あおによし
山本楽志
あおによし
「サイアクッ!」
そんな悪態がつい口をつく。
降りだすんじゃないかと思っていたけど、こんな時にかぎって私の予感は見事に的中してしまう。工場を出たのがちょうど雨の時間だったのだ。
社員の人が誰も外を出歩いていないわけだ。
典型的な屋根雨だった。
エントツから噴出させられたり工場壁から洩れ出たりしたスチームが上空で冷やされ凝集した滴となって落ちてくることがある。特にこのあたりのような湖面工場の場合、フロート下の湖水の分湿度が平地より高いから降る量も激しい。本来の雨と違って滴が細かくて服やスカートにしみて肌にまといついてくるのも鬱陶しくてたまらない。
見上げると工場の合間にのぞく空はぼんやり霞んではいるものの晴れたままで、それどころか青空を背景にして水滴がキラキラと輝いたりあちこちで虹がかかったりしているのがまた腹立たしい。
『どうぞお持ちください。処分していただいてかまいませんので』
別れ際に主任の小宮山さんから手渡されたビニール傘をあわてて開いた。ところがその傘面にはでかでかと〈弓削蒸機械工業〉の文字が。
「さいあく……」
もう一度そうこぼして、でも他に選択肢もないから、見下ろしてくる左右の建物がどちらも当の弓削工業のものだというのを不幸中の幸いとして駅へ急ぐしかなかった。
朝夕のラッシュ時以外は準急も停まらない湖北本線紫蕗駅では、この昼過ぎの時間帯だと普通でさえ一時間に一本か二本しかやってこない。そして十三時台唯一の便の到着はまもなくだ。
この上乗り遅れたりしたら最悪だ。私は心持ち早足で県道を急ぐ。
でも右の手で傘を持ち、わきにカバンをはさんで、左の手で大きな紙袋を提げているものだから、逸る気持ちとはうらはらに足取りはちぐはぐになる。
小宮山さんは仕事熱心なのだが、効率よりも情熱を優先して、それをぐいぐいと他人にまで求めてくるタイプだ。
今日の訪問だって、わざわざ電話で画期的驚異的独創的革新的とやたらと的を連呼した新製品で焚きつけようとしてきて、その攻勢に根負けした上司が白羽の矢を私に立てたのがいきさつだ。
けど結局新機軸というタービンの特色も、説明してくれている小宮山さんの熱意の半分ほどもぴんとこず、とにかく社に持ち帰って検討をと伝えたところが、データのアドレスを教えてくれるだけでいいというのを遠慮と受け取ったのか、強引にミニチュアまで押しつけてきて、それが持たされた紙袋の中で存在を主張してやまない。
光硬化性カーボネートの3Dスキャンだから重くはないけど、なにしろかさばって、小走りで左の足を踏み出すたびに濡れた紙袋が、ひやりぺたりとふくらはぎに触れるのが不快でしょうがない。
県道脇の歩道は片側のみで、ステンレス柵を右手に見ながら道なりに進んでいると、唐突に工場が途切れる。フロートはここまでで、人工島から湖を隔てた向こう岸には砂浜が広がっている。目を凝らせば堤防のさらに奥に湖北本線の架線がのぞいている。
幸いまだ車両の影はない。この時点で見えたらどのみちアウトなんだけど。
湖といっても、東岸のこのあたりは見通す先の先まで、弓削蒸機をはじめとした湖面工場が浮かんでいるから、フロートから砂浜をまたいで架けられた橋の下にわずかに水面がうかがえるばかりで実感はともなわない。
ただ、橋を渡ったすぐかたわらに小さな地蔵堂があり、そこに掛けられたよっぽど古そうな扁額にかすれた字で波除地蔵と書かれていることが、わずかに昔の様子をしのばせてくれる。
橋を渡れば、湖へ吹く風の影響で雨は霧消して、日の光がさんさんと降り注いでくる。
私は地蔵堂の敷地に入って速乾スプレーを取り出した。電車の時刻は気になるけど、いつまでも濡れたままでもいられない。ノズルを襟元から差し込んでプッシュすると、一気に圧縮ガスが噴出され着衣から水気を弾き飛ばし同時に乾燥させてくれる。
はずだった。
ところが、いつもならワイシャツボタンを内側から弾き飛ばしかねない爆発的な膨張も、今日に限ってはまるで起こらず、ぷしゅっと頼りない音が鳴るだけで終わってしまった。
「えっ! 嘘でしょ?!」
悲鳴も空しく、何度スプレー缶の底を叩いてみても反応はない。考えてみたら、ここのところの連日のデスクワーク以前に、いつガスを補充したか記憶にない。
