リフレイン
天川裕司
第1話 リフレイン
リフレイン
斜陽の内に立つ青年は、微熱に苛まれた。青年はただ、自分にとって人通りが激しいこの町の通りを立派な心境を携えて睨み、斜陽がさす校庭にポツンと立っていた。
場所は、静岡県。「伊豆の踊子」の舞台にもなった旅館福田家を望める界隈である。文学界に発表された川端の青春が、その時、青年の心を動かしていた。青年には、それが嬉しかった。客を宿へ誘う為に建てられた丈夫な橋に上り、青年は、まるで塗りたての朱色した欄干に体を支えて両手をつき、目前の煌びやかな情景が真下の岩露天の湯気に既に埋もれ始めている。いつかみた「黄金風景」を欲しがる青年であった。それを自由にコントロールすることが出来れば死んでもいいと思っている。人が寄って来た。白髪の初老である。白髪なのに、黒いローブのような外套を気障にはおり、そのくせなめらかな風貌をしている。
私には関係がない、といった調子で一定の距離を隔てて立ち止り、ただ青年と同様に、遠くの景色を眺めては溜息を吐く。もぞもぞと懐に手を入れて、一葉の写真を取り出しては眼差がやさしくなり、現実の風景と写真の情景とを密かにダブらせているようだった。とっつきにくいその様子とはその男だけのものである。青年は近付いてみたかった。無言のままの青年が、その老人の「声」を密かに模索し始め、貰えるならばと老人の言動にきめ細かくマークを付け始める。それは、青年の癖であった。自分は惨めな「負け組」という誰かが形を成した最低の領域に在る。少年のような青年がそう言うのだから妄言さえも一つの事実と成る。これ以上失くすものはないと、自棄による算段がその身の亡骸までも保障した。
あたりの通行人は誰一人として、その老人の姿を見ていない。不意にこちらを振り向く尼がいるが、目線は老人になく、斜陽を背にする我が身にある。彼等の視線の在り方は、一応にして、前方にいる老人をなきものとして決めてかかっている。その醜態は青年の記憶にある。また青年は額が気になり始め、ふらっとあげた右手に注意をそらした。
「早くしてくれ、おれは他人とは合わないのだ。お前がおれの元にくるべき何等かの仲人であるというのなら、しるしを早くみせてほしい」いらぬ算段を固めながら、一方、老人の方では、別の空気が流れていた。
くしゃくしゃに折り畳まれた一ドル紙幣が出て来る。老人は、その青年の事を、乞食、あるいは浮浪者であると踏んでいた。老人の表情の一部始終は青年にそう悟らせた。闇雲が思考を鈍らすうちに、バケツがひっくり返りそうなどんより雲から雨が降り出し、老人の持ってたその紙幣はよれよれ萎びて、ちぎれるほどに風に吹かれた。青年はまた呟いた。
「一体、何の真似だ? 私が乞食か浮浪者にでもみえたのか」
紙幣は青年と関係がない。
すると、老人はきぜんとしながらお芝居し、しかし視線は逸らさず、「お前には、必要だと思ったのだがいらぬなら破り捨てる。ただのプレゼントだよ...」そう言ったあと、わらった。
わらいながら話す老人の声はいつしか聞えなくなり、ついには戯言のようになった。
「いや、紙幣ではない あなたの...。(言いかけてやめ)必要ないだろう」とだけ付けくわえた。また、「あなたはひとつ勘違いしているようだ。きっとそうだ。僕はこの通り、いいとこ出の坊っちゃんで、あなたがきているようなコートを買う金もあり、みなさい。革靴を買う金もある。わかったら早く 立ち去るがいい。」と言うが青年は、無理強いした後むなしくなった。半分、いきり立つほど口調を張り上げ、いつしか闊歩しながら一段下がる。はっきり応えることが出来た。
すると、老人は
