溺れてしまえ、死んじまえ

波川ハル

前編 抜毛症の彼女

 僕には、なんだかちょっとかっこいい感じの髪型をした友達がいる。この前の席替えで隣の席になった、月見さんという女の子だ。


「髪さ、アシンメトリーにしてるの? 毛量違うね」

 今まで同じクラスで過ごしていても話すことのなかった相手にぶつけるにしては、少し踏み込んだ質問。それが僕、明野みかと月見らんとのファーストコンタクトだった。

「あ、これは……トリコチロマニーで」

「トリ……。それ何語なの?」

「ごめん、かっこつけてしまった。抜毛症って意味らしい、ネットに載ってた」

 そう言いながらも、月見さんは左の後ろ髪にぐしぐしと手ぐしを通す。彼女の手が机上に置き直されたときには、その指と指の隙間に何本かの毛髪が絡まっていた。

 なるほど、そんな感じか。と、僕は思う。

「何か、横文字にすると厨二病っぽい響き。そっか、じゃあ癖みたいなもの?」

「うん、そう。物心ついたときからやっちゃうんだ。」

 月見さんは、薄ら笑いを浮かべながら応えた。どこに嬉しいポイントがあったのだろう。そのまま何となく途切れた会話を宙ぶらりんにしたまま熟考していると、一時間目がまもなく始まると知らせるチャイムが僕を現実に引き戻した。

 教室には、もうほとんど人がいない。ああそうだ、今日の化学の授業は実験室でやるんだ。

 それにしても、月見さんは隣の席の人間がぴくりとも動かなくなったのを見てなんとも思わなかったのだろうか。随分と強靭なメンタルをしていやがる、あの子。

 小走りで教室を出た瞬間、ゴッ……、と重い衝撃が僕の肩を損傷させた。痛む肩を庇いつつ、光の速さで首を右に向けると、そこに居たのは紛れもなく月見さんだった。ただし、その額は僕の肩に打ち付けられたときのままの状態。

 つまり、今僕は月見さんが一体どんな表情で、何を考えて頭突きをしてきたのか窺い知ることができないでいる。

 唐突に彼女が口を開く。

「私は、明野を待っていた。友達がいない訳でもない、が……暇つぶしに」

「えぁっ、ありがとう?友達がいるなら、どうして一緒に行かなかったの。月見さん」

 そこでようやく彼女は顔を上げ、人気のない廊下を階段のほうへ歩き始めた。

「自立した友人関係を築いているから、問題ない。この程度で見限る奴は、友人とは言えないのでは?」

「ふーん、まあ確かにそうかもね。でもさ、僕にはその程度の友達すらいないんだ。だから、考え事をしていても、だれにも茶化されない」

 みかは、わざとスキップのように歩いてみる。両腕で抱き込んだ教科書類が重くて、上手く跳べない。並んで歩くらんの視線が痛かった。

「スキップ、壊滅的に下手だね。転びそうでちょっと怖い……」

「いや、わざとだし。久しぶりに同級生と話せた喜びを表現してたの」

「そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。だがしかし。ダウト、明野には違うクラスに友達がいる」

 みかは、静かに目を見張った。なぜなら、全くもってらんの言った通りだったから。いるにはいるのだ。小学校からの友達が、別のクラスに。

 だが、それに気付かれるほど僕は君と仲が良かったか。答えは否、否だ。なにか、得体の知れない気持ち悪さを覚える。

「そうだけど……。月見さん、僕と話したのは今日が初めてだよね?」

「違うと言ったら」

「この場から逃げる。君とはもう関わらない」

 そうこうしている内にみかとらんは二フロア分の階段を降り終えて、クラスのおおよそ四分の三程度の人数が着席し、思い思いに過ごす実験室へ到着した。もう、科学を担当する教師がやってくるまで時間がない。急がなければ。