たちまちスカートは腿に冷たく張りついて、スーツは一層重く肩や腕にぶらさがってくるように感じられてきた。
こうなると無用になった傘が一層うらめしい。いくら処分していいと言われたからって、社名が入っているものをおいそれと近辺で放棄するわけにもいかない。
スプレーをカバンに戻し、荷物を持ち直してなんとかベストなポジションをと苦心していると、ふと視界の端をよぎるものがあった。
誰かが笑ったような気がした。
しかし、そんなわけがなかった。県道は弓削蒸機関係の人間の利用にほぼ限られているし、農道は防風林の向こうで県道と接していないから、人影なんてどこにもない。私の右手には地蔵堂があるばかりで、祠には格子戸がつけられていてしっかりと大きな南京錠が掛かっている。そもそも小さすぎて人が入り込めるスペースがあるようにも思えなかったし、日の光がほとんど差し込まないから、中の肝心のお地蔵様さえ全身は拝むことができないつくりなのだ。
けど、そこには確かにそれがあった。
格子を縫って入り込んだ日光が壁にあたった反射で、うっすら浮かび上がってくる奥のお地蔵様の丸いシルエット。そのちょうど口のあたりで、唇が色づいていた。
弱い明かりに照らされて、ぬめりさえ帯びた赤い唇は薄暗い堂内でじくじくとうねり、まるで紅をなじませるように動いて、それが時折弧を描いてほほ笑むように思われた。
ぞっと総毛立ち私はかえって後ずさりもできず、その場で目が離せなくなってしまった。その間も唇は緩慢な動きをくり返してやまない。それは何かを語ろうとするようでもあり、声もなくただ笑い続けているだけのようにも見えた。
と、その時、背中を一陣の風がよぎっていった。それは湖に吹きつけるこの近辺特有のもので、雨に濡れた私の体から熱を奪っていった。胴震いが起こり、同時に、扁額とともに渡されたしめ縄につけられた紙垂を揺らす。
結果、わずかに差す光量が増し眺める視点に変化があって、それで十分だった。
おかげで赤いものの正体が唇でないことがわかった。
イモリだった。
ちょうどお地蔵様の顔を這いまわって、横からのぞいた真っ赤な腹が唇のように見えていただけだった。
だがそれがわかっても、納得いったような釈然としないような、あやふやな気持ちを抱えたまま、腰を屈めて立ち去るきっかけを失っていたところで、不意に踏切の鳴る音が聞こえてきた。
「やばっ!」
途端、弾かれるようにして先ほどよりもさらに足を速めて駆けだした。もう荷物のポジションなんて気にしてもいられない。
まといつくスカートや脚にからみそうになる傘をわずらわしく思いつつ、そういえばイモリの下のお地蔵様の本来の顔がどのようなものだったのか確認しそびれていたことにふと気づいた。
急いで駅まで駆けつけてきたものの、改札からは電車の姿は見えず、時刻表もまだしばらく余裕があることを知らせていた。
そもそも湖の近くにあたるこのあたりは、線路は積まれた土手の上を走っていて、対岸への行き来はトンネルをくぐり抜ける場所ばかりで、踏切が設置されている覚えはなかった。
いったいなにと聞き違えたのか疑問は残ったけど、乗り遅れなかったことにはほっとする。
湖北本線紫蕗駅の改札は今時カード乗車券にもアプリにも対応してなくて、券売機からキップを購入しないといけなかったけど、路線図には現在地表記がなくやけに遠くの駅まで書かれていてわかりにくいうえに、長年の風食であちこちが褪色していて、結局いくら支払えばいいのかよくわからなかった。
駅員さんに聞きたくても、どこにも人影がなく、改札を入って奥の事務所らしきスペースには明かりさえついていない。
しかたなく来た際の記憶を頼りに、このあたりという見当で二百七十三円のキップを購入した。
駅前には弓削工業に向かうバス停とロータリーがある他は、開けている店も見るべき名所もないから、素直に改札を抜けてホームで来る電車を待つほかない。
ホームにも日がさして、足もとのアスファルト舗装をきらきらときらめかせている。速乾スプレーの不発の分、大きく腕や脚を広げたりして少しでも湿った服を乾かしたかったのだが、よりにもよってホームにはたった一人だけど先客がいて、御丁寧に乗車位置で待っていた。