「誰にも言われぬ過去がある。お前の過去がどれほどのものかは知らないが、その実、誰かに見られているのだ。この空の向うを考えた事があるか。私にも過去があった。いつまで経ってもお前は知らぬ。伝えたいとただおもい、だから話すのだ。誰でもいい。話して話して、気がすめばそれで良い。それで君が前にいた。誰でも金には魅了される。金はそのためにある。少し 足を止めてくれたのも、お前のやさしさだと思ってな。」
淡白な口調であった。青年には老人の目が壁のようにみえた。
少し、間が空く。
「そんなつもりで私に...?(言葉は出ない) しかしそれは困る。それでは、私にも、準備というものもあるし私はあなたを知らない。自己満足をめあてに、来られては困る。そう、その金には意味がない。ただの紙幣とは、重みのないあなたと一緒に、破かれるべきだ。私にはまだあなたがわからないのだ。」と、あたりを気にしながら、言葉巧みに喋り出す。少々早口だったことを憶えている。
その後、老人が、会釈して、自然の内へきえていった。どんな表情をしたのかさえもわからなかった。青年は追いかけようとしたが、黙ってしまった。老人は、自然と共に寡黙を守り、暫くして、雨が小雨になった。老人の行く先は、天竜と呼ばれる川である。森林の中に冷水のような秋風が吹き、いつかメモ書きをした場所を彷彿させられる。川が流れている。絶え間なく静かな音が流れている。青年は息ついた。体が吸い寄せられるような感覚を老人にも与えてみたかったが、風が吹けば形も吹き飛ぶような空想なので、やがて青年は考えるのをやめた。ただ一切の夢が、闇へときえていく。
天竜は、青年が付けた名前である。老人が仙人に見えたとのことで、咄嗟に付けた。それは老人の為の川だった。青年はいよいよ熱くなった頭を覚え、「朦朧」という言葉をよく口にした。若干高くそびえる上階への石段も、このときばかりは辛かった。この熱をどうすれば冷ます事が出来るのか。ハラハラ算段しつつ、その老人の行く先に、ただ一歩、近付きたかった。老人の末路を確かめたい。ふとした想いに、「憧れ」という情熱がこびりついた。雨がまたつよくなってきた。しかし、傘をさす程の気力なし。熱は高かった。母に持たされた折り畳みの傘が、きれいである。その老人と自分の行き先を絵具でうすくし、境界を持たない天国と地獄の絵図を、そのとき青年はみた。軽い悶絶に伏したのも、またこの時である。
老人がみえた。背中がうっすら霧のような水滴にぼやけはするが、林道をあるく、老人の姿を青年はみた。あるきながら老人は、立ち止ったかと思うと、又あるき出し、又立ち止ったかと思うと次は景色をみていた。森林の空間に何をみるのか。ひとすじ、光が射したのを感じた。老人の前へ出ることはせず、青年はしずしず、跡をつけていった。二人は、しだいしだい、先へと歩いて行った。青年は小声でささやく。老人は小走りに、吸い込まれるように、光に従い、ただ先をあるく。野次馬根性が少し気になり、陰であれこれ情熱走らせ、躍起になった自分が老人の跡を追う姿を、なつかしい場所で微笑ましく見ている自分がいる。しばらくいくと、現実があらわれ、近付くだけで自然とも思われる群衆と落ち合う。群衆はギラギラ光っていた。青年は落胆した。そこに在るのはやはり、現実だった。
パラパラ集まる水滴は、一線を成して群れがさす傘の上をすべり落ち、粉塵に紛れてきえてゆく。橋の上から見下すと、ゴーゴー唸る川の水面に、体をくねくねさせながら、生にしがみつこうとする幼い子供が溺れていた。男の子である。川の流れは濁流であり、とても腰掛け程度に飛び込めるようなものではない。そのうち雨が、勢いを増した。
益々濁流と化すことを、人々は運命を知らないままに、ただ、嘆いていた。当然の予測が思いたくない予測であり、人々は共同体を思わされる。