 僕は、どすんと音を立ててこの場所特有の背もたれのない椅子に腰かける。――月見さんの真向かいの席に。

「でも、明野。私とは隣の席、イコールあと数か月はこのままだ。諦めたら? 気分を害したのであれば謝る。……あれは占い師のやり方だったからな」

「じゃあ、約束ね」

「約束、とは」

 小首を傾げるらんにみかは、ん、と握り拳を差し出す。小指を差し出さないのは、彼がそれなりに常識的な人間だからである。

「今後一切、僕に妙な搦め手を使ってこないこと。あとは、うーん。特になし!」

「了解した。私、月見らんはその約束を生涯守り抜くと誓おう」

 らんの言葉が終わるか終わらぬかの内に、グータッチのつもりで差し出した手が、殴られたと称しても差し支えのない痛みを訴える。

「痛ッ、いったいな⁉」

 みかが抗議するように愛らしい顔をしかめると、らんは目だけでにっこり笑って呟いた。

「これからよろしく、みーさん」

「え。ちょっ、みーさんって何なn……」

 みかの言いかけた言葉は、時間通りに到着した教師が建てつけの悪い戸を開ける轟音に負けた。

「はい、じゃあ授業始めるぞー。起立、礼!」

 唐突なあだ名の命名に戸惑い、起立するのが少し遅れたみかはヤケになって叫ぶ。

『お願いしまーす!!』


 それからは特に大きなアクシデントもなく、僕は無事に昼休みを迎えることができた。「搦め手は使わない」と約束させたのが効いたのかもしれない。いや、待てよ。

「となると、あれは全部わざとだったのかな……」

 つくづく不思議な人だ。今朝話しかけてからずっと、月見さんは僕の脳内リソースを独り占めしている。ふと、彼女が豪奢なマントを身に纏って、玉座で脚を組んでいる光景が頭に浮かぶ。とてつもなく似合うと思った。

 月見さんは、休み時間だからといって僕に過剰な干渉をしてくることもなく、件の友人と連れ立って購買へ消えた。なるほど、これが自立した友人関係。ちょっと寂しいかもしれない。

 みかは無言で携帯電話を取り出すと、迷いのない動作で某メッセージアプリの通話アイコンに触れた。ワンコール、ツーコール……。

『もしもし、みか。お前さてはまた一人で飯食ってるだろ、毎日電話してくんなって』

「今日はまだ食べてませんー! お弁当を出してもないですぅー!」

 手帳型のカバーを折って電話を机に置き、みかはがさがさと己の鞄の中を漁る。人で一杯の購買や食堂に繰り出すなど、準コミュ障のみかには到底無理な話である。

 通話の相手、鈴原拓斗と合流しようにも、一人きりで弁当片手に校内を移動する恐怖には未だ抗えた試しがない。みかは、一対多の状況が苦手な人間だった。

『ん? 寂しさの限界が来るのがいつもより早かったって?w』

「拓斗。それぐらいにしとけよ。泣くぞ」

『お前が泣いた原因が俺にあるって自称親衛隊の奴らに知れたら俺、死ぬぞ』

 拓斗の返しに、いくらなんでも大袈裟だと声を上げて笑うみか。

 しかし、本人が気づいていないだけで、明野みか親衛隊という組織は存在する。みかが五月にもなって新しい友人の一人も作れていなかったのは、組織内での足の引っ張り合いが原因である。

「いやあ、僕もそろそろヤバいと思って新しく席が隣になった子に話しかけてみたの。そしたらその子によく分かんない絡み方されてさ、どうしよ拓斗」

 水面下で起こっている世にも醜い争いのことなど露知らず、みかは弁当の唐揚げをつまみつつ悩み相談に興じている。

『へえ、名前は?』

「背が高めで、髪型が特徴的な月見さん。実際に見たらすぐ分かるんじゃないかな」

『昔から変な奴にばっか好かれるよな、みかは……。中学のときもさあ』

「その話はもうしないでったら。いつものことだけど、これスピーカーで話してるよ」

『俺もそうだし、お互い様だろ』

 拓斗とみか、双方のクラスで、校内えりすぐりの隠密スキルを持つ斥候が、二人の会話に耳を傾けていた。彼らは、決して会話内容の全てを親衛隊に流すなどという下世話なことはしない。ただ、みかの学校内での安全保障に関わる情報だけをクライアントに提供するのだ。