この時間帯の電車は一両編成で、乗るとするならその場所で待っているしかない。けれども閑散としたホームですぐ後ろや傍らにつけるのも、また距離をとるのもどちらにしろわざとらしくて気まずい。かといって、隅に置かれているベンチは屋根の下で日が届かないから、湿った服のまま座るのも気乗りしない。
あきらめて、できるだけ当然という顔で、先客の右隣に立って電車が来るまでを待つことにした。
タービン模型の入れられた紙袋とカバンを足もとに下ろして一息つくと、すぐに日差しが体を温めてくれる。初夏の今頃は、日の光もじりじりと肌を焦がすほどでなく、やさしく包んでくれるよう。おかげで湿った服も冷たくはないけど、それでも乾くまではいかない。
とにかく電車が来るまでに少しでもましにしておかないと。
来る時もがらがらだったのだから、昼下がりのこの時間帯だったら乗客はなおのこと少ないだろうけど、それはそれでこれはこれだ。
私は心持ち胸を張ってわきを開けて、できるだけ自然体で日光にさらせる表面積を増やせるように努めていた。
「もし」
しばらくして隣から声を掛けられた。
私より前にホームの乗車位置で待っていた先客は女性で、意識しないようにしていたけれども、着物に帯、草履まで黒で統一した着衣は明らかに喪服で、民家も多くない私鉄沿線の駅にぽつんと一人きりで肩を落とすように立っている様は異様だった。
「もし」
「はい?」
その姿に気を取られ、つい返答が遅れたために重ねて呼び掛けてきた。
「不躾かとは存じますが少しおうかがいさせていただきましてもよろしいでしょうか」
わざわざ体ごと向き直って、両手を前で揃え頭を下げてきた。
「はい?」
予想外のことで戸惑いつい声が裏返ってしまう。
「胡乱なことでお恥ずかしい限りではございますが何分不慣れなことでございまして」
喪服の女性は見たところ私と年齢もさして変わらないようだったが、大仰な言葉遣いと物腰で、しかもそれが板についているからびっくりさせられた。
「はあ」
「母もこの道はまったく不調法なものですから二人いたしまして家中を掻き回してやっと形ばかり整えたという有様ですの」
「そうなんですか」
「然様でございましてなにしろ青席は初めてでございますので」
「青席ですか」
「本当にみっともないでしょうお笑いくださいませ」
言うと私よりも先にその人は口に手を当てて笑いだした。控えめながら耳をくすぐる朗らかなものだったが、わずかに襦袢の白だけがのぞく黒づくめの喪服とはミスマッチなことこのうえない。
「大変失礼いたしましたけれども斯様な身の上ですから滑稽さの募ることも御同情いただけますでしょう」
私の戸惑いを察したものか、ピタリと笑いがやんだ。それとともに口調にやや親しさがまじりだしたような気がした。その変化にやや驚いたが、不思議といやな気持はなかった。
「それで」
「はい」
「聞きたいことがあると」
「然様でございましたまったく迂闊なことで失礼いたしました」
途端深々と頭を下げてきた。後頭部で結い上げた髪がだんごになっているのが見える。深い黒髪でこれだけ燦々とした日光もほとんど反射することがなくて、私にはどういう風に結んでいるのかもよくわからない。やがて振り上げた顔は髪の印象と相まってか、一層白く透けるようにさえ映った。
「おたずねしたいというのは他でもなく青席についてでございます本日はカゾエ様のお祭りでございますから用意されておりますけれども生憎の不調法でこの年になりますまでわたくしも母も作法を存じ上げなくて」
その人の口調は抑揚もありテンポだって速くない、むしろおっとりとしたものだったのに、何故か途中で言葉をはさむことができない雰囲気をまとっていた。
そのため最後まで、まるで内容を飲み込んだかのように聞いてしまうのだが、肝心のたずねてきている部分がさっぱりとわからなかった。
「カゾエ様に青席、ですか?」
「はいやはりご承知なのでございますねよかった見当違いで失礼申し上げるのではと懸念していたのですが杞憂で安堵いたしました」
女性は私が単語をおうむ返しにしたのを肯定ととらえたらしい。
「えっと、誰かとお間違いではないですか」
「然様につれない素振りで御冗談がお上手でいらっしゃいますこと」
また口を手に当ててころころ笑う。そのしぐさがいかにも自然で、つい彼女は私が忘れているだけの知人なんじゃないかと心配になってきた。