向う岸に、遅々と準備をしているレスキューの姿が在った。一刻も早く、子供を助けようとしている。母親と思われる若い女が、レスキュー隊員と他の何人かに、体を抱かれて泣いていた。女の体裁は崩れても、その儚さがうつくしかった。その女の嗚咽がこの周囲の人達に聞えていたので、時と自然は一丸となった。レスキューが、助けようとはしているものの準備がやはり遅く、規定もあるようで、もたついている。人の子である。密かな躊躇も見え隠れしている。他所で、老人が飛び込んだ。濁流は老人を取り巻くが、不思議と川の沖合まで辿り着け、子供の顔がはっきりと見えて来る。命をかけた晴れ舞台、否、地獄舞台である。でもその青年は老人に嫉妬していた。当然のように飛び込んだその老人の覚悟が未だ自分になかった為だ。集った人々は、胸を撫で下ろした。同時にその老人の勇気を賛美した。しかしはっとして、感じたものもある。青年は自分をその他大勢にされることをきらい、その群衆をきらった。
群衆の内に、赤ん坊の泣く声がする。別の母親が赤ん坊を雨で濡らして、その赤ん坊が怒ったのであろう。背中で眠る子は目を覚まし、子供をあやす母親の甘い声がする。
どぼん!という轟音と共に、老人の体は、みるみるうちに、男の子がいる岩辺の淵へと辿り着く。岩場は高く上れない。しかしその岩場の陰には出っ張りがあり、子供は手を引っ掛けてしがみつき、その流れに堪えていた。
「怖かったかい? わしにつかまれ。 大丈夫、 もう大丈夫じゃ、お前は助かった」妙に落ち着くその声が、子供心をまるくつつんだ。子供にはきちんと聞えていた。子供は助かった。するする腕の中へと子供が飛び込む。又他所で、二人の男が飛び込んだ。一人はがっしり体系、もう一人は小柄。二人纏めて目を輝かせている。“助けてやる”というのである。レスキューは環境を安全なものに整備し、後の始末を引き受けていた。子供と老人を岸に上げた。あの二人の男たちは結局少々泳いだだけで、飛び込んだ場所から陸へとあがった。レスキュー隊の後には、心配そうに見つめる人々がいた。
青年はいつのまにか傘をさしながら、その老人が入った轟流の泡を見詰める。予期せぬ出来事に、多少の非力を覚えた。しかし歩かなくてはならないこの路地裏では、そんな弱音を吐くわけにはいかなかった。その老人に魅力を感じたことは認めるが、我を忘れたわけじゃない。これもいつもの癖。何度か言い聞かせ、自分の背後から続く表通りを心固めて歩いて行くのは、いつまで経っても、やはり辛いことだった。「シルクハットを被った悪魔」、青年は見たいと思ったが、会っている気もした。
「道がつづら折りになって…」、昔に覚えた句を、青年は、薄明かりがつく料亭の一室で、何度も眺めていた。きちんと枠組みで区切られた一室の空間の丁度中央に、古筆の掛け軸が吊るされてある。その本紙に書かれている。金襴緞子を思わされた。全部がうつくしかった。中回しを仕切る上一文字と下一文字、天地を吊る風帯は意外と細かった。やはり揺れない。堂々とそこにある。三日月が出ている夜空をみると、嵐のあとの静けさのようで、少々の心残りを青年は感じていた。「旧暦の三日の細い弓形の月」、まるで自分とは関係のないことのようだ。
自分には何もできなかった。とぎれとぎれに聞こえるざわめきは木々のこすれる音で、未だ目覚めぬこの心を、嫌になる程あやしてくる。
あの勇気へと後押ししてくるほどに、静かな助長はしんしんと鳴り響く。一本、この部屋のすぐ裏手に聳え立つようにして生える杉の木が、夜空へと逞しく伸びる。誰も来ない寂しさは白紙に書き付ける言葉の度合いを一層勢い付かせるのだ。あの橋を通って、誰か私の所へ来ないものだろうか。私は、現実が景色を見せているこの今、何かの力に依存している。自然の力かも知れない。しかし、到底手が出る代物でないと、また自然に対して対峙する。自殺する者の心境が、今ならわかるかも知れない。そう思ったのは岩の露天に落した“黄金風景”、老人の勇気、あの子供の窮地、からの影響の為であると、また言い聞かせた。