 らんの話題はこの条件に当てはまった。よって、斥候たちは速やかに親衛隊のグループチャットを開く。

 だが、今更伝えるまでもなくチャット内はそのことで持ちきりである。二人のクラスに潜んでいた斥候たちは、己の存在価値のなさを悲しんで天を仰いだ。

「でもさでもさ、別に僕は月見さんが悪い人だとは思わないんだよね」

『はあ……。だからぁ、そういう思わせぶりな態度は良くないっていつも言ってるだろ。みかは不審者に甘すぎる!』

 親友が誰にでもいい顔をするのを苦々しく思い、拓斗は通話口に向かって声を荒らげた。それを聞いて反省した様子もなく、みかは親のように小言を言う友人を「ハイハイ」と煙に巻き、さらに何度か相槌を打った後に通話を切る。

 拓斗は、どうにも僕を年下扱いしている節がある。誕生日は僕のほうが先なのに。つまんないの。

「みーさん、どうかした?」

「わっ、月見さん! ううん、どうもしない。月見さんこそ、友達とお昼食べてたんじゃなかったの?」

 突然、背後から覗き込まれ、危うく箸を取り落としそうになった。彼女にとって、この程度のことは搦め手でもなんでもないのかもしれない。驚かされたせいで、心臓がドコドコと早鐘を打っているのを感じた。

「私の話を、してる気がして気になった。アイハブ地獄耳」

「ほんとにぃ? さっきまで近くにいなかったのに、よく聞こえたね」

「スピーカーで話していたら、廊下まで筒抜けだ」

 嘘である。らんは、みかの机に盗聴器を仕掛けていた。ついでに言うと、先ほどまで行動を共にしていた友人も理解あるストーカー仲間だ。精々学校内で気づかれないように付け回す程度だが、拓斗をその対象とする彼女とは、ストーカー同盟というこの世の何より固い絆で結ばれている。

「えー!? じゃあもう、スピーカーじゃなくてちゃんと耳に当てて電話しようかなあ。拓斗にも言っておこうっと」

「それは……っ!」

 悪手だった。らんは数秒前の己の言動を激しく後悔する。

 みかが携帯をその場に固定しない。それすなわち、ローリスクな盗聴が難しくなるということだ。彼が自由に動き回れるのであれば、机に機器を設置したところであまり意味を為さない。

 だが、らんにはまだ、本人の鞄や服に仕込むのは流石にまずいとリスクを恐れる理性が十分すぎるほどに残っていた。

「そうすると、なにか君に都合が悪いかなぁ」

 らんは、狼狽えそうになるのを必死で取り繕い、小さく息を呑むのにとどめた。絶対に気取られていないと思っていた。思っていたのに。

「特にないならいいけど。あれ、この教室ってそんなに暑い? 汗かいてるよ、月見さん」

 結論から言うと、みかはらんに何らかの疑惑を抱いて「都合が悪いのか」と尋ねたわけではない。みかのふわふわぽわぽわな脳みそは、純粋に、自分には思いもよらない理由があるのではないかと問うただけなのだ。

 らんは考える。この場を乗り切ることに、今後一生分の運を使い果たそうと構わない。駄目だ、運に頼るな。考えろ、月見らん。みかの追及(?)から逃れるための方法を。

「いいや、私には関係ないよ。みーさんがどうやって電話するかなんて」

 極限に緊張した状態では、人間は良いパフォーマンスができない。

 らんが絞り出せたのは、なんの当たり障りもない否定の返事だけだった。

「それもそっか。……あっ! でもそうしたら、ご飯食べながら拓斗と話せないや。月見さん、どうしよ。僕、あいつと話せなきゃ死んじゃう!」

(……みーさんにとって、鈴原ってなんなんだよ)

