息をついて


 「私、疲れてる、ダメだわ、こんなに疲れちゃって、、、変なもの、、、見ちゃって、ビール飲んで早く寝なくちゃ、、、天国のママが残してくれたこのマンションにいれば、絶対に大丈夫だ!って思うけど、、、でも、、、明日も市役所の仕事あるし、レッスンのこと、乳母の役、本当に、大丈夫か、、、私、、、あーあ嫌になっちゃうけど、頑張るしかないってことは、分かっている、、、あの、憧れの帝国歌劇団のスカウトが来るらしいし、ムネオ先生のためにも、私は頑張るしかないのよね、、、」


 コンビニの袋からおにぎりとビールを取り出し、部屋の奥へ

 仏壇の前で手を合わせる

 ベッドの中、パソコンでyoutube、Ⓢ君の旅番組を見ながら、ビールを飲み、

 朱鷺は、しだいに眠ってしまう。




 


 


 


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