何も態の無い自分の正体を知るや否や、一度、風呂に入ってすすけた汚れをきれいに洗いたいと思った。そうすれば自分は、洗い終えた暁にまた別の解を見る、などとおどけた心を思い知るのだ。誰かが洗ってくれるのならば、その洗ってくれた者に新しい一ドル札を差し上げたい。新しい価値にこの身を隠したい、思い続けていた。どこかへ行っても、絶対誰かの心に残りたい。いつしか誰かは、私のところまでやって来て、見たこともない、聞いたこともない財産を、目前いっぱいにぶちまけるのだ。この心と体はそれで癒される。支離滅裂な言葉は風に乗って、金襴緞子の前を通り、静かな空間を味わいながら、あの木が伸びる空まで昇ってゆく。未知なる褒美は誰のものであろうか。あれから少し考えた。私は途方もないくらい杜撰な生活をし続け、空虚を空虚と呼ばず、突き進む疾駆の馬車の如く、外界を走った。独壇場だった。この独壇場には、勇者と悪役と、一人のいけにえにされる少年が居て、その演技と演出は誰かが決めている。監督が隠れていることは、舞台が始まった事で否応なく知ることになり、それだけにはがゆさが残る。何故、舞台の役者はそしらぬ顔で演技を続けているんだろう。演技種目を誰に教えられたのかはつゆ知らず、証明が消えるタイミングは誰も知らない。このはがゆさがいつか治まると信じて、その舞台を終わりまで見続ける。
咳が出る。どうも風邪を引いたようだ。益々、天気がよくなり、青年は気分が滅入る。春の日差しはぽかぽかと、私の背中を叩いてくれる。春に活力をみたのは、ずっと以前のこと。もう忘れるほどの昔である。王冠が欲しいものだ。天に積む財産が欲しいものだ。神の言葉が欲しいものだ。悪の存在が欲しいものだ。わけのわからない言葉を羅列しながら、なにか本当を創りたい。春と夏とではどちらが私に適しているか、しかし春も夏も季節という定番にかまけてどちらも来て、私をつつむ。「定番」がいつ出来上がったのかも知らぬままに、選ぶ権利もないわけだ。選んでいる場合でもなく、その季節ごとに準備をしなくちゃいけない。何も考えられなくなった。ここで終わりとしたい。ただ今は、咳がとまること、風邪が治ることを祈るだけである。
襖が開いた。外から、よわい女の両手が膳を差し出す。
「ようお越し下さいました。なにぶん寒くなってきましたが、今宵はゆっくりとお過ごし下さいませ。要るものがございましたら、いつでもお申しつけ下さい。」と、蚊でも止まりそうな女の右手は、ふくよかで、血色の良い桃色をしていた。唯、長々と書けばいい小説の疎ましさを一掃してくれるような、強欲を秘めた色香さえ、漂わせている。
青年は自称の小説家であったが、その真価に誰も気付かなかった。青年はその未熟を愛してはいたが、その評価には上限があった。これから死すべき時期が訪れても、その情景を保つ事に尽力するのだろうと、少々、覚悟している。「ありがとう」を言い、そそくさと自分の座していた座布団から立ちあがり、女の差し出す膳を受け取った。エコノミーな安いものであったが、うまい、うまい、と頬張る姿を、可哀そうに思うくらいに、もう一人の自分が見ていた。客観的な自分の存在を覚えながら、青年はふと、聞えてくる外界の雑踏に耳を傾ける。食べ終えたあと、膳を部屋の隅に寄せ、女がいないことを確かめたあとで外へ出た。きちんと襖が閉められた部屋は、少々、暑かった。とと、と廊下を駆け下りながら又一つの空想が、青年の心に踊り始める。
白紙に書いた出来心は、酔って書いたような乱文であり、後にも先にも、見せる相手がいなかった。唯、自分だけのものだと、折り畳めば又、強弱の付いた衝動があらわれる事になり、掲げたその体裁は、専ら文学青年が織り成す立派なものから、唯、遠ざかることになった。都会と田舎の空気をふんだんに凝縮させた感動の正味を食い散らかしたあと、空を眺めて、自画自賛を又、始めてゆくのだ。
