第17話

 王都近くの森、と言ってもそれは森の入り口が王都の近くにあるというだけだ。

 奥へ行けば行くほど森は深くなり、やがて前人未到の険しい山脈に到達する。


 この森を切り開く計画は百年前からあったが、森に棲む魔物や亜人種とのいざこざの結果、現在の状態になったという話であった。

 姫さまは犬亜人との間に何らかの取引があったことを仄めかしているが……。


 現在の彼らとは、没交渉であり、先方がどこまで昔の取り決めを把握しているかも定かではないとのこと。

 何だかなあ……。


 これ、国の側でも正確な取引の内容を把握している人がいないんじゃないか疑惑がある。

 結局のところ、他の亜人種は森の奥深くに消えてしまい、かろうじて浅層に残っていた犬亜人たちもたいした勢力ではなくなったから、ということなのだろう。


 警戒対象から外れたということだ。

 脅威が無くなった途端、人はそれに対する警戒をひどく緩めてしまう悪癖がある。


 それはこの地の王族とて例外ではない、ということだ。

 優先度の問題ではあるのだが。


 なにせ姫さまは普段から多忙な様子だ。

 いまも目の隈を化粧で隠しているほどだし、純粋に忙しすぎてそこまで手がまわらないといった方が正しいのだろうか。


 ついこの間は、南の国の侵攻があったしね。

 周囲の国々がてんで信用できない上に、国際情勢は悪化の一途を辿っているのだ。


 そのあたりある程度は仕方のない部分もあろう。

 そんな状態で、おれの知り合いを含む狩人の部隊が消息を絶った。


 物事の優先順位は一気に変化した。

 森の奥の状況を確認することが姫さまにとっての最優先事項となった。


 その切り替えの早さは褒めたいところだ。

 己の過ちを認める、頭の柔らかいところも。


 まあ、頭が固い奴らじゃ、学院の手綱を取るなんてことできないだろうからなあ。

 某女史は上層部のことをけちょんけちょんに貶していたが、あの古参教授たちだって、当時貴族中心だった上層部とバチバチにやりあって学院の独立性を保った者たちなのだ。


 そこに大賢者の助力があったとはいえ、である。

 その学院に対して王家が相応の影響力を保ちつつも一線を引いているというのは、傍から見ていて見事なバランス感覚だと思うのだ。


 まあ、そんなことはさておき。

 おれと姫さまを含む十一人は、王都を出てから三日目、ついに犬亜人の領域に辿り着いた。



        ◇ ※ ◇



 夏の終わりながら、森の奥のこのあたりの空気はひんやりとしていた。

 ひと目でわかるほど、周囲の魔力が濃い。


 なるほど、この環境でなら魔力をたっぷり含んだ霊草があちこちに自生するわけである。

 大賢者が長年に渡って霊草の自家栽培を研究し、ついに果たせなかったというのもわかろうというものだ。


 ちなみに、おれが師に霊草の栽培について訊ねたところ、「何もかもが上手くいったところで、面白くもなんともないではないか」と負け惜しみを言っていた。

 うん、あのひと、世間の評判と違って、割と普通に悔しがるし、喜怒哀楽も表に出す方なんだよな。


 弟子たちの前でだけ、だったのかもしれないけど。

 そんなあのひとの誠意、とも言うべき数多の成果を台無しにした人々に、だからセブンは、ひどく幻滅したのではないだろうか。


 そんなことを、朝靄の立ち込める森の中で、ふと考えた。


「犬亜人の足跡がありますね。そのすぐそばに獣の糞が。犬亜人が使役している獣でしょうか」


 狩人が地面を観察して告げる。

 隣から糞を覗き込んだ冒険者が「蛇猫かな」と呟いた。


「どのような生き物なのですか」

「ええとですね、蛇のように長い首を持つ――」


 姫さまの言葉に、おれが返事をしかけて、その言葉が止まる。

 姫さまは、こてんと首を横に傾けた。


 と、少し離れた茂みが、がさりと鳴った。

 姫さまの侍従が、そのそばで腰を曲げ、「あら」と声をあげる。


 おれがそちらに振り向いたところ、一匹の猫のような生き物が茂みから姿を現わしたところだった。

 全身、灰色の毛をまとい、でっぷりと太った胴体を持ち上げてよちよちと歩くさまは、ぱっと見て可愛らしく思える。


 侍従は無警戒で、「このようなところにも猫がいるのですね」と呟いた。

 手を差しだそうとして――。


「横に跳べ!」


 おれが叫ぶのと同時に、その生き物の猫の顔が、びゅんと伸張した。

 赤い口の中に鋭く長い二本の牙が見える。


 侍女は慌てた様子で身を倒したが、少しでも反応が遅れていれば、その牙でひどい傷を負っていただろう。

 冒険者が剣を抜いて素早く距離を詰め、鋭い残撃で伸びた猫の首を断ち切る。


 赤い血しぶきが侍女の服を濡らし、ぎゃっ、と声をあげて奇妙な生き物は絶命した。

 侍女は、ぷるぷる震えて、うつろな目で死骸となった猫の顔を見つめている。


 姫さまが侍女に駆けより助け起こした。

 背中を撫でて、言葉をかけてやっている。


「えー見ての通り、蛇猫の首は伸縮自在で、普段はただの猫とあまり変わりがありません。その場から一歩も動かずに、ものすごい勢いで首が伸びて獲物を捕獲します。牙は鋭く、夜目が効きます、あの外見で急に首が延びてくるので、油断していると首筋を噛みちぎられる害獣です」