 表情だけはにこやかに保ちながら、らんは心中で吐き捨てた。

「あれ、なにか言った?」

「勝手に人の心を読まないでもらえないか。会いに行けないなら、呼べよ」

 僕は、月見さんの言葉にがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。今までの生活で、全く思いもよらなかったナイスアイディアだ。

「月見さん、天才。明日からそうする~!」

らんは、みかからの手放しの称賛に密かに顔をほころばせる。近くの席に座っていたらんの友人も、二人に背を向けて、それは邪悪な笑みを浮かべた。彼女は根っからの腐女子だった。ストーカー兼腐女子という、人の手に負えない代物だ。

「みーさん、視野は広く持っておかないといつか損をすると忠告しておこう」

「さっきまで過去進行形で損してたのを、君のお陰で解決できたんだってば。やっぱり、電話越しより直接話せたほうが楽しいしさ」

「天使……?」

 嬉しそうなみかが発する何らかのエネルギーに身を焼かれ、らんは心臓がうっ、となった。どうにか心を落ち着かせるべく、思わず自分の後頭部に手が伸びる。本当に、無意識下での行動だった。

「駄目だよ、月見さん」

「へっ?」

 狂えるほどに愛おしい相手からかかるステイの合図。らんの思考がショートする。今にも後ろ髪を掴みそうだったその手が宙に静止した。

(これはいつもやってることで。しちゃいけない訳でもない、よな。なら、みーさんは何故止めた? それによってみーさんが得るメリットはなんだ?)

「へっ、じゃなくて。さっきちょっと暇な時間に調べてみたら、抜毛症の原因はストレスだって書いてあるサイトを見つけてね。辛いことがあるなら、髪を抜く前に僕に相談してみてほしいなって」

 信じられないものを見るかのように凝視してくる月見さんの表情に、僕はさらに言葉を重ねる。

「治してみない? 僕と一緒に」

「……どうして私に、そんなに」

『酷いことを言うんだ』『優しくしてくれるの』

 二つの返事が頭に浮かび、それらを同時に発音できないらんは混乱する。

 常識的に考えれば、この提案は善意に満ちている。だが、らんにはみかが自分の大好きなおもちゃを取り上げようとしているようにも聞こえてしまったのだ。らんにとって、抜毛行為はテディベアやブランケットと同じだから。

 でも、愛するみかの言うことなら……従いたい。

「無理に、とは言わないよ。どうかな」

 らんは、虚ろな眼で応えた。

「分かった、みーさんが手伝ってくれるなら。頑張って直す」


 それから二か月もの間、らんは半ば狂気じみた意志の強さで、髪を千切りそうになる左手を抑え込み続けた。みかの声掛けもあり、学校にいる間はそれほど辛い思いはせずに済んだが、問題は家で過ごす時間だった。

 独り、自室の机に向かって課題をするとき。分からないところがあると無意識に手が伸びる。みかとの約束を思い出して踏みとどまった。

 家族と喧嘩をしたあと。苛立ちから故意に二、三十本抜いてしまいたくなる。だがそれも、壁に貼った盗撮写真の中で笑うみかが許してくれない。

 幸せだけれど、辛い。話しかけてもらえて、気づかってもらえて。舞い上がっていた自分は愚かだった。陰から覗き、会話を盗聴していたあの頃のほうがよっぽど楽しかったかもしれない。