見知らぬ死体があった。
「この残骸は誰なのか。自分の手に触れることも出来、また臭いもただよう。でも命がない。体と命は別物か。命はどこへ向かったのか 行ったのか。どんな解釈を以てしても、なにも掴めない。一つの解しか持てない。空想の域を出ない。それに気付いていながら、何故、私はまた考えるのか。有無を云わさぬ現実が、今また、屹立の態を以て目前に立ちはだかっている。」
狂人の声が暑い空に響いた。誰も真似の出来ない懊悩の姿である。解の産出への手段を打っている。かわらぬ姿が在った。少し、汗ばんだ。しかし何か掛けるものが欲しかった。毛布でもいい、タオルでもいい、今の自分を守る何かが、このとき必要だった。しばらくぶりの逃避行は堪えた。いつもの準備をしないままに、裸の心で表へ出たのだ。そりゃ堪えるわな、とか納得してもやはり体は正直である。水が欲しかった。
窓を開けて、外を眺めた。春の夜はしんと静まりかえる。雨はもう降らず、老人の行方が欲しかった。老人はもう戻らないことを知りながら、青年はやはりぼんやりと頬杖ついて、なにもうつらない景色を眺める。しかし誰かここへ来ないものか。ずっと私は待っているのに。訪問者の顔を、一度でいいから見てみたい。あの、老人でいい。いや子供でも。群衆の顔を知らぬ青年は、そのような無駄口を心中で自分相手に繰り返す。鶺鴒の尾が水辺で自分を誘うように、うつくしく輪状を成したあの追憶が今でも残る。少し離れた場所から希望が私に手招きしている。行かなくては、と腰を上げてはみるものの、ずっと座った腰は思いのほか重く、なかなかひとりじゃ上げられない。絶えず自分の徒労を憐れんで、行く手を阻む障害となるのだ。ここで負けては苦しむだけだ、自分の、無垢な子供に見立てて他力を装う姿が、鏡の中でこっけいで、こっそり微笑む時を知る。優柔不断という概念が、今、自分を苛む。誰かに非難されても仕方がない。そんなことは考える必要のないことである。過去を写したアルバムは、自分の手の中にあり、こんな時、ひとつふたつ、体裁を繕うための矜持を言い出す。信じるものは自分の才能か。ただ控えめな「誇り」を繰り返すだけの才能は、今、目の前で動かない。まるで死んでいるものの様である。青年は、これまで書いた自分の暴露を、この世が織り成してくれた愛すべき、生活の一部であると自負している為、一遍ずつを編んで、集大成的なアルバムを作ろうと画策している。そのアルバムの内に真実が映っていると信じた。それを持つ手はなかなか震える。確かめられないほどに、青年は脆弱に見舞われるかも知れないが。
翌日、昼遅くに目覚めた。階下では、なにかざわついており、時折つんざく声もしていた。老人が見付かったらしい。見付かったらしい!布団をはねのけ、すっかり冷え切った部屋の空気は他人顔であったが火鉢の炭に火を灯す。なにか寒い。今年の初春はまだ寒いようである。頃合い良くして青年は、襖を開けて階下へ下り、顔を洗って、出掛ける支度に精を出す。歯ブラシとコップを又片付けて、とんとんとまた二階へ上がり、チャックが開いたままの鞄から今日の服を出す。
「体がふやけていたみたいよ。丸丸肥えて、腐乱していたみたい。かわいそうに、身よりもないから警察が引き取って安置しているらしいわ。でもあの時の子供は助かってよかったわね。」と人々の声が交互に聞える。