笑い声はしばらくおさまらず、呆気にとられていると、いつの間にか私たちの後ろには人が並んで列を作っていた。もうすぐ電車がやって来るということなのだろうが、それにしても思いもよらなかった大人数で、何列にも分かれてホームいっぱいになりそうなほどだった。
工場の業務が早めに終わったのかもという考えが頭をよぎったものの、目に入る限りで誰もが礼服を身にまとっていて出退勤とは思えなかった。
私が驚いていると、傍らの女性はいつの間にか笑いがおさまっていて、ただ余韻を口もとに残しながらこちらを見つめていた。
「なにか大変な勘違いがあるようなんですけど、私はそんな人に教えるような人間じゃなくてですね……」
「なるほど言葉ではなく見て覚えろとこう仰られるのでございますねごもっともでございますごもっともでございます」
突然私の言葉を遮ってまくしたてるようにそういいだして二礼三礼と頭を下げてきた。髪さえ振り乱しそうな激しさで、その豹変具合もさることながら、熱を帯びたような表情にたじろいで思わず身を一歩横に引いてしまった。
と、それとともに電車がホームに入ってきた。女性に気を取られていたからか、自分のわきをすり抜けていくまで気づかなかった。
音もなく電車が到着したことにも驚かされたが、中が乗客で鮨詰めになっていることも意外だった。
来た際のがら空き状態でもホームで列を作る人が全員乗れるかあやしいと思っていたのに、これではまったくお話にならない。
便数の少ないところだから不満の声があがったりしたら嫌だなと思いつつも、やがて開いたドアに乗り込んだのは私と前から待っていた喪服の女性の二人きりだった。
車掌も特に確認するでもなくすぐにドアを閉める。ガラス越しに向き合うことになったホームの面々には、別段不満気な色はなく、むしろにこにこと笑みが広がっていて、そればかりか動き出すなり拍手が沸き起こりさえしたのだった。
すぐに紫蕗駅は遠ざかり拍手も聞こえなくなったが、しかし私の頭の中ではしばらく手と手を合わせる乾いた音が響いていた。
電車はホームを後にするとすぐに田んぼに挟まれる。田植えを目前に控えて青空を映す田の面がどこまでも続いている。単線で線路脇の幅をあまりとっていないこの線では、まるで湖上を翔けるみたいな気持ちになってくる。
しかし、そうして窓外の景色を眺めていたら、あの喪服の女性が声をかけてきた。
「まあこのようなところでいけませんどうぞ中ほどにおいでくださいませ席も空いておりますから」
扉あたりで立っていた私にそういいながら、人混みを掻き分けるようにして近寄ってくる。
ようやく距離をおけたと思ってほっとしていただけに、これにはぎょっとさせられた。
「い、いえ、結構です。ほら、わたし、こんなに濡れちゃってますから」
これだけ混み合っているなかで、進行方向に対して横向きに設えられたシートがちょうど二席だけ空いているのは私も乗車した際に目にしていた。
弓削蒸機での小宮山さんとのやり取りやこれから社に戻っての報告とその対応を思うと疲れが募って腰を下ろしたくはあったけど、満員電車でいかにも誂えたような、誰かが座るのを待ち受けているような状況に不審を覚えて、敢えて車両の隅で見えないようにしていたのだ。
「あらそのような水臭いカゾエ様の日ですから当然ではございませんか」
なのに、いうなり私の手を掴んだ。女性の手はとても冷たく、まるで氷水にでも浸していたかのようで、驚いている間に強く握りしめられていいもわるいもないままに、私たちは空いていた席に隣り合って腰掛けることになってしまった。
半渇きほどにも乾燥していないスカートが席を湿らせてしまうのではないかと私はいたたまれない思いでいると、どうにもちらちらとあちこちからうかがってくる視線が刺さってきた。思いきって顔を上げて視線を確認しようとしてみても、先にそれを察して目を逸らすから誰とも正面から向き合わなかった。
けれども、そんな周囲の人々の横顔には、私に対する非難の色合いは含まれていない。だとしたら、いったいどういうつもりで、一介のOLをちらちらと盗み見してくるのか理由がわからなかった。
わからないといえば、隣の喪服の女性の行動こそ謎だった。