 らんは、あれほど好きだったみか神様のことを、心のどこかで嫌いになり始めていたのだった。


「おはよう、月見さん」

「みーさん、おはよう。今日も暑いな……」

 朝、登校してきたみかは読書をしていたらんに声をかけた。

 春は終わり、もう七月も半ばに差し掛かっている。周りの生徒たちも、ほとんどが夏服になった。教室のあちこちで下敷きが踊る。

「そうだねえ。あとちょっとで夏休みだもん、尋常じゃなく暑いよ」

「みーさんは、夏に部活の練習か何かはないのか?」

「あれ、言ってなかったっけ。僕、料理部だよ? そんなのないない」

 ゆるゆると首を振り、みかはハンカチでその白いうなじを滑り落ちる汗を拭う。もしかしなくとも、みかの弁当は毎日手作りのようだ。驚愕の新事実に、らんの脳内では朝から幸福物質がドッパドパ分泌されている。部活関係の情報は盲点だった。

 やはり、明野みかは奥が深い。

「私もない。何せ帰宅部だからな……夏休みは暇を持て余している」

「あ、夏休みといえばさ。しばらく会えなくなるから、連絡先交換しとかない? 抜毛症以外のことでも、月見さんが話したいことがあったら、気軽に連絡してね。いいかな」

「連絡先、みーさんの……? マジですか」

「いや突然の敬語……ん、マジ。はいどーぞ」

 みかがQRコードを表示させた画面を差し出すと、らんの体が目に見えてぶるぶると震え始めた。挙動不審を隠しきれていない辺り、色々とお察しである。

「しっ、し……失礼する」

「月見さん、エアコン効きすぎて体冷えちゃった? さっきから顔色悪いよ」

「顔色は元からだが⁉ 私に構わず、みーさんは鞄でも片付けておいてくれ! 緊張で、カメラがぶれる」

 もはや緊張を通り越して涙目で懇願するらんに、みかは穏やかに目を細めて言う。自分の行動で限界化したらんを、面白がっている節すらあった。

「はは、そんなに気になるかあ……。分かった分かった。じゃあ、先にカバン置いてくるね。ごゆっくり~」

「是非そうしてくれ、このままだと明日は筋肉痛になりそうだ」

「そこまで?」

 みかがらんのもとを離れ、教室の後方にあるロッカーへ向かった一瞬、一人の生徒が通りがけにらんの机に紙片を載せた。『果たし状』とご丁寧に毛筆の筆跡で銘打ってある。

 内容も内容で、放課後になったらこの住所の場所へ来い、といった極めて普遍的なものだ。みかと旧知の仲である拓斗のことは許せても、ストーカー上がりで表立って交流するようになったらんのことは許せないらしい。

 ただ一点、らんが違和感を覚えたのは、呼び出し場所が校舎裏でも体育倉庫でもなかったこと。みか本人が目の前にいたときとは打って変わって素早くQRコードを読み取ると、早速「憎い相手を人気のない海岸へ呼び出すメリット」を思案し始める。

 一つ、まかり間違っても教師に偶然発見されることはない。

 二つ、廃墟などとは違い、学生が放課後に集まっていても不自然ではない。

 そして最後に。口裏を合わせれば

 だから、海開きも済んだこの時期に――というのは自称親衛隊の連中相手に深読みしすぎただろうか。らんの、学年一位の頭脳が唸りを上げる。痴情のもつれ程度で人が死ぬのはおかしいという単純なことに、気づけないままで。

「月見さん。あれ、月見さーん? また考え事かな」

 少しして自席に戻ったみかは、らんに何度か声をかけても反応がないことに怪訝な表情を浮かべた。そのことはさておいて、机上に伏せてあった自らの端末にらんの連絡先が登録されているのを確認すると、満足げに口角を上げる。

 らんの意識が現世に戻ってきたのは、朝の会が始まる頃になってからだった。


『所用で少し決闘してくる。私が明日学校に来なかったら……そういうことだと思ってくれ』

『?』

 本日最後の授業が終わるのと同時に、例の同盟を結んでいる友人へメッセージを送るらん。ややあって困り顔のアニメキャラのスタンプとともに送られてきた返事に既読をつけ、らんは己の決意が揺るがぬうちに、またがっていた自転車のペダルを強く踏み込んだ。