「死んだ?」、青年は、問答を打った。昨日までの邪念は一瞬にして憧れに変わった。にしても、のっそり座ってみたが心細い。空気が冷たい。しんと静まりかえる。遠い昔へと昨日が遠のいた。現実に蹂躙された脆弱な命は、背後の敵をじっと見据える。しかしそのうち空腹を覚えて、階下へ下りた。女に話し掛けてまた飯を食う。食い終ったあと、青年は宿用のつっかけを履いて表へ出た。向い辻に店を構える醤油屋の娘は、その軒先に水を撒いていた。手に持っている手桶は銀のメッキが付いており、春の光を真っ直ぐに反射した。白く輝き、白梅の様だった。娘の着ていたブラウスが同じく光を放つので、青年は、まぶしさで目をそらした。閃光の激しさを想像していた。
実際に、何が起ったのか、その目で確かめる為に、憧れと不安と虚無を抱いたまま、緩い坂道を下りて行った。また汗ばんだ。春から夏にかけてのcurrentはどうやらここでも不動のものである。自然が男を見守る。段々と現場に近付いている様子である。誰かに事の真相を訊いてみようとしたが、こんな時にかぎって誰も現れず、ただ歩くだけだ。観光地もなにもあったものじゃない。ずっと人が現れず、延々と歩くうちに、ひとりの警官に出会う。その警官に訊いてみた。
「今頃ちょうど身元の確認をしている筈だ。なにぶん、所持品がないから身元がわからんらしい。どこから来たのか、何しに来たのか、わからんとのこと。まったく影のうすい老人だ。まるで死んだことも本当とは思えん。死ぬまでに、あの老人を見た者は誰もいないというのだから、これだけ人が多い界隈でですよ!あなたは、あの老人が亡くなる前に会っていませんか?話をしたなど…。」
何事もなく事件は捜査されているようだった。告白した青年は否応なく警察署へ連れて行かれた。桜が散った川のほとりがきれいだった。今年は早く散ったらしい。
(人)「どうですか。まだ思い出せませんか。あの人はどんな話をあなたにしていたのか、細かく話して頂きたい。」
(青年)「….。どう、と言われても。何分、昨夜は、酒を呑んでしまいましたから、よく覚えていないんです。でも、一ドル紙幣を持っていました。その紙幣を私に見せて、自分の話し相手になってくれと。私は、少々、疲れていたから、なんだか腹立たしくて、あの老人を叱咤しました。他所でやれと。」
(人)「なに?一ドル紙幣!?なんでそんなものが出てくるんだ。それは本当に一ドル紙幣でしたか?」
(青年)「はい」
(人)「まさか。なんのために。外国為替ですよ。あんた。たとえばこんな所へ来る初老の輩が、一ドルなんて持っててもしょうがないでしょう。他の物ではなかったのかね?例えば、遺言書だとか」
(青年)「いや、一ドル紙幣です。ええ、あれは覚えています。一ドル紙幣でした。」
(人)「って言ってもねぇ…。」
(青年)「いや、何故、あの時居なかったあなたにそんなこと言えるんですか。私はあの時、彼に差し出された一ドルを見たから、あれは一ドル紙幣だったと言ってるんですよ。端から疑うのはやめて下さいよ。私には、嘘を吐く理由等ないんですから。」
(人)「わかったわかった、じゃあそういうことにしておきましょう。興奮なさらずに。では、どんな内容の話でした?あなたとその老人がしていた話です。」
(青年)「だから、どんなと言われても、さっき言ったくらいしか..。唯、あの人は、話し相手が欲しかったらしくて、たまたまそこに私がいたので選ばれたのでしょう。私が、あの橋で近くに居たものだから。そのくらいしか思い付きません。」
(人)「いや、経過はいいんですよ。内容を教えて欲しいんです。どんな内容の話を老人はあなたにしていたのか、という事です。簡潔でいいから言って下さい。」
(青年)「確か、この一ドルは君には必要だ…君はあの空の雲の向う側の事を考えた事があるか、だとか。要を得ないことを。あとは憶えていない。」
(人)「(上体を仰け反らして)いや、要を得んのはあなたのほうですよ。そんな話をする人が在りますか?うーむ、何かを隠しているんじゃあるまいね、君。君の言うことには、自然の成り行きというものが見えてこんのですよ。すべてを自供して下さいよ、きちんと!」