ホームにいた時にはあれだけしゃべりかけてきたくせに、席についてからは一切口をきこうともせず、態度も落ち着きはらってまるで今後のことになにも不安を抱いていないようだった。
もっとも私は図役線に乗り換える六洲池駅までで、その後は知ったことではないから、この変わりぶりは腑に落ちないながらも、先ほど同様質問をくり返されても面倒なのでわざわざ藪蛇になるようなことはしなかった。
やがて来た時には準急のため通過した紫蕗の次丹根毘駅で停まった。ただでさえ満員のところに、また紫蕗同様に大勢が待ち構えているのではと心配になって窓から様子をうかがっていたが、雨よけさえない簡素なホームに賑わいはまったくなく、ただ一人がぽつんと待っているだけだった。
ところが、一目見るなりぞっと鳥肌が立った。
そのぽつんと待つ客は青鬼だった。
すぐに車両の陰に入ってしまって確認できたのは一瞬だったけど間違いない。
弓削蒸機の工場のある湖はこの近辺まで岸を接していたと思うけれども、そこから上がって歩いてきたのだろうか。
不可解ではあったが、なにしろ事態は急を要しているから、考えている暇もない。しかし、車内は乗客が多すぎて下手に大声を出すとパニックになってしまうかもしれない。咄嗟に私は隣の女性に声を掛けるしかなかった。
「落ち着いて聞いてください。外に、青鬼がいます」
「はいもちろんでございますわ」
ところが返ってきた答えは思いもよらないものだった。
「いや、そうじゃなくて、青鬼ですよ。水から上がってくる」
なにかとんでもない聞き違いをしているのかもしれないと、早口で言葉を変えてみたものの、
「然様でございますなにしろカゾエ様でございますから」
と、まるで要領を得ない。
そうこうするうちに電車は完全に停車して、ガタンと派手な音をたてて扉が開いた。私は身を固くして続く悲鳴に備えた。しかし、心配した騒ぎは起こらず、むしろそれまでの電車の走行音がなくなった分だけ、車内にはしんと静寂が満たされているかのようだった。
もしかしたら乗り込んでこなかったのかと、おそるおそる先ほど私が立っていたあたりに視線を向けてみれば、青鬼はしっかりとそこにいて、ちょうど背後の扉が閉まるところだった。
長い間水に浸かり膨張しきった土気色の体を見間違えようがない。
髪ばかりでなく藻や水草を額や頬に張りつけ、その合間から瞳まで白く濁った眼球がなかば飛び出しそうになっている。服にも藻や苔が根を下ろしていて、元がどのようなデザインで色をしていたのか見当もつかない。
そうしてごわごわとこわばったズボンが濡れてまといついて、その内ではち切れそうなまでに膨らんだ脚でただでさえ緩慢な青鬼の動きを一層大雑把にしている。裸足の歩みはほとんど引きずって、最後に辛うじて足の裏で踏み込んでいる。だから満員で足元の見えない今の状況では、ずるずるずるぺたんっという音だけが迫ってきた。
それでも乗り合わせた人々は逃げたりすることもなく、ただわずかに身をよじって自分の何倍もある青鬼の巨躯を避けるようにするばかりで、その表情も強張ってはいたものの恐怖のためというよりは眉を寄せて、どちらかといえば迷惑げな色合いが濃かった。
そして青鬼も濡れそぼった肩や腰を乗客たちにべちゃべちゃと擦りつけながら分け入るばかりで、襲い掛かろうとはしていなかった。
すると、一両編成とはいえ、他にも座席はいくらもあるにもかかわらず、青鬼は私と喪服の女性が並んで腰を下ろしている前で足を止めてこちらに向き直ったのだった。
ちょうどカーブに差し掛かったらしく車体が大きく傾き、その弾みで青鬼の踏ん張りの利かない体も私達に向かって迫ってきた。
べたっと辛うじて差し出されたらしい両手が窓のガラスに打ちつけられる、軋みの混じった激しい音と震動が耳に伝わってくる。
しかしその時には土気色の顔がほとんど触れ合いそうなほどまで間近に寄ってきていて、私はまったく気が気でなかった。
遠目に見る以上に青鬼の肌は荒れて汚く、膨れ上がった肌は毛穴だったもののひとつひとつも広げて、さらにそこに泥や苔がもぐり込んでさえいる。顎を支えることもできないほどに開かれた口にはいびつな歯が、黄ばんで不揃いに生えていた。
赤みというものが徹底的に失せた口腔にも汚泥がたまり、草や苔が植わっているのが見えた。