 生きて帰らなければ。みかを悲しませないためにも。いや、綺麗事はよそう。

「私は、愛するみーさんに明日も逢うために。私が気に入らないあいつらを、私だけのためにくだしてやる」

 時刻は午後四時を過ぎたところだが、まだまだ日は高い。

 自転車のペダルが軽い。げば漕ぐほど、面白いくらい周りの景色が後方へ流れていく。息が弾む。気がいても、立ち漕ぎだけはしないよう細心の注意を払った。らんとしても、自分の不注意で事故を起こしたいはずがないのだ。

 呼び出された場所――天名海岸はらんたちの高校から約二キロメートル離れたところに位置している。時速十キロも出せば、十分かそこらで到着だ。

 しかし、それだけの時間怒り狂いながら自転車を漕ぎ続けるのは容易ではない。今、彼女を突き動かしているのはもはや親衛隊連中への怒りではない。

 らんは、彼らに一言がつんと言ってやりたかった。

 みか本人を遠巻きにして裏で騒いでいないで、お前らも表で友達になればいい。

そうすれば、きっとみかも喜ぶ。「なんか僕、このクラスに馴染めてないみたい」と寂しそうな表情をすることもなくなる。

 これは、らんが以前のようにストーカーのままでいればできなかった大発見。

 確かにみかは、男子とは思えないくらい顔が可愛い。ふわふわとした猫っ毛も、黒目がちな眼も。

 みかに偶然声を掛けられて交流を持ったこの二か月。らんはみかの内面に触れた。友人にならなければ真っ当に知ることができなかったであろう、どこぞの書店のブックカバーでくるまれた文庫本の中身について語らった。彼は、血腥ちなまぐさく世知辛い作風のライトノベルがお好きらしい。その作品について話すみかは、記憶にある限りで一番楽しそうにしていた。

 なんだ、みーさんにも意外と捻くれたところがあるじゃないか。そう思えた。

 信仰対象が、偶像が、だんだんと実像を結んだ。

 もうみかを今まで通りに推すことはできない。しない。らんにとって、みかはもう高嶺たかねの花ではないのだから。

 今日は、あのフザけた親衛隊連中に友人としてのみかの尊さを余すことなく布教してやる。その下準備に、らんは高校と海の丁度中間地点にある自宅へ寄って、自らの携帯電話で撮った画像が共有されるよう設定してあるタブレットを持ち出してきた。

 帰宅するなり自室からタブレットを引っ掴んで制服のまま飛び出していった娘に、母親は今頃ため息をいていることだろう。

 無論、自転車のカゴにそのままそれを放り込むとバキバキ液晶まっしぐらなので、くだんのタブレットは大人しく通学カバンの中に収まっている。無心で、リズム良く脚を動かすことしばし。

「……あれだろ、確実に。一体どれだけ集めたんだ、あの馬鹿!」

 らんが思わずえてしまうのも無理はなかった。ざっと数えただけで三十人は、いる。明野みか親衛隊長、伊達坂だてざかぺるの(本名は月見ゆかり、『ぺるの』の語感はフェルト)が暇な隊員どもに招集をかけたに違いない。

 そうでなければ、奴らは放課後に砂浜で謎の会合を開く不審者だ。通行人の邪魔にならないよう、わざわざ各々の自転車を横一列に整然と並べてあるのもいちいちかんに障る。

「遅かったじゃないか、わが妹よ」

 通学カバンを背に負い、勢いを付けて砂浜に続くスロープを降り、そのまま自転車から派手に飛び降りて登場したらんに目を疑いながらゆかりは言った。初動から、完全に迫力負けしている。

 なお、尋常でないスピードのまま乗り捨てられたらんの愛車は何故か未だに自律走行していた。彼女を囲んで脅迫するはずだった隊員らが、逆に追い回されて叫ぶわ逃げるわで、海岸一帯が阿鼻叫喚の様相をていし始めている。