(青年)「(自供という言葉に敏感に反応して)自供って、それじゃ私が犯人扱いされているようじゃないですか。何もやましいことはしていないのに、どうしてそんな言葉が出るんです?いい加減にして下さい。もう帰して下さい。」
青年は、途中まで成り行きに任せて応えていたが、犯人扱いされそうな自分の状態を弁護するが如く、警察の人間に敵意を投げた。調書を取ったのは上がりたての警部補であり、手柄を立てたい一心で、この事件を担当していた。「身の程知らず」さえ彼の勲章であり、昇進の為と、その異彩は無敵を思わせた。大卒であるが、キャリアを掲げて邁進しているため、十年間の従事にものを言わせた順風な経歴を持つ。現場を指揮する警部補としては、何が何でも解決しようと躍起になって奔走するのは仕方なかった。青年は、そんな彼に、捕まってしまったのである。青年はその警部補をきらった。
(人)「わかりました。ではもう帰って結構ですよ。いやぁー、色々と御免被りました。いやいや、失礼しました。あなたの潔白が証明されましたから、もう、付き纏いませんよ。」といって笑った。
突然にして、態度を改め、青年は返される事となった。別のところに進展があり、事故死であるとの一報が入って来たのだった。少々、呆けた青年は、椅子から立ちあがり、その署を出た。
「事故死」、この言葉が響く。その事実は心に残り続け、青年の思う処となった。宿へと帰る途中、誰が引き起こした事故か、などと問答していた。しかし、しているうちに景色に気をとられて 一度考えるのをやめた。
青年はあの老人の顔を思い出そうとするが思い出せぬ。追想するが景色さえも甦らない。一つの事しか考えられぬ。あの老人は何の為に自分に会いに来たのか。偶然。運命。想像が彩る処となる。本当に、はがゆいばかりであった。何か、鬱蒼とした真実のうちに、求めるべき本当の事が隠されていると考える。時々やつれた自分の頬は鏡に映る。鏡に映して、喜怒哀楽を知る。苦労もないのにこの憔悴とはどうしたものかと煩う日が、暫く続いた。飯はよく食う。此の頃の自分は、自棄の輩と半ば決め付け放蕩しており、ところどころで暴走の糧を頬張る傍ら、きまっていつもの問答が始まる。あの問題もこの問題も片付けたいのに、それでもずっと近付けず、苦労も足りない気がして、自然の内で、いつしか自分に課した「すべきこと」をしっかり享受している。遠くの山も、近くの川も、知らん顔である。これが良いのだ。そう言い聞かせながら生きようとするが、いつもの文句に自身が負けて、かけがえないものと錯覚が理想を追い掛けさせる。一つ覚えの理想家のように、落胆したとき始末に悪い。やがては、あの子と老人が手招きしている自然に憧れて、自分も仲間入り出来ることを、期待している。
宿に着く頃、女が、青年の帰りを待っていたのか、そわそわしながら門の前で立っている。青年の姿に気付いた途端、手を振りながら走り寄り、宿料を催促する。女はそれまで水仕事をしていたのか、腕と前掛けが少々濡れていた。
(女)「どこへ行ってらしたのですか 探しましたよ。急にお出になられて帰って来ないんですから。鞄は部屋に置いたままだし、宿料だってまだですし。もしかしたら、と心配したじゃないですか。(笑いながら)どこへいらしてたのですか?」と、どぎまぎしながらも笑顔を見せ、真面目に質問してくる。
(青年)「いやぁ、随分と遅くなって。宿を出てから三時間も経っていたとは、自分にはもっと短い気がして。はぁ、申し訳ございません。ですがこちらもお客ですから、そんなに一々断らずともいいものだろうと思いまして、ゆっくり、てくてく、帰って参りました。いや、唯、ちょっと、昨日の事が気になりましてね。」と、青年は少々安心しており、老人の事も、子供の事も、いっそ他人の事だと、楽観している様子だった。
