5

 昨日、登校すると言ったせいで引っ込みどころを見失った私は、仕方ないので宣言通り学校に行った。


 とはいえ、まさかの事態に学校は対応に追われているようで、朝礼で校長から事のあらましを聞き、そのあとはろくに授業なんてなかった。

 いじめ調査のアンケート、面談、カウンセリング。それが一通り済んだら教員は会議で生徒たちは自習時間。

 その後、数日の自宅待機を言い渡されて早々に下校した。



 ルカと帰宅するときは、たいてい街の外れにあるコンテナ倉庫の前で待ち合わせをしていた。曰く、うちの会社が関わっているところとのことで、彼は定期的に倉庫のチェックに行くよう父に任されているのだ。


 いつも一緒に帰っていた歌留多はおらず、ルカに連絡を入れたら、いつも通りここにいるからと返信が来た。


「とてもお似合いだったから、さぞ悲しんでいるだろうと思ったのに。あんた、随分と淡白な奴だね?」


 不意に背後から声を掛けられて、後ろのコンテナの扉から伸びてきた手に腕を掴まれて、そのまま倒れるように中へ雪崩れ込んだ。中は薄暗くて、ひとつだけ灯っているランタンだけが頼みの綱だった。塗料のような匂いがする。


「『カルトちゃん』、あんたを守るんだって、代わりに耐えていたのに、もう死んじゃったね。残念」


 私と同じ制服を着た人と、ふたりきり。面識の有無は暗いせいで分からず、ただその声はどこかで聞いたことがある気がした。

 元々口も態度も悪い方だという自覚がある。知らないうちに誰かの恨みを買ってしまった経験は、少なくない。

 けれど歌留多の話が出るとは思わず、肩をびくりと上下させ、動揺をあらわにしてしまった。


「まあ、これでようやくあんたと対面できたんだし、いいけどさ」

「……あなたが、歌留多を殺したの?」

「まさか。私が知らないうちに、勝手に死んだだけだよ。もしかすると、あんたが殺したも同然だったりして」


 なんてね、と薄ら笑いで言ってのける。


 私が歌留多を殺したのだろうか。

 言葉はきついし、態度も最悪で、協調性も恐ろしいほど無くて、何でもすぐ他人を巻き込むトラブルメーカーだ。おまけに、無意識のうちに人の自尊心を躙っていた可能性もある。


「あは。アレ、あんな日本人形みたいなナリしてたし、あんた、お人形遊びにハマっちゃったのかと思ってた。でも残念、お気に入りの道具は壊れてしまいましたってね。そろそろお子ちゃまから卒業しなよ」


 歌留多が去年の半ばに編入してくるまで、そういえば私は嫌がらせ(にしては軽いもの)を受けていたな、と今更思い出す。

 口論では負けないものの、明らかにパワー不足で物理的には勝てなかったのだ。おまけにプライドが高いせいで誰にも相談できないまま、ずるずると続いていた。


 けれど、あの子が来てからは、そういう類の一切がぴったりと止んだ。一人から二人になったことで止めたのか、それともターゲットが移ったのかと思っていた。まさか、まさか歌留多が背負っていたとは思わなかった。


 彼女といる時間が楽しくて、過去の苦しいこととか全部どうでもよくなっていた。けれど、私が好きな彼女の無垢な笑みが、そんな痛みに耐えながらのものだとは考えもしなかった。

 目前のこの女子生徒とも、およそ一年ぶりの対面だろう。そんなことを考えながら、右頬を打たれている。以前と違って抵抗のない私を見下ろし、殴るのに飽きたのか、彼女は私のリュックを雑に持ち上げた。


「何これ、だっさ」


 まるで宝石のようにカットされたアクリルの塊がついたキーホルダーを、彼女の手がひょいと持ち上げる。

 いわゆる女児向けのアクセサリーだ。幼少期にこういったものを目にしてこなかった歌留多が、私とお揃いにしたいと選んだものだった。

 これを選ぶということに彼女の過去がたくさん詰められている気がして、私は快く受け入れたのだ。


「そういえば、『カルトちゃん』も同じようなもの付けてたな。お揃いってやつ?」




 ――この青い方、望音ちゃんの目の色みたいで綺麗だね! 私、これにするよ。

 ――じゃあ、私もあなたの目の色にする。

 ――ええっ、黒だけどいいの?

 ――だからいいのよ。


 他のものより光沢のないものだったが、私は派手さを求めているわけではなかったから構わなかった。ずっと大切につけていよう、と彼女は嬉しそうに青と黒を見つめていた。




 その片割れが、今、目前で引き千切られそうになっている。

 ほぼ反射的に、立ち上がって手を伸ばした。こんな奴に何もかも壊されるだなんて絶対なるものかと、怒りや悲しみというよりは執着に近いものが、私の背中をぐっと押したのだ。


「返しなさい!」


 鈍い音が辺りに響く。それが、壁と人間の頭部がぶつかった音だと気づくのには、しばらく時間を要した。どちらがぶつかったのか分からず、頭も回らなくて、ぼんやりとしていた。ただ、何とか取り返して握っているキーホルダーの僅かな重みを感じて、ひとまず私は生きているようだと安堵した。


 辺りを左手で探って、近くにあったランタンを掴む。

 もうひとりの気配がしない。さっきの音は、彼女がぶつかったときの音なのかもしれない。

 手が震える。じわじわと寄り来る焦燥と罪悪感に、心も体も蝕まれていくようだった。

 いつもより足早なテンポを刻んで、全身に血が巡っている。彼女の名前もろくに覚えていないから、名前を呼んで返事を待つことも出来なくて、ただ荒い吐息のひとつふたつを零した。


 淡い光の灯ったランタンを向ける。

 ちょうど扉が開いた。恐る恐るといった様子でゆっくり開かれて、溢れてくる外の光が眩しくて目を細めた。私を殴った彼女は扉のすぐ傍で倒れていて、扉が開いたことによって、ようやくその姿が確認できた。白い扉の下には、血痕が池をひとつ描いていた。

 糸の切れた操り人形のようだ、日本人形より余程滑稽だ、などと考えていられるくらい肝が据わっていたら、まだ幾らかはマシだったかもしれない。


「……モネ?」


 外から、見知った人影がこちらを見下ろしている。

 逆光でその表情は窺えなかったが、少しだけ肩を揺らして呼吸をしていて、きっと私を探していたのだと察した。

 何と言い訳をしようか、あるいは素直に白状すべきか、冷静でないまま逡巡している私を一瞥し、彼は倒れている女子生徒の方に向かった。生気のないだらりと伸びた腕を避けてしゃがみ込み、その首筋に手を当てている。


「……ルカ、その、私――」


 どくん、どくん、と次第に大きく跳ねていく。駆け足になっていく。そのうち転んでしまいそうだ。


「モネ」


 こちらに振り向く。私と同じ色の瞳は凪いでいた。


「待たせてごめんね、先に家に帰っていていいよ。こっちはもうちょっと長引きそうだから」


 いつも通りの微笑みを私に向ける。彼のその言葉が何を指すのかだいたい伝わってしまって、血の気が引くどころか、生きた心地がしなかった。

 どく、どく、どく、どく、頭部に脈打つような痛みを覚える。この頭痛が、『私が頭を打ったから』であったらどれほどマシだっただろうか。


「……ルカ」


 どうすればいいのか分からなくて、けれどここで帰ったらいけない気がして、困り果てた末に兄の名を呼んだ。




 事の発端は、この通りである。

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