 周りの状況を露ほども意に介さず、悠然と口を開くらん。

「これでも急いだのだが、姉君……。それにしても、この人数が必死に自転車を漕ぐは、想像するだに笑えるな」

 相対するのは月見ゆかり、らんやみかと同じ高校の二年生。らんの実の姉である。

 らんが彼女のことをぺるのと呼んだことは一度もない。むしろ、そのセンスのなさを心の中で嘲笑ってすらいる。

「果たし状を叩き付けた側が先に到着しておかなければ、礼を欠くというものだろう。らん……今からでも遅くはない、わが親衛隊の軍門に下れ」

「断る」

「本当に、呆れた妹だ。少しくらい迷ってみせてもいいんだぞ?」

 らんの自転車が盛大に砂粒を飛ばしながら二人の周りを走り回るので、『断られたら力づくで了承させろ』と事前に言われていた平隊員たちは慌てるばかりで手出しできない。AIが搭載されているというわけでもないのに、彼女の自転車は走り続ける。これが現実だ。受け入れよう。

「黙れ、いい加減にしないと私のブルーナ号が火を噴くぞ」

「具体的には」

「二、三人く」

「よしもう和解しよう! な!」

 傷害事件なのか事故なのか非常にややこしい事態になるのを避けるため、ゆかりは隊員を思いやる者としてくるりと手のひらを返す。その、返した上で握手を求めるように差し出された手を、らんは景気のいい音でもって叩き落とした。

「和解か、承服しかねるな。自称親衛隊長」

「ではどうしろと? はは、そうか。この組織を潰すとでも言うんだろ。らん、お前は昔からそうだ。気に入らないことは何もかもその出来のいいオツムで叩きのめせば解決、だもんな。父や母に見向きもされぬ我の気も知らず……ッ」

 きつく唇を噛み締め、目に涙の膜を張るゆかり。それを見たらんは心底不快だと言わんばかりに表情を歪めると、ほとんど予備動作なしでゆかりの頬を張った。

 べちん、と嫌な音が鳴る。

「姉君、違うだろう。今日はそんなつまんねえ話をしに来たんじゃないだろう。私は、貴女を秘蔵のみーさんスナップの愛らしさで屈服させるために来た。まあ座れ」

「そう、だな。けた我に無駄口を叩く権利なぞないな」

 年子の姉を砂浜に引き倒し、嬉々としてカバンからタブレットを取り出すらん。暴走するブルーナ号はとうに勢いを失っていたが、眼前で繰り広げられる光景の異様さに、隊員らは身じろぎ一つもできないでいる。

 彼らは、今まで誰一人としてゆかりの三角座りなど見たことがなかった。正確には、体育や集会の場で何度も目にしていたが、叱られた幼稚園児のようにしょげるゆかりを、知らなかった。

 制服のスカートが砂まみれになるのにも構わず、月見姉妹はどっかと砂浜に腰を下ろしている。にこにこと笑い合い、一つのタブレットを覗き込むさまは、とても高校生とは思えなかった。小学生の女の子がシール交換をしているがごとき微笑ましさに溢れた空気。

 はて、らんとゆかりは、つい先ほどまで姉妹喧嘩をしていたのではなかったか。

 観客は、首を傾げる。何が二人を、こうまで劇的に振り回すのか。

「姉君、貴女もそう思うか! やはり、みーさんの可愛さは神がかっているな」

「ああ、らん。明野みかの魅力は、この宇宙を平和にするだろう……必ずや、な」

 そうか、明野みかだ。隊員らの心の声がシンクロする。

『みかの存在にこいつらは狂わされている?』『そして私たちも?』

 気付けば、鳥肌が立っていた。ぱちんとシャボンが割れて、おぞましい何かが目の前に現れる。逃げなければ、足を洗わなければ!

 その日、明野みか親衛隊は消滅した。

 らんとゆかり、ただ二人だけを残して。

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