しかし途端に、曇り空から雨が降り出した。そのお陰で昨日の事を彷彿させられ、宿の戸口を入る手前で、青年はゆっくりと溜息を吐いた。春の陽気は次第に崩れて、気付く間もなく曇天となり、青年はゆっくりと帰ってはいたが、雨には濡れずに済んだ。青年と女は笑いながら奥へと入る。
(女)「まぁ、また雨がきつくなりましたね。ここのところ、へんな天気ばかりが続くのですよ。濡れずに済んでよかったですわね。」と微笑ながらに頭をかきかき、すらりと座って、青年のつっかけの泥を払って、お客用の下駄箱に置いた。
(女)「お食事でしたら、もうすぐ上がれます。お部屋でくつろぎながら待っていて下さいませな」笑顔を見せて、さらに奥へと姿を消した。
青年は、程良く濡れた背中に手をやり、なにはともあれまずは良かったと、気持ちを少し落ち着けてから、二階の部屋へ上がった。雨のお陰で汗ばんだ背中は冷え切った。その日はずっと雨だった。
轟音と、静けさと、無音の中で上手く調和して、心地よいBGMを醸し出している。青年にはもう何もなかった。雨音はそれから一層激しく鳴り続け、青年の部屋までも揺さぶるほどだった。携帯していた本、掛け軸の句、着ていた服は、今じゃすっかりくたびれて、青年の前ではたいしたものではない。青年は一作家を愛読しており、喜怒哀楽、すべての時に、変わらず胸に仕舞い込み、一読一音を以て没頭していたものがある。川端康成の「雪国」である。青年には故郷の歌として居残り続け、なにをするにせよ、生涯忘れはしまいと心に決めていた。加えて「伊豆の踊子」と「化粧と口笛」も読んでいた。
別の用途で持っていた便箋を一枚取り出して、さっきの女の似顔絵を描いてみた。模範の絵の上に薄紙を敷いて、筆をぷるぷる震わせながら描く子供の気分を味わった。なかなか上手くはゆかないが、それでもぼんやりしながら描いている。描く間にトイレへ三回行った。仰向けに寝転がり、上手く描けた、笑った。とりわけ最近の自分にしては上手なのが描けた。太宰の乳母の「こもりのたけ」に似ていた。あはは、と笑って、動かなくなった。天井で何か音がする。雨が滴る音かと思ったが、よくよく聞けば違う様子で、「ころころ」の音に変わった。鼠が走っていた。
古都の響きは良いものであり、青年はどんな気分に浸っている時でもたいてい憧れた。ちっぽけな町の彼方に、自分は随分長いこと過していたものだと、なつかしい記憶に絆されてユートピアをみる。歪みのない日常を生きたいと思ってみても、寸分狂わず歩くのは至難の業であった。掲げた正義が現実に打たれて自身に弱みを呼び込み、とぎれとぎれの闊歩を見出す。このような転身は見馴れたものだ。味がよく出る懊悩の破片を今でもずっとかみしめている。そんなものどこかへ飛んで行ってしまえと、かわるがわるに言ってはみても、現実通りに進展してゆく。どうやら特許は取れそうにもない。歪んだ口元にすでに味気なし。この背中に翼がついていれば、この世界でも羽ばたけるかしら。どこまで行けば一糸纏わぬ姿で立派になれるのか。快楽主義の文士は今日も又、いつもの徒労に拍車を掛けている。今、あの老人が青年にとって何者であったとしても、青年は扉の前で、扉が開くのをずっと待っている。老人に対しても、子供に対しても、同じ文句をずっと叫び続けている。どこまで行っても追い付けないのであれば、それはそういうことなのだ。追い付けないものである。そのようなものは幻と同じで考える人の自由の産物となる。捕まえられない自分の弱みは、一太刀も浴びせられない可憐な真実に、くり返し魅了されている。違った価値を青年は理解出来るのであろうか。いや、きっと、出来ないだろうね。
リフレイン 天川裕司 @tenkawayuji
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