 姫さまと侍従はおれの言葉を聞き、複雑そうな顔で、ためらいがちにうなずく。

 まあ、ちょっと説明が遅かったね……。


「ちなみに姫さまの母君は、一度、腰を抜かして涙目になりながら剣を振って首を刎ね落としてましたね。あれ以来、猫が嫌いになったんですよ」

「猫嫌いは亡くなるまでずっとでしたが、そのようなお話は後ほど、もっとゆっくりできるときに」


 まあ、今するような話じゃないか。

 それはそれとして、あのときのあいつの顔、めちゃくちゃ面白かったんだぜ。


 おれは蛇猫の伸びきった首を手にとり、びよん、びよんと伸び縮みさせてみせる。


「ちなみに、この首のバネ構造は、最新の弩弓にも応用されています。学院の一部が開発している攻城弓には、この獣の骨がそのまま素材として採用されているんですよ」

「たいへん素晴らしい知見ですが、それはそれとして埋葬してください」


 姫さまは、つれなくそう告げる。

 まあ、今話すようなことじゃないか。


 穴を掘り、蛇猫の死骸を適当に埋めて土をかける。


「おそらく、このあたりが犬亜人の縄張りの東限なのでしょう。足跡が西に引き返しています」


 地面を睨みながら狩人が言う。


「問題は、消息を絶った者たちの足跡が、犬亜人の足跡と入り混じっていることですね」

「脅されて、か」

「あるいは仲良く肩を並べていたかもしれませんがね」


 おれたちは顔を見合わせた。

 狩人は肩をすくめせみてる。


「どうします。足跡を辿りますか。それとも、他の方針が?」

「全員で動くのは、さすがに目立ちすぎる。キャンプ地は犬亜人の縄張りの東限より東側に。三人だけで足跡を追いかける。これでどうだ」

「その三人は、どう選びます? 狩人三人だけで行きますか」

「いや、狩人ふたりと、このおれだ」


 これでも元冒険者で、さんざんに犬亜人の相手をしてきた。

 足手まといにはならない。


 だが、そこに待ったをかける者がいた。


「では、それに加えてわたくしの四人で参りましょう」


 姫さまが、指揮権を笠に着て強引に割り込んできた。



        ◇ ※ ◇



 しばしののち。

 おれと姫さま、ふたりの狩人の先遣隊は、犬亜人の集落があるとおぼしき洞穴の前にいた。


 姫さまは純白のドレスを着こなしながら足音を立てず、すべるように歩き、しかもこちらが意識していないとすぐに風景に溶け込むという離れ業をやってのけていた。

 足手まといにはならないどころか、おれと狩人たちよりよほど上手く、森に適応している。


 彼女のドレスが特別に高価な魔道具であるのは、もはや明らかではあった。

 具体的にどのような魔法がかかっているのかは王家の秘として教えてくれなかったが、こうして共に行動して、そのちからを開示してくれたなら、おおむね予想はできる。


 あえて指摘したりはしないけど。

 とにかく、同行者として頼もしいということだけはわかったのだから、それでいい。


 洞穴の前には、犬亜人が四体、寝そべって眠そうにあくびをしている。

 もっとも、あれは犬亜人特有の警戒であり、つまりは見張りであった。


 この地の犬亜人は、全身、顔まで茶色い毛に覆われている。

 のんびりしているようで、頭の上にあるふたつの耳はピンと立っているから、それ故に周囲を警戒しているのだとわかる。


 とろんとした目つきで、犬に似た愛嬌のある顔だ。

 立ち上がればヒトと同じくらいの背丈になる。


 とはいえ、その四肢は筋肉の塊で、身のこなしはヒトをはるかに超える。

 頭を殴られたら頭蓋骨が陥没するし、その脚で背を蹴られれば容易く背骨が折れるほどである。


 熟練の戦士であっても、絶対に油断ができない相手なのだ。

 たとえこちら側に魔法の補助があっても、である。


 おれたちは風下から犬亜人たちの様子を観察した後、一度、その場を離れた。

 こちらの声が届かない距離まで移動して、ようやく安堵の息を吐く。


「普段より警戒が厳重ですね」


 狩人が口火を切った。


「普段は見張りがいても、二体。見張りをまったく置かない場合もあるのです」

「このあたりじゃ天敵がいないからだな。逆に言うと、今のあいつらは敵に備えている」


 おれは過去にファーストから聞いた犬亜人の生態に関する話も思い返した。

 犬亜人が森の中の洞穴で暮らすのは、それがもっとも天敵から身を守るのに適しているからである、と彼女は言っていたのだ。


 実際に、天敵の少ない地方で棲息する犬亜人は、無防備に木々のそばで寝ることもあるのだと。