なによりもその臭いだ。ヘドロに生ゴミの腐敗が混ざったような悪臭が、絶えずたち上ってきていた。
「ひぃっ」
視覚と嗅覚を攻める恐怖に、つい喉の奥からそんな悲鳴が絞り出されてしまった。
すると突然青鬼は体を引き上げて、背筋を正してその場に直立した。そして、しばらくその虚ろな白濁して飛び出した眼球で私の方を凝視していたかと思うと、おもむろに両手の指を下唇のあたりに掛けるなり力任せに引っ張って、何かが砕けるのにも似た鼓膜に突き刺さる音を響かせた。
正視に堪える光景ではなかったが、置かれた状況に目を逸らすこともできず、私はそうして青鬼が自分で自分の顎を外す一部始終を見てしまった。
ちょうつがいの拘束を解かれ、だらんとさがった下顎によって口は一層大きく開いていた。
それはまるで私など一口で飲み込めてしまえそうなぽっかりとした穴だった。
ガチガチガチガチガチと頭の中に突如として絶え間ない音が響き出した。恐怖のために歯の根が合わなくなって打ちつけあっているのだった。歯ばかりでない。気がつけば全身が小刻みに震えていた。踵は床につかなくなり、抑えようと腿を握る手も肩からわなないて、電車の進行とは明らかに異質な上下の振動を起こしていた。
色を失った蒼白の唇が私の眼前でぶらりと揺れていると思ったところが、突然に青鬼は向きを変えると、隣に座る喪服の女性の頭からかじりついた。
「あれ」
外れた顎で頭を咥え込むが早いか、見る見るうちに額から目、鼻と青鬼の咽喉の奥に飲み込まれていく。女性にとっても思いもよらない事態だったに違いない。かろうじてこぼれた悲鳴とも意外の嘆声ともつかない声を発した口は、笑みと驚きの両方をたたえているような風に曲げられて、そしてそれもすぐに嚥下されてしまった。
青鬼は女性の首あたりまで飲み込むと、その両腕をとってものすごい腕力で残りの体を逆さに持ち上げてしまうと、さらに咽喉へと送る速度を上げていく。肩幅などとても口に入りそうにないはずの部位が、しかし、青鬼の体内へと消えてゆく。
直視などとてもできないが、かといって横目に入る様子を完全に無視することもできず、私は人が一人消えてゆく光景を、青鬼の体内からひっきりなしに聞こえてくる、くぐもった何かの砕ける音の正体を考えないようにしながら、見守るしかなかった。
『間もなく権堂渓長坂です。お降りのお客様は電車が停車してから降車ドアより順番にお降りいただけますようお願い申し上げます』
そんなアナウンスとともに女性は完全に青鬼の体内に消えてしまった。草履の足がバタバタと震えたように見えたのは、青鬼の嚥下の身の震えだったのか、速度をゆるめはじめた電車がレールの継ぎ目で震動を伝えてきたのか、はたまた女性自身の最後の意思表示だったのかはわからない。
一駅の区間内で、一人の女性を飲み干した青鬼は、顔を天井に向け外れた顎を下げたままにしつつ、それまで以上に張り出た腹でバランス悪げにふらふらと身を揺らして、それでも足取りはさして変わらず、ずるずるずるぺたんと引きずり打ちつける歩みで乗ってきた駅と変わり映えのしない駅で降りていった。
すると同じく、それまで鮨詰めに乗り込んでいた人々までが次々と同じ駅で降りはじめた。
私はなかばあっけにとられながら、波が引くように足早に降りてゆく客の姿を見ているしかなかった。
やがて私以外には隅の方に座っている二、三人の客を残すだけになり、いかにも場末のローカル私鉄の昼下がりの様相を呈しはじめた電車のドアが閉まった。
ゆっくりと進みはじめるのを待って、私はおそるおそるふり返り、後にするホームの様子をうかがってみたが、人混みにまぎれてもはや青鬼の姿を見つけることはできなかった。
と、不意に、そうして肩越しに送っていた眼差しが、なにかをとらえた。肩の向こう、背中側にまわりこんでいるために、窓ガラスの反射で辛うじて見えたそれは、一匹の小さなイモリだった。
いったいいつからくっついてきていたのかわからない。
けれどもそのイモリは私の視線に気づいたからだろうか、途端に胴体をくねらせはじめる、いかにも赤い唇が微笑んでいるように。
あおによし 山本楽志 @ga1k0t2
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