 あるいは地上での生存競争の厳しい地方においては、背の高い樹の上を転々としながら生活する部族もあるのだと。


「犬亜人の強さのひとつは、この適応能力の高さなんだ。彼らは夜目が効いて、二本の腕で道具を使うこともできればその腕を木登りに使うこともできる。言葉を持ち、道具を使い、その上でヒトより身体能力が高い」


 そのファーストの言葉を聞いて、おれは首をかしげた。


「何で、そんな種族がヒトに負けて追い詰められているんだ」

「大賢者さまがヒトの味方をしたからだね」


 なにげない様子で、しかし言葉の隅に皮肉を滲ませて、彼女がそう語ったことをよく覚えている。

 それはヒトではないにせよ、たいていの土地でヒトと同じ扱いをされる異種族である彼女にとっては、よく考えてしかるべきことであったのだろうか。


 もっともそれは、彼女が師を恨んでいた、ということではない。

 少なくともおれが知る限り、ファーストは師を極めて尊敬していたし、師の行動に対してもおおむね肯定的だったように思う。


 ただ彼女は、大賢者の行動を全て肯定していたわけではなかった、というだけのことである。

 そして我が師は、自分に対して時に批判的なことを語る彼女に、たいそう信頼を置いていた。


 つまりは、まあ、そのあたりがファーストが師の最初の弟子であった理由なのだろう。

 今となっては、師がファーストを特に気に入っていた理由もわかるのだ。


 彼女は弟子になったときからすでに、大賢者が全てではない世界、というものを考えていた。

 誰よりも先を見据えていた、と言い換えてもいい。


 まあ、それはともかく。

 ファーストの好奇心は、時に師がまったく考えてもいなかったような分野にまで及んだ。


 犬亜人とコンタクトを取り、その言語や文化を学んだのもそのひとつである。

 彼女は、面倒がるおれとセブンに、さかんに己の研究成果を披露してのけた。


 いや、確かに面白かったけどね、犬亜人の言語の構造に関する話。

 師も、発表を聞いてめちゃくちゃ喜んでいたけどね。


 閑話休題。

 姫さまがこちらを向いて、意見を求めてくる。


 慌てて、そちらに意識を戻した。


「すぐに犬亜人とコンタクトを取る予定でしたが、ここまで警戒されているとなると、少し慎重に行くべきでしょうか」

「そう……ですね。殿下がいきなり出るのは、止した方がいいでしょう。まずはおれがひとりで姿を見せて、犬亜人の言葉で話しかけてみます」

「それはいささか、危険すぎるのでは? わたくしの身の安全は考慮する必要がございませんよ」


 いや、ダメでしょ。

 姫さまの身の安全は、そりゃめちゃくちゃ考慮するよ!


 ふたりの狩人と共に、懸命に説得する。

 三対一で、姫さまは不承不承、うなずいてくれた。


 この場に侍女がいれば、もっと楽だった気がするんだけどなあ。

 彼女はまだ足に不安を抱えているし、とても隠密行動なんてできないだろうから仕方がない。


 そもそも、おれたちに余裕でついてこれている姫さまがイレギュラーなのだ。

 いくら魔道具があるからといって、それを十全に使いこなして本職の狩人も舌を巻くような動きができるというのは、これは尋常なことではない。


 優秀な道具を使いこなすだけの才覚の持ち主、ということである。

 先日の採集研修の時点で、その適正についてある程度わかっていたとはいえ、だ。


「もし襲ってきた場合、即座に逃げます。戦闘は考えないように。殿下も、その点についてはよく承知しておいてください」

「無論です。そもそも、わたくしがこの服をまとってこの地に参ったのは、百年前の盟約に従ってのもの。戦うためではございません」


 細かい打ち合わせを重ねた。

 ちょっとでも齟齬が生じれば、寸刻を争う現場でためらいが起き、それが大きな事故に繋がる。


 ましてや今回は阿吽の呼吸で動ける慣れたチームでの行動ではなく、寄せ集めだ。

 互いに、これまでは常識と思い込んでいた部分に勘違いが生じる恐れは充分にあった。


 狩人たちはいざというとき、おれのフォローを。

 姫さまは、最悪の場合に備えキャンプ地に戻る用意を。


 皆が準備を調え、おれたちは改めて、散開する。

 おれはただひとり、あえて足音を立てて、洞穴を見張る犬亜人たちの前に姿を現わした。


 さて――どう転ぶやら。


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